【Ⅴ】ー6 犠牲

 白女神の頭上にあった光が全て失せた。敵が消えて、ようやくそれをじっくりと観察することが叶う。どうやら光は、岩石のようなものに変わっている。それは宙でぐらりと傾ぐと、やがて墜落した。白女神と重なるようにちたが、彼女に被害はない。それどころか、岩石は祭壇をも貫いて墜ちていった。そこを眺めて愕然とする。不思議なことに、岩石が通って行った後の祭壇にもまた、何の被害もなかったのだ。さすがに面食らった。


 だが、今はそれよりも。ランテは慌てて振り返った。身体が重たいせいで、上手く近づけない。


「ハリアルさん!」


 テイトが防御呪を解く。土のドームの中には、浅く息を継ぐハリアルと、彼の治療を懸命に続けるセトの姿があった。傷は僅かに小さくなってはいるものの、周囲一帯が血の海と化している。顔色もこの上なく悪い。先にハリアルの言った、『延命』という言葉がちらついた。そちらに力の大部分を割いているのだろう。普段のセトならば、もっと治療は速いはずだった。


「誰か、他の癒し手を、頼む」


 癒しの呪を続けて行使しながらも、セトが言う。限界が近いだろうことは、乱れた息遣いと、感じる呪力の残量から分かった。


「オレが行ってきます!」


 ナバの返事が聞こえ、次いで駆けていく足音も聞こえた。今は上手く走れる気がしなかったので、ランテも彼に任せることにする。


「テイト、補助の呪……いや、強要の呪がいい。力を貸してくれ」


「でも、セト」


 テイトもまた、ランテたちのすぐ傍に近づいて来ていた。躊躇ったまま、彼はまた数歩、やや歩調を緩めて進んでくる。


「呪力が足りない。治療の手を休めたら、支部長が手遅れになる」


「……それ以上は、セトがどうなるか分からない」


「どうでもいい。北に必要なのは支部長だ」


「だけど——」


「早く!」


 セトが既に冷静でないのは、声色で分かった。きっと今の自分の力では足りないことを、そして他の癒し手を待つのでは間に合わないことを——あるいは、他の癒し手では手に負えないことを——理解してしまっているのだ。どうしよう。動揺がランテにも伝染してきて、ひどく迷う。これでは、テイトにセトかハリアルかを選ばせているも同然だ。そんなもの、選べるわけがないのに。


「もうやめなさい、セト」


 ハリアルは、微笑んでいた。そのままで、とても穏やかに言う。


「やめません」


「お前が持たない」


「大丈夫です」


「私に、お前を殺させる気か?」


「大丈夫、ですから」


 ランテなら、随分前に呪を使えなくなっているだろう。それくらい、セトの呪力は底が近かった。いや、もうとっくに底を突いているのかもしれない。ないものを無理矢理にかき集めて、どうにか癒しの呪を使い続けているのだ。


「先程も言っただろう。私がいなくても、北にはお前がいる」


「オレには、務まりません」


「私の目を……疑わないでもらいたいもの、だな」


 ハリアルの声は吐息と変わらないような弱さだったが、ランテのいるところまでしっかりと聞こえて来る。優しさがよく染み渡った声だった。


 彼はもう、自分の死の運命を受け入れてしまっていた。そして周囲の人間も、覚悟を徐々に作り上げつつあった。ランテも含めて、セトを除外して。当然ランテとて認めたくないし、拒んでいたい。でもランテには、死にゆくハリアルをどうにかできる手段がなかった。おそらく他の者も同じだ。何にもできないから、ただ静かに見守ることしかできない。見守ることしかできないから、同時に覚悟の準備ができてしまえるのだ。しかし、セトは違う。命を繋ぐための何かができてしまうから、諦めきれないのだ。それはきっと、とても酷なことだ。彼には、彼一人だけには、覚悟を決めるために諦めるという選択が必要だった。


「七年、共に過ごしたな」


「……やめてください」


「これまで、本当によくやってくれた」


「そんなこと聞きたくない」


「お前はいつも、期待を上回り続けてくれた。これからも、大丈夫だろう」


 最初、ランテはセトがもう答えないのではないかと思った。残量が僅かしかない呪力の操作に苦心しているのは、傍で見ているだけでもよく分かった。そちらに集中したい気持ちも大きかったはずだが、それでも彼はもう一度口を開く。


「……できません」


「いや、やれる。私が保証しよう」


「無理です」


 ランテに背を向けてかがむセトが今、どんな表情をしているのかは分からない。だが、何かを堪えるように微かに震えている声を聞くだけで、身が引き絞られるような気持ちになる。それくらいの痛みに、彼は今耐えているのだ。


「何もかも、あなたがあってのオレなんです」


 言葉こそ一言であったが、その一言が何よりも痛切に、彼の思いを形にしていた。震える声、そこに混在するすがるような響き。それはもはや哀願だった。どうしても生きて欲しいのだと。


「……他人の命への執着の半分でいい、それをお前自身に向けられたらな。そこだけがずっと気がかりだった。だから」


 声量こそ違ったものの、ハリアルはいつもと変わらない口調で話をする。ここでひとつ息をついて、より優しさを加えた声で、彼は続けた。


「お前が死ねない理由と、それから折れられない理由を残して逝こう。いいか、セト。今後の北の全てを、お前に委ねる。お前にしか任せられない。頼むぞ、セト」


 セトは答えず、ただの一度だけ、 首を横に振った。痩せてしまったその背中が震えていて、もう見ていられない。


「支部を回すだけなら、先程アージェが言っていたように、他の者でもできるだろう。だが今は、それだけしていればいいというわけではない……分かるな? お前でないといけない」


