【Ⅴ】 自由
「七百余年ぶりの王都ですが、感慨は?」
「湧いてこぬ。そなたとて同じであろう」
「多少思うところはありますがね。同じ主に七百年以上も仕えることになろうとは、と。これほど忠義を尽くす騎士は、他におりますまい」
「そなたに忠義心などというものがあったとは、さしもの私も驚きだな。そなたが私に従うのは、その方が愉快だからではないか? そなたは途方もない飽き性だが、自分でその性分を満たす術を知らぬゆえ」
「何もかも思い通りになるというのは、かえって退屈なのでね。あなたに仕えるくらいがちょうどいい。それで、我が主よ。何から手をつけるおつもりか?」
「新任の聖者に城と街の片づけをさせよ。そして、尋問担当の上級司令官を呼びなさい。誰が【超越の呪】の情報を北の支部長に流したか、調べねばならぬ」
「これはこれは。
「燃料ごときに興味を持たぬは当然のこと。ただ、神に盾突く愚か者には制裁を加えねば。急がせなさい」
「御意のままに」
「——以上が、此度のご報告になります」
シュアは、一度たりとも声を震わせずに報告を終えた。どれほど制御に長けた者でも、呪力のぶれを完全になくすことはできない。虚偽報告による動揺はもう伝わってしまっただろう。今この瞬間に、自分と人質たちの——両親の——暗い運命は定まった。分かっていても、どうにか心を平静に保とうと努力する自分が何だか滑稽でもあり、どこか愛らしいもののようにも思えた。
「ほう」
玉座に腰かけたベイデルハルクは、こつこつと肘掛けを指で叩きつつ、まずそれだけ言った。
「上級司令官よ。興味が湧いたゆえ、ぜひ聞かせてもらいたい。私に嘘が通じると思っての虚偽報告なのかな?」
「……仰ることの意味が分かりません」
「シュアと言ったな。そなたはこれまでよく尽くしてくれていた。なぜ今になって、私に反旗を翻そうと思ったのかな?」
俯けていた顔をシュアはゆるりと持ち上げた。ベイデルハルクは微笑むばかりで、その顔から感情は読み取り切れない。呪力も凪いでいるように思える。彼がシュアの呪封じをつけていれば、多少なりとも思うところが分かっただろうが、今は感情が読めないで良かったような気もした。ベイデルハルクが常人と同じ感性を持っているとは思いがたく、伝わってくる感情に恐怖を覚えたかもしれなかったからだ。
「あなたのような偉大な呪使いが、能力的に遥かに劣る私のような者を今まで重宝してくださった理由が、よく分かりました」
「言ってみなさい」
「あなたには呪力のぶれや揺らぎは分かる。けれど、起因する感情が何だか分からないのですね。だから、私のように相手の感情や考えを
どのように殺されるだろう。先ほどまで罪悪感で一杯だった心の内が、今や死への恐怖で満たされていて、シュアはそっと唇に苦い笑みを上らせた。やはり自分の中には確かに保身の念があったのだと悟る。しかし今となっては、それをも許せるような気がした。多くの者の心を読んできた。醜い感情とて多く感じ取ってきたが、そのような感情を抱いてしまうのもまた、人というものなのだろう。
「その通りだ。私はそなたらのようなものとは視野が違ってね。それゆえ、理解などできんのだよ」
ベイデルハルクが誓う者であることは、一目見たときから分かっていた。彼には隠す気がないようだった。そうなれる術を知っていたとしても、シュアは選ばないだろう。永く生きることには何の魅力も感じない。確かに、見えているものが違うらしい。
「何があろうと、私は私が知り得たことを話すつもりはございません。死罪となることも、人質が殺害されることも、全て覚悟の上ですわ。さあどうぞ、命をお取りになって」
声が震えてしまうのが分かった。微笑んでいた。覚悟を決めてしまってから、なぜだか、シュアには自分のあらゆるものが愛しく思えるようになっていた。
飛んできた光の一閃が左肩を貫いた。拳大の穴が空いた自分の身体を、初めは他人ごとのように見つめた。
