【Ⅲ】—4 独り
ミゼの口から、あの瞬間に至るまでのことが語られていく。ベイデルハルクの野心、クレイドの裏切り、母ルテルアーノの過ち、野望を止めるための婚約、紫の軍の結成、
「ランテと始まりの女神が放った光が消えた後、王都に在るあらゆるものが緩やかに活動を停止していきました。おそらくですが、あれは王の力……時の呪だったのでしょう。その力をランテ、ないしは女神がなぜ使えたのかは分かりません。でも、目的は王都から時間を取り上げ、街と命を守ろうとして、だったのだと思います。最初は上手くいったように見えました。けれど」
ゆるりと持ち上げられた右手が、左腕をなぞり上げて、肘の辺りで止まった。そこで指に力が籠められる。
「私と母は、その呪を受け付けませんでした。理由は分かりません。女神の血筋だから、というのが一番それらしい理由になると思います。母に打ち勝たなければ王都は守れない。そう思い、私は精霊移しの儀に注力しました。一つでも多く、母よりも精霊を宿さなければと思ったのです。そのために、ベイデルハルクが誓うことで時の呪から逃れたことに、気づけませんでした」
一度消えていた幻が、また浮かび上がった。精霊移しを続けるルテルアーノの姿が光の束越しに見える。これは、ミゼの視点だ。記憶を再現したものなのだろう。視界が時折滲むことから、ミゼが泣き続けているのが分かって、ランテまで泣いてしまいそうになった。
刹那、不意に世界が激しく揺さぶられた。一息の間に城が映り、空が映り、最後に瓦礫が飛び込んできて、そこで止まる。
「あっ」
細い声が上がり、光の筒が失せていく。ミゼが弾き飛ばされて倒れ伏し、その拍子に精霊移しが中断されてしまったのだ。
「消し飛ばしてやろうかと思ったが、まだ安定せんな。これが女神の用いた神化の法か」
視界が動いて、ベイデルハルクの抜殻——肉体が捨てられているのが見えた。しかしそれは、すぐに光に包まれて消滅する。
「不要なものは処分せねば」
世界が小刻みに揺れる。ミゼが震えているのだ。
「ミゼリローザ姫。私は殿下に敬意を示そう。姫として
細い腕が強引に引き上げられ、立たされる。伸びてきた手が俯いていたミゼの顔を持ち上げたのだろう、ベイデルハルクの顔が大写しになった。
「美しいが、それだけであった花よ。手折られるがいい。偶像は一つで十分でな」
そのとき、光ばかりだった世界にふいに闇が生まれた。それは光に浸透するように少しずつ領域を広げ、やがては全てを染め切った。闇以外には何ら見えない時間が久しく続く。物が認識できるほどになるほどに闇が去ったときには、瓦礫の山の上にはもう、ベイデルハルクもルテルアーノも見えなかった。
ランテには分かる。ミゼは誓ったのだ。ランテと同じように、死の間際に。誓おうとしている人間が外からどう見えるかは分からないが、ベイデルハルクが何もしてこなかったのを見るに、あの男は今ミゼが死んだと思っているのだろうか。
ゆっくりと、ミゼが王都を見渡した。精霊移しは済んだようで、もう精霊による脅威はないらしい。
しばらくすると、視界がある一点で固定された。瓦礫の中に一振りの剣が突き立てられている。ミゼは覚束ない足取りで——視界が不安定に揺れているから、おそらくそういうことだろう——そこへ向かった。
手を伸ばす。指先がそれに届くと、そっと撫ぜた。刃先に指を滑らせても、もう血は流れない。
ミゼは剣を抱いて、幾らかの時をそこで過ごした。視界は
剣を抱えたままでミゼが立ち上がる。もつれる足を無理やりに動かして、
「先ほどから妙な気配がすると思えば——あれで死なず、神化するとは」
ベイデルハルクとルテルアーノ、そしてクレイドの三人は、王城付近に佇んでいた。
「これは誓いの呪と呼ばれる呪よ。私も、そしてあなたたちも神などではないわ。人を辞めた者でしかない」