 もう一度、セトは首を横に振る。先ほどより癒しの青い光が弱くなっているのが分かる。それがハリアルの容態に直結しているのもまた、分かる。今までどうにか滑らかに話せていたハリアルの声が、途切れるようになってきた。


「酷なことを、しているのは……分かっている。だが、お前は……時間があれば、あるだけ、自分を責める……だろう。そんな時間なら、ない方が……いい……」


 焦点が定まらなくなっていく琥珀の瞳には、ずっと慈しみがみ続けている。セトにとってハリアルがそうであったように、ハリアルにとってもセトが特別な存在であったことがよく伝わってくる。


「皆も……セトを、支えてやって……くれ」


 ゆるりと彷徨さまよわせた目が、皆を向いて、やがてランテのところにもやって来た。視線を受け入れるが、そうしていると視界が曇ってきた。何かの塊が喉を塞いで、息苦しい。ずっと何かないのかと女神に問うているのに、女神はやはり何も答えてくれない。そうなるとランテには、情けないほどに、何もできることがなかった。だから、こうしてまた泣くしかないのだ。


「セト……幸せに。心配なのは、それ、だけ……」


 微笑んで伝えられたその一言が、最期になる。そう思った。ああ、ハリアルの瞳が閉じられて——


 そのときだった。傍らで、唐突に力が溢れたのは。


「え?」


 何が起こったのか、すぐには分からない。甲高いミゼの叫び声が、ランテの動揺をさらに煽る。


「駄目っ! それは駄目! 誰か、彼を止めて!」


 周りをよく見て、やっとのことで事態を理解する。何がどうなったのか分からないが、この大きな力はセトから溢れ出している。


「そうか。こうすれば——」


 届いた声が、笑っているような気がした。彼の下に、ハリアルが広げた紋と似た紋が広がり始めたのを見る。一つ制御を間違えれば途端に暴れそうな大きな力を、それでも彼は上手く扱う。ハリアルに注ぐ癒しの力が、ぐんと強くなった。これだけの力をどうやって得たのか、分からない。でも、ランテにも感じ取れた。これは、続けさせてはいけない。何か、とんでもない対価が必要な気がする。


「セト!」


「アージェ、お願い! 僕じゃ傷つける!」


 ランテの呼び声を呑み込むようにして、テイトの叫びが響いた。声の震え具合で、大変な動揺の中で発されているのを感じる。きっとテイトには、何が起ころうとしているのか分かっているのだ。受けて、アージェが動いた。止めようとは思うものの、どうしていいか分からなかったランテを通り過ぎて、彼はセトの背後へ。セトは力の制御に集中していて、そちらへ気は回らない。鋭い手刀が、勢いのままうなじへ振り下ろされた。


「支部、長……」


 声を残して、セトがくずおれる。展開途中だった紋が、ふっと消え入った。急激に膨れ上がっていた力が途端に鎮まる。強い青の光に包まれていたハリアルが、ゆっくりとランテたちの前に現れた。目を開くことこそなかったが、微かに呼吸をしているのが分かる。彼は助かった、のだろうか。


 支えていたセトをゆっくり横たえつつ、アージェが問うた。


「こいつ、今何しようとしやがった? 絶対やばいことだっただろ」


「……足りない呪力を、自分を作り出している力を転換させることで得ようとしたんだ。さっきのベイデルハルクの話と、それから支部長が使った呪を手掛かりにして、行きついちゃったんだろうね。今は使い始めたところで止められたけど、これ、セトが気づいちゃったら」


「悪ぃテイト。俺は呪はさっぱりなんだ。もう少し分かりやすく説明してくれねえか」


 深刻な顔のままアージェに頷いて、テイトは再び口を開いた。


「さっきのベイデルハルクの話、分かった? 僕らはつまり、僕ら自身も含めて、全てが呪によって創られた世界に生きている。言い換えたら、僕らは呪力そのものなんだ。だからセトは、自分を構成している呪力を使おうとしたってこと。当然、それを使い果たしたら……分かるよね。さっきセトが展開した紋、理論上完璧だったし、やり方を理解してしまったんだ」


 ランテは息を呑んでいた。


「そんなの、セトが使えるようになったら」


「……うん。まずいね、とても」


 アージェまでもが暗い目をする。セトの行動方針は分かりやすい。決まっているのだ。こんな力を手に入れてしまったら、セトは簡単に自分の身を削るようになる。それこそ、存在が消えてしまうまで。


 ミゼがハリアルの容態の確認を終えて、ランテたちを振り返った。


「傷は、応急処置程度のものは終わっています。後は癒し手が来れば、傷自体の完治は見込めるでしょう。身体の機能は戻ります。ただ」


 濃密な哀しみを宿した瞳を伏せて、続ける。


「目を覚ますかは……厳しいと言わざるを得ないでしょう。瀕死の状態で負担が大きい呪を使い続けたのと、治療がぎりぎりになってしまったのと、それから、彼自身が死を受け入れてしまっていたから……」


 外で動いている者たちの動き次第だが、一応のところ、白都ルテルの崩壊は阻止できたと言える。しかし、払った犠牲があまりに大き過ぎた。重く暗い事実を前に、誰一人身動きできない時間が、長く続いた。

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