「あ……ぁ……」
身体が震えて思ったように声が出てこない。その場にへたり込んで、身体から離れてしまいそうな左腕を右腕で抑えた、目で見ると凄惨な状態だが、それほど痛みは伝わってこなかった。何かに叩かれたほどにしか感じない。
「一度だけ機会をあげよう。聖女ならばその程度の損傷は治せるであろう。さあ、真実を話しなさい。話せば此度のことは不問としようではないか」
「……ふ、……ふふ。慈悲を与えるのを、初めて……見ましたわ。私のことを……惜しんでくださって?」
かたかたと止まらない震えは、おそらくは命を惜しむゆえに生じるものだった。しかし不思議なことに、やはり言葉を撤回しようという気持ちにはならない。
中央から離反したモナーダの妻が刑に処されるのを見た。最期の瞬間まで微笑んでいた彼女を、そして漂っていた澄んだ呪力を思う。人質だった彼女のあの今際は、シュアに確かな勇気を授けた。両親もああいう顔をしてくれるかもしれないと、幻想かもしれないけれどそう信じられた。
私の死も、誰かの勇気に繋がるかしら。いえ、それよりも——
次いで溢れた光が、シュアの身体を残らず呑み込んだ。死ぬだろう。運命が決まってしまうと、恐怖は息を潜めた。少しばかり時間を作り出すために、自身に光の上級防御呪【恩寵】を
「……ああ、ベイデルハルク様、お許しください! お許し……くださいませ! 私が、やったのです。全て私がやったのですわ。私、北の支部長殿を、好いておりました……力に、なりたくて……女神像の下の、隠れた研究室から、あなたの研究資料を……持ち出したのです!」
これまで数々の尋問を重ねて来たシュアは、よく理解していた。信じるに足る情報には動機と詳細が必要だった。尋問を重ねる中で知り得た真実を少し織り交ぜはしたものの——女神像の下に資料があったという点だ——ほとんどが虚構で塗り固められたこの醜い命乞い。おそらくベイデルハルクは本気にするだろう。今、ベイデルハルクの呪で包まれているシュアの呪力のぶれなど、細かには読み取れまい。さらに彼には人の機微が分からない。たとえ呪力が読み取れたとしても、この複雑な感情が——死への恐怖、両親への罪悪感、そして一握りの充足感——理解できるはずがない。
——言葉のままに、ベイデルハルクに伝えてもらって構いません。私はもう一矢報いた。死んでも何も後悔がありません。
彼女は、こうすることを選んだシュアに何を思うだろう。本来であれば、呪を扱う力でもシュアに勝っていた彼女は、騙そうと思えばシュアを騙しきることができたはずだ。それをせずに全て真実を語って、平然とそう言った彼女は。ベイデルハルクの膝元で彼を欺き、重要な情報を敵勢力に渡してのけた彼女は。
彼女は、折れなかったのだ。ベイデルハルクに何もかもを取り上げられておいて。そんな彼女だから守ってみたかった。
一方的に彼女に借りを作らせて誇らしげな顔をするなんて、という気持ちがないではない。しかし、きっと彼女は長らえたら長らえたで、また何かをなしてくれる。そう信じて逝けるから、苦痛も絶望も後悔も何もかも今ばかりは忘れ、シュアは最期の一瞬まで微笑んでいられた。
瞼に温もりを感じる。立ち込めていた闇がわずかに白んだのに誘われて、そっと目を開いた。
「お目覚めですか、シュア様」
副官の声を聞いた気がした。顔を向けようとしたが叶わなかったので、そっと視線だけを向ける。聞き違いではなかったらしく、副官のキーダが傍らにいてシュアを見つめていた。ただ、視界がぼやけていてはっきりとは見えない。
「私、は?」
死んだはずだった。砕かれた防御呪を見た。その後光に飲み込まれたのも知っている。全身が焼けていく感覚も鮮明に覚えている。どうして生きているのだろう。
