楽の章
1:祈りに織られて
【Ⅰ】—1 その夜
全てが済んだときには、既に夜中になっていた。まだまだすべきことは山積していたが——特に今後の方針を定めることは急務だ——今日は皆疲労が溜まっていようということで、明日各支部の代表者とモナーダとで会議が行われることになった。
本部の食堂で遅めの夕食を取ったランテは、北支部に宛がわれた本部内の部屋に戻る前に、一帯が救護室となった棟へ足を向けた。セトとハリアルの様子を見ておきたかった。
二人とも支部の要人とあって、大部屋ではなく個室に寝かせることになっていた。セトについては、負傷兵と同じ部屋に入れれば、目覚めた後無理をして治療を始めてしまう懸念もあってのことだろう。
踊り場にいた見張りに見舞いに来た旨を伝え、まずはセトの部屋に向かう。扉の前に来てから、黙って開けていいものか悩み、控えめに二回叩いてから開けた。
「ランテか?」
布団の動く音と一緒に、声がした。セトが身体を起こしつつ、声を掛けてきたようだ。
「ごめん、起こした?」
「いや、助かった。寝てる場合じゃない」
そのままベッドから降りてしまおうとするので、ランテは急いでそちらへ寄った。
「待ってセト。色んなことは明日になったから、今日はもう休んでて大丈夫だと思う」
足を下ろす場所を塞ぐように立つと、セトは苦笑した。
「分かった。なら、ここにいるから状況を説明してくれ。あの後どうなった?」
少し意外に思えるほどに、セトは落ち着いていた。幾らかほっとして応じる。動揺していて欲しいような気もしたが、そんなセトを前にしたら、ランテはどうしていいか分からない。
「あの後町にいた中央軍を皆で鎮圧したんだ。そのとき捕虜になった人は、西の人たちがティッキンケムに連れて行ったみたい。……亡くなった人もいて、そういう人は本部の広間に集めてる。数日引き取り手を探して、その後は墓地に埋葬しようって」
「戦死者の数と内訳、分かるか?」
「中央の人が多いらしいんだ。……先にティッキンケムで戦った西の人は何十人か亡くなったらしいのと、モナーダさんの兵は十数人亡くなったみたいだけど、他の支部の人たちは大丈夫。全部で七百には届かないくらいだって言ってた。あと」
重傷者のことについて触れようとして、ランテは口ごもった。それについて切り出せば、ハリアルのことに触れないではいられなくなる。だが、そう言えば戦死者についての説明は今しがた終えてしまって、そこにハリアルが含まれないことはセトに伝わっている。何の気構えもなく話してしまったが、もしかしたらセトはそれを望んでランテを誘導したのかもしれない。いつまでも黙っていられることでもないと腹を括って、ランテは続けた。
「負傷者は、今セトがいる棟が一杯になるくらいはいるんだ。千二百くらいかなって。……その、ハリアルさんも」
「支部長の容態は?」
話がそこへ至っても、やはりセトは落ち着いている。その様子に先ほどは安心したランテだったが、今度はそうはいかなかった。セトは、何が何でもハリアルを助けようとしていた。それが叶わなくはなかったが、叶ったわけでもないという結果を、彼はどう受け止めるだろう。今のように凪いだままの心で、受け止めきれるだろうか。
「……えっと……息は、しているんだけど」
言葉を丁寧に選んで答えたランテに、目を留めることしばらく。その後セトは、「分かった」とだけ返事した。やはり、不自然なほど冷静だと感じる。
「明日って言ってたけど、会議でもあるのか?」
話はすぐに別のところへ移った。今のセトの反応に対して、疑問を呈する暇も与えられない。
「あ、うん。各支部の代表者が集まって、今後のことを話そうって」
「北の代表をどうするかって話は、もうまとまってるか?」
「ハリアルさ——支部長かセトが目覚めたら任せようって、アージェは言ってた」
一度視線を流した後、セトはランテに礼を述べてきた。起きたところなのに、そしておそらく彼にとって重い事実を伝えた直後なのに、もう何かを考えている瞳をしていた。
やはり再会してからのセトはどこかがおかしい。今の彼を表すのに、どんな言葉がふさわしいだろうと考えて、一番に浮上した言葉に自分で戦慄した。狂う。それは錯乱するという意味ではなく、もっと別の……そう、たとえば古びた楽器がほんの僅かに音の調子を外してしまっているような。しっかりと耳を傾けていなければ分からない、微かな違和感の累積。そういうものを、今のセトを見ていると感じる気がする。
ユウラの洗礼を伝えてきたときの、あの無表情。ハリアルの重体を知らせたときの、この無反応。いずれの事実も、セトの心を大きく損なうに足るだけの衝撃を持っているはずだった。間違いなくだ。セトは中央に捕まる以前と以後で、人が変わってしまったように痛みに動じなくなった。そう言うと聞こえはいいけれど、全く良いことに思えない。そこまではたどり着けても、彼の中で具体的に何が起こっているのか、そしてどうすれば良いのかという答えにまでは届かなくて、ランテはもどかしくてならなかった。
「……セト、身体は?」
結局そこへ切り込む勇気は持てないまま、ランテは遠慮がちにそう尋ねた。身体の方も、もちろん心配ではあるのだが。
「半日寝てたらしいし、良くなってないと困るな」
「癒しの呪じゃどうにもならないって言ってたけど、そんなに悪いの?」
