【Ⅴ】ー5 結晶

「白女神の入れ物を破壊してくれたこと、感謝しよう、北支部長よ。これで私は、今度こそこの世界における神になれよう。本当は始まりの女神の力も共に得たかったのだがね。邪魔されたな」


 ハリアルの身体が小刻みに震えている。ランテにも覚えがあった。同じように身体を腕に貫かれたとき、ああやって——


「しかしこれでそなたは死ぬ。北は終わりだな。北が力を失くせば、東も一支部では立ち向かえんだろう。何とも容易たやすく世界の崩壊が招けそうで、拍子抜けだ。退屈なほどではないか」


 立ち上がって剣を振り上げたランテを、ハリアルの腕がまたも押し留める。痙攣しながらも、ハリアルはランテを守ろうとしているのだ。


「テイト!」


 後ろでセトの声がする。初めて聞く声色だった。ランテの足元に紋が一つ浮かび上がる。これは、前にも見た。【強要の呪】。使われようとしているのは【光速】だ。前も、こうやって。


「あ、あ、ああ!」


 言葉にならない。どうしてどうして、いつもこうなのか。あのときと何も変わっていないではないか。せめてと、伸べた手に女神の力を宿らせる。あの腕を、どうにかしなければ。早くしなければ、北の要たる支部の長が、死んでしまう。


 強制的に発動された【光速】に身体を引っ張られながら、ランテは腕に集めていた光を放った。曙色の光がベイデルハルクの腕めがけて走ったところで、その腕が透き通って、支えを失ったハリアルの身体は崩れ落ちる。半透明になったベイデルハルクの身体は、迫った光を難なく避けた。光は祭壇奥の壁にぶつかって、そこに罅を生じさせただけで終わる。


 祭壇の下まで、ランテは無理に引きずりおろされた。もう一度白女神とベイデルハルクのところへ向かおうとしたが、それよりも速く、ランテの脇を風が通り過ぎる。


「死にに来たか?」


 そう言うベイデルハルクは、半透明になったまま、白女神の身体に腕を突き立てている。白女神の身体は段々と原形を失っているようだ。彼女を構成していた光が、ゆっくりゆっくりとベイデルハルクの方へと流れ込んでいる。融合しようとしているのか。ミゼがそれを阻もうと闇呪で二人を覆うが、速度を緩めることしかできていない。


 ハリアルの下へ到達したセトを、待ち構えていたように光の粒が襲った。しかしセトとて、そうなることは分かっていたのだろう。【無風】で防ぎ、すぐさま【疾風】で逃れようとする。さすがに速い。間に合う。そう思ったのだが。


「支部長!」


 セトを止めたのはハリアルだ。自らを抱え上げた腕を掴むことで意思表示したらしい。その場に留まることになった二人を水の防御壁が覆った。全て見て、テイトが彼らをそこで守ろうとしたのだ。それでセトも動かずにいることを決めたようで、癒しの呪の光をその場で灯した。彼の表情を見るに、治療の猶予もないのだろう。何かをしないとという強い思いに急かされて、ランテも女神に乞うて再び呪力を集める。


「この世界の、人間を……めてもらっては、困る」


 切れ切れに届くハリアルの声は、瀕死の重傷を負って尚、芯を失わない。


「私が、ただで……死ぬとでも?」


 大きな紋が一つ、祭壇を呑み込むように展開されたかと思うと、その周囲に次から次に大小様々な大きさの紋が組み上げられていく。床、壁、天井。それら全てが、余すところなく紋で覆い尽くされていった。


「これは」


 最初は呆然、次に驚愕。初めて、ベイデルハルクが愉悦以外の率直な感情を見せた、とランテは思った。それは最後には憤怒のようなものに行きつく。発された声は、感情を激しく映して荒れていた。


「貴様! これは、私の——」


「ああ、伊達に……数百年も、生きていないのだな。大変、興味深い研究……だった」


「貴様ごときが、私の知の粋を理解できるはずが」


「だから、言っただろう。人間を……嘗めてもらっては、困ると。もっとも……あなたの研究の大部分を……読み解いたのは、私ではないが」


 空間を覆い尽くす紋章が、輝きを強くする。しばらくすると、白女神が創り上げた【星彩】の光の集合体が、段々と輝きを失っていく。眩しすぎてよく見えないが、どうやら端から順に光が何かの物質に変わり、光を失っているようだ。まるで日蝕のように見える。さらに目を凝らしてみれば、ベイデルハルクや白女神が発する光が、足元に広がる紋に引き寄せられているのも分かった。どうやらこの紋章呪はその二人の力を利用して——もっと正確に言うなら、消費してかもしれない——発動しているようだ。


「あなたが……軽んじてきた、人間たちの……心と、意志の結晶を……その身で、味わって……もらおう」


「貴様……許せぬ!」


 ベイデルハルクが心を平らに保てていないのは、声からも表情からもよく分かった。空いている手に光が集う。それがハリアルに向けられるが、彼を庇うようにセトが前に出た。癒しの呪が一度止まる。【無風】を使うためだろう。


「セト、オレに任せて! セトはハリアルさんを!」


 自分のなすべきことを理解して、ランテは剣に曙色の光を灯らせ、身には白い光を纏った。ベイデルハルクと二人との間に割り込んで、集まった光めがけて剣を振り下ろす。それはかわされてしまったものの、その先にはアージェがいた。白女神の身体に腕を入れたままでは、ベイデルハルクの可動域は限られ過ぎている。アージェの鉾がベイデルハルクを横薙ぎにして、体勢を立て直したランテの剣が今度こそ光を両断にした。ハリアルを攻撃しようとした呪は、それで不発に終わる。