「聖女の治療によるものです。あなたは一度死んだのだと同僚は言っておりました。片づけを命じられた彼があなたを運ぼうとした際、胸元に癒しの呪の光が灯って、その後あなたはすぐに息を吹き返したのだと聞いています」
「そう、ですか……よく大聖者に見咎められません、でしたね」
普段の声とは違う声が喉から出てくる。身体も上手く動かない上に視力もかなり落ちていることから察するに、未だシュアの身体は重篤な状態にあるのだろう。
それにしても、と思う。あの人は守らせてもくれなかったか。いや、守らせてはくれて、その上で彼女はシュアを救い返したのだ。上手をいかれているのは、呪の実力だけでもなかったようだ。
「ええ、混乱がありまして。王都全体が幻惑の呪で出来ていたようで、突然それが解けてしまったのです。さすがに大聖者も多少動揺していたとか。その隙に私は、同僚からあなたを受け取ってここまで逃れることができました」
「危険なことを……」
「良いのです。私は初めて、自分に誇れることをしました」
「そんな……」
身勝手な決断で、キーダをも道連れにしてしまった。申し訳が立たない。何と言ったものかも分からずに黙り込んだシュアの手を、キーダが握った。
「シュア様、お聞きください。私はあなたがかつて便宜を図ってくださった背教の下級司令官の息子なのです。父は、あなたのお陰で命を取られずに済んだ。私はあなたに御恩を返すため、側仕えをしておりました。今、ようやくそのときを迎えられて嬉しいのです。ですからどうか、私に悪いなどと思われないでください」
シュアは逡巡する。思い当たる節がないではなかった。ただそれは、自分の心を満たすための行いでしかなく——自分の身を危険に晒さない範囲で、救える者だけは救ってきた——このように感謝される行いではない。
「いえ、キーダ……私は、自己満足のためにしたことで。それに、あなたのお父様の身分までは、守れなかった」
「それでも、父はあなたに命を救われたのです。そして……自らの意志を貫いた父を誇れる、私の心もです。シュア様、あなたには感謝してもしきれません。今度は私があなたを助ける番なのです」
キーダに呪封じをつけたことはないが、彼がシュアに敵意を持っていないのは、折々伝わる呪力から感じ取ってはいた。目付け役なのにと——目付け役の副官は、主が背教を犯せばその主の位を与えられることになっているため、敵意を抱くことが多い——不思議に思っていたのだが、そのような理由があったとは。
「シュア様。ベイデルハルクに悟られないようにするために、聖女も最低限の治療しかできなかったのでしょう。あなたを今の状態のままにしておけば、もしかしたらまた命に係わることになるやもしれません。私はあなたを北の副長のところへ連れて行くつもりです。聖女のところにはもう戻れませんし……並の癒し手では、この怪我は治しきれないでしょうから。彼はあなたに借りがある。あなたが守ったのは、彼の母親ですから」
少し悩んだが、シュアは厚意に甘えることに決めた。あまりに遠慮を重ねては、ここまでしてくれたキーダの労を否定することになろう。
「分かりました……キーダ、お願いできますか」
「ええ、喜んで」
繋がれた手を見つめる。そうしながらシュアは、今しがた聞いたキーダの発言を思い出していた。
——私は初めて、自分に誇れることをしました。
シュアにはまだ、それができていない。今回のことだって自己満足ゆえのことだった。そしてやはり両親は犠牲になるだろう。だからもし助かったなら、今度こそ我が身を誇れることがしたい。犠牲にした両親の命が報われる何かがしたい。
窓と思われるところを見遣った。光が差し込んでいるらしく、温かい。
「キーダ、ありがとう」
初めて、自分の奥底にあった願いを知れた気がした。そのために生きてみようと思えた。
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