【Ⅲ】—3 起つ者

 淡い橙の美しい王城。ランテの眼前には今、懐かしい景色が広がっていた。ミゼは幻惑の呪を用いながら、皆に王国について伝えていく。


「私は二十七代の王の姪としてこの世に生をけました。王族の人間は、物心がついた頃から王国の在り方となりたち、そして王族の役目について現王から直々に教えていただきます」


 緑に囲まれていた王城がふと揺らいだ。やがて景色を構成していた色が渦巻くように混ざり合う。今やランテの目の前には、さまざまな色が溶け合ったり呑み込み合ったりしては、また新しく生み出され合うという不可思議な光景が広がっていた。


「世界の始まりは、方向性が定まっていない祈りの集合体でした。ただ世界の存続を願うだけのエネルギーの集まりでしかなかった祈りの中に、一番に生まれたのは神でした」


 色以外には何も見つけられなかった世界の中に、だんだんと人のようなものが創り上げられていく。時間が経つたびに姿は明確になり、それが女性であることが分かって来る。


「神——始まりの女神は、祈りの力を用いて世界をかたどり始めました。まず光を生み、闇を生んだ。次に土を生み、水を生み、風を生み、緑を生み、雷を生み、炎を生み——統率者がいれば、世界は育つことができる。人が生み出されるまでに、そう長くは掛かりませんでした」


 色の渦のみだった世界が、既にランテが良く知る世界に変貌していた。空があり、陸があり、海があり、そして命がある。しかし、何かが寂しいと感じてならない。理由は、観察を続けるとすぐに分かった。


「けれど、女神には生み出すことしかできませんでした。世界が出来上がり、物に命は与えても、そこにはまだ意志がなかった。祈りが与えたのは世界が続くに足るための力だけで、そこで何をすか、どう続かせるのかまでは、祈られていなかったのです」


 自然豊かな恵まれた世界に、人々は生まれ落ちた。けれども彼らは指一本動かすことがない。単にそこに在り続けているだけだ。在るからこそ、酷く寂しく虚しい光景に思えた。


「女神は途方に暮れました。彼女は祈りの命に従ってここまで世界を創り上げたけれど、それ以上どうしていいのか分からなかった。ただ広がるだけの動かぬ世界を前に、彼女が何を感じたか——最初は祈りのつかさでしかなかった彼女が、果たして絶望や孤独を感じたかは分かりませんが、きっと助けを求めていたのは確かだったのでしょうね」


 ミゼの流した瞳がそのとき、ランテのところに留まった。一呼吸の間ほど、彼女はランテを見つめていた。最後のほんの少しだけ微笑し、また皆へ目を戻して言葉を継ぐ。


「創られた人々の中に、一人、特異な者がいました」


 絵と変わらなかった世界の中央に、ランテの意識は惹きつけられた。そこにいた一人が今、わずかに身じろいでいるのだ。


「彼は動きたいという意志を持った。その意志が、彼に力を——自ら動き、何かを為すための——時の力を与えた。人は時の流れを得て初めて、一刹那前の自分を変えていくことができます。何かを遂げたいという心の力が時を生んだというのは、きっと自然なことだったのでしょうね」


 シルエットでしかなかったが、背丈や体格からその人が男性であることはよく分かった。彼は時が経つごとに滑らかな動きを手に入れていく。


「彼が始まりの王レイサムバードです。この時点ではまだ王ではありませんでしたが。女神が命を与え、王が心を与える。この二人によって、今の形の世界が編まれていきました。真の意味で命が吹き込まれた世界に感動した女神は、精霊を遣わし、人に己の力の一部を与えた。これが後に呪と呼ばれる技術となります。呪を得た人々の世は、急速に発展していきました」


 彩度は何一つ変わらないのに、動き始めた世界は随分鮮やかで、比べものにならないほど魅力的に見えた。


「ですが」


 人が輪を成し、力を合わせて村を築く。作物を育て、狩猟を行い、やがて村同士の交流が始まる。ここまでは良かった。


 ある一人が、突然武器を手に取り、別の者を攻撃する。そこからだった。悲しくなるほどあっという間に、争いが広がっていったのは。


「心を持った人間は、自分の心を満たすために他の者を攻撃し始めました。一度争いが広まると、留まるところを知らず……やがて世界が戦いの波に飲み込まれてしまいました。意志を持った人間は、強く、そして恐ろしいものです。生活を豊かにするためにあった呪が、どんどん破壊の手段として発達していきました」