「呪の完成まで……ここを、動けない。援護と……延命を、頼む」


「死なせません」


「分かる、だろう。いくらお前でも、これは」


「死なせない」


 ハリアルとセトの声を背後に聞きながら、ランテは剣を握った。二人を守るために、何としてもベイデルハルクに呪を使わせるわけにはいかない。


「【星彩】の発動と、ベイデルハルクと白女神の融合は私が阻むわ。ごめんなさい、後は任せることになるけれど」


「分かった!」


 ミゼも力を貸してくれている。欠けていく円形の光を見上げた。あれが残らず光を失うまで、残り三分の二といったところか。


「私の呪を盗むとは、身の程知らずもはなはだしい。塵となるがいい」


 ベイデルハルクは、ランテとアージェをそれほど認識していないようだった。今この男には、ハリアルしか見えていないのだろう。とん、と右足が軽く床に置き直されると同時に、紋が広がった。その紋で理解する。白女神が広げていたものと同じだ、【星彩】が来る。四方八方をぱっと埋め尽くした輝きを見た。光の粒の大きさは女神のものと比べて小さいが、これだけの数があると大変な脅威を感じる。どうすればよいだろう。


 ハリアルとセトを振り返る。彼らの周囲にはもう一重、土属性の防御呪が張り巡らされた。テイトだ。二人の防衛は任せよう。今はランテ自身がこの場をどう凌ぐかを考えなくてはならない。どこに逃げても光はある。何か手は。


 そのとき、ふと脳裏に浮かび上がった光景があった。目の前にいる誰かが——きっとシルエットからして男性だ——手を掲げる。すると彼を中心にして、何色とも呼べないような不思議な色の光が閃いて、次の瞬間には周りのもの——今とも記憶の中の人たちとも服装や装備が違うが、兵士たちに見える——が残らず動きを止めていた。時間が止まったようにだ。始まりの女神の記憶だろうか。


 ——やれ。


 内側で女神の声が木霊する。あれが、自分にもできるのだろうか? 分からないが、もしできるならそれは、この場にいる全員を救うことになる。対象はベイデルハルクと白女神、そして今放たれようとしている【星彩】だけに絞らなければならない。それほど器用に力の調整ができるか分からないが、女神も手伝ってくれるならば。ランテは深呼吸して、瞳を閉じた。頭の中で見た男性と同じように、すっと右手を掲げる。女神の力を借りて、不思議な色の光が満ちる想像をする。それが一閃して、照らされたものが動きを止める——


 ランテが瞼を上げるのと、赤に似た光が疾駆するのとは同時だった。それは空間全体を照らし出し、すぐに駆け去る。ランテの周りを包囲していた星のような輝きは、瞬くことを忘れてそこにただ佇んでいた。成功したか?


「……う」


 それを確認した直後、体重が三倍になったかのように重い疲労感がランテを襲った。頭がひどく痛む。白獣に呪を使ったときと同じだ。これが呪力切れの症状なのだとあの後テイトに習ったが、女神の力に自分の力を混ぜて使ってしまったのだろうか。耐え切れずに、片膝を折る。汗がつっと頬をなぞった。アージェがランテの様子に気づいて寄って来る。駄目だ、もう誰にも庇われたくない。


「これは、何だ?」


 ベイデルハルクが、呆然としている。どうやらあの男も知らない呪らしい。それならばやはり、始まりの女神の記憶の中にしかない、世界が生まれたばかりの頃に在った呪だったのだろう。女神の記憶が、ベイデルハルクに対する切り札になり得るかもしれない。他にもっと、ないのか? 問うてみても、今はもう何も教えてくれない。


 頭上を仰いだ。光の粒子の集合体はもう、残り三分の一ほどになった。もう少し、あと少しだ。あれが防げれば、白都の壊滅は避けられる。ベイデルハルクたちの計画の一端も挫けよう。術者のハリアルを、何としても守らなければならない。だからランテは、ここでこうして膝をついている場合ではないのだ。


「本当にあなたは、引き時をご存知ない」


 不意に響いた第三者の声に、立てようとした膝から力が逃げていった。この声は。ベイデルハルクの傍らの空間が裂け、そこから一人の男が現れる。銀の髪に翡翠色の双眸、携えた剣。騎士長——いや、今は聖者と言うべきだろうか——クレイドだ。


「あの男だけは殺さねば」


「どうせ死にましょう。これ以上力を奪われては、あなたの夢の成就が後ろ倒しになるばかり。その程度のこともお分かりにならないとは、いつの間にか我が主は、とんだ阿呆になってしまわれたらしい」


 憎々しげに土の護りを、というよりは、その向こう側にいるハリアルをめつけていたベイデルハルクだったが、その言葉を聞き終えてようやく両目をクレイドに移した。


「主を主とも思わぬその不敬な口の利き方は、すぐに改めよ。見れば分かるだろう。まだ白女神の力も完全には取り込めておらぬ」


「八割がたは済んでいるように見えますが? 十分でしょう」


「残りの二割があの女の手に渡る」


「構いますまい。殿下を恐れておいでか?」


 ベイデルハルクは、クレイドを見遣る目を細めた。二呼吸の間を置いて言う。


「良かろう。引こう。王城の結界は剥げたのだろうな?」


「ええ、とっくに」


 その返事を聞くと同時に、ベイデルハルクは白女神から腕を抜いた。白女神の姿は今や煙のように揺らめいていて、吹けば空気に紛れて消えてしまいそうだ。


「決着をつけたいならば、王城へ来い。そなたらが準備を整えるまでに、私が全ての準備を終えてしまうかもしれんがな」


 去って行く二人を、誰も止めようとはしなかった。ベイデルハルクとクレイドの両者を、今共に相手にする余力がないのは、誰から見ても明らかだったから。

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