独りきりのミゼは、それでも強かった。震えていた身体は置き去りにしてきたから、もう世界は揺らがない。彼女は真っ直ぐに三人を見据えている。
「なるほど。確かにそなたの言うことは正しいやもしれぬ。神とは、神として人に認知されて初めてそう呼べるとも言えるか」
「それで、ミゼリローザよ。三人を相手にどうするつもりかな? ルテルアーノ一人と比べても、移した精霊の数で劣るそなたが、たった一人で何を
腹立たしいほどに悠然と構えて、ベイデルハルクは微笑する。
「あなたたちの好きにはさせない」
ミゼが今どんな顔をしているのかは、彼女の記憶の再現である以上確かめようがない。しかし、毅然とした声で言い切られたその言葉を聞いていると、心をぐいと引きつけられたような気になった。まただと思う。周囲を進んで従わせたくさせる、この力。王たる資格というものが、やはりミゼにはある。
「私は、始まりの王レイサムバードと始まりの女神ラフェンティアルンの血を継ぐ者。彼らが愛したこの世界を、民を、護り抜く使命がある。あなたたちのような逆賊の蹂躙を許しはしません。私は、屈しない。あなたたちの愚かな欲にまみれた野望を必ず挫いてみせる」
凛と告げ、ベイデルハルクを真っ直ぐに見る。たった一人で強敵三人に対するミゼがランテは心配でならなかったが、ミゼには少しも気圧された様子はなかった。ランテの剣を抱いたままではあったが、身じろぎ一つしないのだ。
ベイデルハルクが指先に光を灯らせたが、なだらかな闇が現れ、衣を被せるように光ごと彼を呑み込んだ。闇が去ったときには、ベイデルハルクの姿の方が頼りなげに揺らいでいた。
「自ら誓いの呪に行きついたあなたは、きっと私よりもずっと才に恵まれているのでしょう。でも、私には才がなくとも始まりの女神の教えがある。まだその姿であることの勝手が分からないあなたに、遅れは取らないわ」
ミゼの追撃は白女神が阻む。護りの光は、再び迫った闇を残らず駆逐した。
「であるならば、やはりルテルアーノを引き込んだのは正解であったな。母娘で国を取り合う様を見物しているとしよう」
そこからは、凄絶な、筆舌に尽くしがたいほどに苛烈な光と闇の戦いが繰り広げられた。呪の名など知らずとも、一目で最高位と分かる呪のやり取り。例えばここにランテがいたとしても、何もできなかっただろうと確信してしまえるほどの、異次元の戦い。しかしそれは均衡しているようで、そうではなかった。押されているのはいつもミゼの方だった。少しずつ存在が切り取られていくように、ミゼの身体は薄らぎ始めている。
「あっ……」
ミゼの手から、ランテの剣が滑り落ちた。それを抱えておくに足る実体が、もう維持できないのだ。今やミゼの身体は、霞に包まれたように淡くなっていた。
「ミゼリローザよ」
ミゼほどとは言わないまでも、ベイデルハルクも姿を揺らめかせている。よく見てみれば、ルテルアーノも多少は透け始めていた。
「最早そなたの負けは必至。しかしこちらも、そなたが今行おうとしていることをされては、器を失ったばかりの我々は消え去りかねぬ。そなたは本望かもしれぬが、そうなればここに残るのは壊れた姫一人になろう。そなたの母は今、私の言葉にしか耳を傾けぬ。そのような状態の神に等しい力を持つ者が一人で残れば、この国はどうなるか。分からないほどそなたは愚かではあるまい」
ベイデルハルクは両腕を広げ、女神像のように不遜に微笑んだ。
「ミゼリローザ。私は一つ誤ったようだ。篭絡するのはこの最初から
天に向かって差し伸ばされた指から、きらめく光が走った。それは空を二つに分かつ境となって、しばし留まり続ける。
「国はそなたと分かつのでよい。そなたは東、私は西をそれぞれ治めようではないか。劣勢にあるそなたからすれば、これ以上は望めぬ条件だと思うが、どうかな?」
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