「癒しの呪は、外から作用する——基本的に外傷を癒すための技術でさ。患部が明確に分かってないと手を出しにくい。自分で身体開いて内臓見るわけにもいかないし、仮にそうできたとしても、病変部位が目に見えて分かる形になっているかも分からないしな。症状から、肺が一番まずいだろうことは分かってるけど。目覚めない支部長に、今オレがこれ以上何もできないのも同じ理由からだ」
「そう言えば、王国でもそうだった。病気とかは、薬師が薬を出してくれてた」
「それはこっちでも一緒だ。内科的なことは、薬師の領分」
それからセトは薄っすら笑んで、「頭の方は無事で良かった。考えることができなくなったら、副長は務まらないし、アージェのこともからかえなくなるし」なんて言って、おそらくだがランテを安心させようとする。しかしそんなことでは心配は拭えなくて、曖昧な笑みが浮かんだ。
少しの間、沈黙が続いた。次に口を開いたのもまた、セトだった。
「状況確認の前に言うべきことがあったな」
少々考えてみたが、『言うべきこと』は思い当たらない。首を傾げたランテを、今度は真剣な目で見つめてから、セトは頭を下げた。
「助けに来てくれて、ありがとう」
言葉を失っている間に「座ったままで悪い」と添えられて、ランテは慌てて首を横に振った。
「ううん。オレがしたくて勝手にしたことだから。本当はセトが残してくれていたように、全部の準備をしてからの方が良かったかもしれないから、むしろ謝らないといけないくらいで」
「結果的にユウラとテイトを外に出せて、中央本部を落とせたわけだから、お前が正しかった」
ランテは手の指の全てを折り込んでいた。望んでいた結果は、こうではなかった。
「……でも、支部長が。それにユウラも」
「ユウラのことは、オレたち三人が捕まった時点で決まっていたようなものだった。だから、お前がどう動いたところで間に合わなかったわけで、お前が気に病むことじゃない。支部長のことも、オレたちが捕まったことが一番の動機だと思う。お前に責はない、ランテ」
どうして、と思う。セトはいつもこうして他人から責を取り上げて、全部自分のものにしてしまう。他人に救いを与えるのはとても上手いのに、どうして自分を救うことができないのだろう。
「セトは、自分に責があるって思ってる?」
「そりゃまあ、方針決めてたのはオレだし」
「そういうことを言い出したら、そもそもオレがいなければって話になるよ」
つい向きになって言った言葉は、別の意味に取られてしまった。
「苦労して助けに来てくれたお前に、酷いこと言ったよな。忘れてくれって言って忘れられるものでもないだろうけど……八つ当たりみたいなものだった。ごめんな。どうかしてた」
「ううん、違うんだ。オレ、全然傷ついてなくて——そういうことが言いたいんじゃなくて。セトが、その、全部を背負う必要はないと思うって言いたかった」
慌てて訂正すると、今度はセトが曖昧に笑った。珍しい表情だった。よく笑う彼だが、これまでこういう意味の取りにくい笑みはそれほど見たことがないような気がした。
「最初に会ったときから思ってたけど、ランテは強いよな。精神的に、とても」
ただ褒めるのとは違う響きがある。作り損ねた笑みの原因を見つけた気がして、ランテは多少躊躇ってから問うた。
「……セト、大丈夫?」
「やることがある。だから、大丈夫だ」
即答の後、両の瞳がランテを通り過ぎて部屋の隅に向かう。追いかけて、そこにユウラが佇んでいたのを初めて知った。
「ユウラ……ここにいたんだ」
「なるべく目の届くところにいるよう言ってある」
ランテがユウラを見つめている間に、セトはランテを避けて立ち上がってしまった。
「ユウラ、食事は? もう取ったか?」
頷きが一つ返される。
「まだ休んでないだろ。オレの使った後で悪いけど、この部屋を使ってくれ。朝起こしに来るから、それまで身体を休めてるようにな」
ほとんど乱れていなかった布団を正し、彼はベッドの傍を離れる。ユウラはもう一度頷くと、入り口のすぐ横にあるシャワー室へ向かった。
「ランテ、出よう」
瞬く間に、セトを引き続き休ませるという選択肢は取り上げられてしまった。
「でもセト、もう少し休んだ方が」
「休むのはお前だ、ランテ。一日中動き回ってたんだろ?」
「セトが休んだの見たら休む」
部屋の外に出たまま、二人して立ち止まって語ることになる。食い下がったランテに、セトはまた苦笑を向けた。
「なら、負傷兵を何人か治してからでいいか? 戻った分の呪力を使っておきたいしさ」
「オレは全然大丈夫だけど、じゃあ、その前にご飯食べて。まだ食堂開いてるから」
苦笑に刹那、影が過ぎる。
「ユウラならそう言うと思って。……セト、やっぱりオレ、セトが心配だよ。身体もだけど、心の方はもっと」
今しかないと思いランテは言った。独りで静かに耐え続けて、おそらくはもう限界に近いだろう彼の心を救いたかった。ランテは頼りないかもしれないけれど、話を聞くことくらいならできる。何か吐き出せればきっと少しは楽になれるはずだ。
一拍置いてセトは微笑を浮かべ直す。それは隙のない笑みで、ああ、と思った。分かるのだ。今、線を引かれた。いや、きっと分からされたという方が正しい。
「ありがとな」
答えはたったそれだけだった。そのまますぐに歩み始めた彼の背を見つめる。セトは、荷の下ろし方を知らない。今あの背に、どれだけの負荷がかかっているのだろう。セトはランテを強いと言ったけれど、ランテにはセトの方がずっと強く見える。ランテなら、もうとっくに一人では支えきれない重さに至っているに違いなかった。
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