 ある者は村へ雨のように雷を落とし、またある者は人という人を炎で包み。のどかで美しかった世界はもうそこになく、悪夢と何ら変わらないような光景が広がっていた。


「命を育むために人を信頼して与えた力が、今や世界を破滅に導こうとしている。女神は絶望し、世界の創造を一からやり直そうとしました。しかし、レイサムバードはそれをよしとしなかった。彼は女神に人の争いを止めることを約束しました。一方人に感化されて暴走し始めていた精霊の鎮静は、女神に頼んだそうです。レイサムバードは、彼だけが持つ時の呪の力を使いました。時の呪の力はとても強い……やや強引ですが、時を止めてしまえば争いはそこで止まる。その力を存分に発揮し、そして弁舌も振るって、彼は人の争いを止めてみせました」


 幻のレイサムバードを見つめるミゼのまなざしには、尊敬の念と、畏敬の念、それからわずかに同情のようなものも含まれているように思われた。彼女は始まりの王を見つめ続けながら、言葉を足す。


「彼は周囲に乞われ、人の世の統治者——始まりの王となりました。平和な世の実現のために、彼は彼の持てるもの全てを捧げました。知も勇も、身も時も、すべて」


 ランテは隣で見ていただけだったが、七百年前のミゼの苦悩を思うと、ランテもまたレイサムバードを純粋な尊敬や憧憬の思いだけで見つめることはできなかった。彼も多く苦しみ、もがき、迷っただろう。世界は昔から変わらない。起とうとした者に一番の重責と苦悶を与える。ランテにはそれがとても、むごいことのように思われた。


「レイサムバードは約束を果たしたので、ラフェンティアルンも精霊を鎮めることで応えました。彼と彼女を軸に、平和な世界が築かれていきます。周囲がそう望んだでしょうし、そしておそらくは本人たちも願ったのでしょう。レイサムバードとラフェンティアルンは結ばれ、子を成します。これが王族の始まり」


 ミゼが見せる幻の中で、手を取り合う始まりの王と始まりの女神は、民から絶大な祝福を受けていた。二人に導かれ、国は富み、人々は幸せになる。とても安定した世界が生まれていた。


「戦のない国になりました。けれど、時折災害は起こりました。世界は多くの者たちの祈りからできている——祈りの方向が、いつでも同じとは限りません。祈りの行き違いはその体現である精霊の争いに繋がり、精霊の争いは災害に繋がる。ラフェンティアルンは——神としての役目を与えられただけの只人ただびとだった彼女は、世界に平穏をもたらすために、今度こそ神の身になったのです。王国の安寧を誓い、その身を精霊の器とすることで」


 過去に一度目にした精霊移しの儀が、幻の中で行われていた。力の本流——精霊たちの渦を享けながら、始まりの女神は毅然と佇んでいる。またも心が痛んだ。やはり起った者だけが、こうして痛みを全て背負い込むことになっていくのだ。


「これが、この世界と王国のなりたちです。障害が何一つなくなった王国は、その後千年の間平和に続いていきました。始まりの女神の限界が来なければ、もっと長い間続いたかもしれません」


 ミゼの声に、影が含まれ始めた。うかがうと、わずかに俯けられた瞳が、ほんの少し闇を引き連れている。


「長らく続いた平和で、王国は——というよりは、王族は、という方が正しいでしょうか。王族は、牙を失っていました。多いなる野心を抱いて襲い掛かってきたやからを退ける手段を持たず、内に飼ってしまった。それが王国の崩壊を呼び、今のこの事態を招きました」


 ミゼの表情には、自責がありありと認められた。どうしてミゼがこんな顔をしなければならないのかと思うと、封じ込めていた憤怒と憎悪がまた燃え上がってランテの胸を焼く。それらの感情はベイデルハルクや自分に対しても向いていたけれど、ほんの少しだけ、立ち上がった者ばかりを苛む世界の在り方にも向いているのを自覚して、ランテはぞっとした。こんなことを考えては、いけない。立てた指が太ももの内に深く食い込むのが分かった。

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