【Ⅴ】ー3 あなた

「故意にではなかったのだろう。君を乞うあまり、君の複製を創り出してしまった、というのが真相だろうな。大きな力を持ってしまったゆえに、それが叶ってしまったのだ。いや、あるいは始まりの女神も力添えをしてのことかもしれぬ。とにかく、あれから七百年も経っているのに、当時のままの姿で君は現れた。記憶も引き継いでな。その事実こそが、何よりの証拠であるな。ミゼリローザは、君が死したという事実を受け入れられなかったのだ。愚かな先人が世界の死を認められなかったのと同じように」


 ランテが無反応でいると、ベイデルハルクは影のある愉悦の表情を、より深めた。


「事態が呑み込めぬか? 無理もなかろう。自分の存在が紛い物で、しかも、全く係わりのなかった他人としての生を強要されているのだからな。可哀想に。君ほど不憫な者を、私は知らない」


「……ラン、テ」


 震える声で呼ばれた。振り返る。ミゼの瞳は、今にも壊れてしまいそうなくらいに揺れていた。


「大丈夫、ミゼ」


 ランテは、ミゼに向き直った。倒れてしまいそうなほど震えている身体を、両の手で支える。


「ミゼ、聞いて欲しい。オレは別に、本物のランテじゃなくたっていいよ。言葉が悪いかもしれないけど、正直、どうでもいいんだ」


 先程から、ランテにはベイデルハルクの話が不思議でならなかった。まがい物とか、夢幻だとか、どうしてそんなことを気にするのだろうか。元が何であれ、ランテたちは今ここで生きている。それでいいと、ランテは思うのだ。


「オレが何者でも、オレはここに生きてる。もしベイデルハルクの言うように、オレがミゼに創られた偽者のランテだったとしても、オレがミゼや皆を助けたいと思うこの気持ちは本当のオレの気持ちだと思うし……だから、気にしないっていうか。それに多分本物のランテも、自分の身代わりみたいなオレがミゼの力になることをきっと喜ぶと思うんだ。オレが知ってるランテは、ミゼのことが大好きで、何よりもミゼのことを一番に考えていたから」


 草原で目覚めたときは、何者か分からない自分のことをとても怖く思った。でも今は、その気持ちが全く湧かないのだ。それはきっと、目覚めてからの日々が、今ここにいるランテを支えてくれているからだった。自分が偽者だったとしても、あの日あそこで目覚めてからの自分は一人しかいない。過ごしてきた時間も、覚えた感情も、選んできた道筋も、それは全部今のランテのものだ。だから、それでいい。


「君のその人格も、考え方も、目の前の女がそうなるように創ったからだ。虚しいとは思わんか?」


「思わない。だって今のオレは、別にミゼに操られてるわけじゃない。オレの意志で生きてる」


 もう一度ベイデルハルクに向き直る。醜い喜びが残る、それでいて虚ろな瞳を真っ直ぐに睨みつけて、ランテは言った。


「お前は、自分の考えることが何でも一番正しいって思ってるみたいだけど、それは違う。人間が変われば考え方も変わるし、そうなると正しいと思うことだって変わるんだ。一つの正しさしか認めないお前を、オレは可哀想だと思う。そんな当たり前のことも分からないなんて、お前は哀れだ」


「元来一つの正しさを押しつけて来たのは、王国の方だと私は思うがね。君が今やろうとしていることも、王国と等しい行いだ」


 ランテがベイデルハルクの言うことを理解できないように、あちらもランテの主張を理解できないだろう。現に、ベイデルハルクは顔色一つ動かさずに応じた。であるならば、次にやることは決まっている。


「……ランテ」


 セトと、彼に癒されるテイトの方に目を移したランテに——そこにハリアルもいる。様子を確認していたのだろうか——ミゼがそっと語りかけた。声にはいまだ若干の震えが残っていたが、もう、今にも壊れてしまいそうな脆さは消えている。


「私は」


 言葉はそれ以上出てこない。ミゼの心中を残らず掬い取る言葉がないようだった。眉根を下げて、瞳をゆっくり動かしながら彼女は逡巡するが、それでもやはり出てこない。そんな彼女に、ランテはそっと首を振って応じた。


「ベイデルハルクの言うことなら、気にしないで欲しいんだ。オレは、生きててよかったってとても思う。だからミゼを責めるつもりは全くないし、ミゼにもミゼを責めて欲しくない」


 まぶしいものを見つめるように、ミゼは目を細めた。ぎゅっと、片手が胸元を握る。まぶたを落として一つ息を落とし、それからミゼはランテを仰いだ。


「ありがとう、ランテ。……私は、“あなた”に何度も救われているわ」


 それが前のランテでなく、今の自分を指しているのだとよく分かったから、ランテは微笑んでいた。前のランテも自分だと思えるし、何も変わらないと思いはすれども、やはり草原で目覚めてからの方が記憶も近いし、より自分らしく感じられるのは違いない。


「見えるな?」


「うん、大丈夫」


 セトの問いかけ、テイトの頷き。最後になったテイトの目も完治したようだ。


「皆揃って幻にしか過ぎん世界と、その命とに固執するか。やはり低俗なものが生み出した命は、同じく低俗なのだな」


 ベイデルハルクは笑みを崩すことなくたたえ続けている。


「よかろう。では、来るがいい。そなたらには生きる価値など微塵もないことを教えてやろう」


 ランテは剣をぐっと、強く強く握り締めた。生きたい、世界が続いて欲しいという願いが、低俗なものとは到底思えないのだ。あの男に己の過ちを理解させるためには、力を示さなくてはならないのならば、そうするまでだ。


 ハリアルとアージェが、まず動いた。二方向からベイデルハルクに斬りかかる。アージェの鉾は空を切ったが、ハリアルの剣は胸の辺りを掠めた。純粋な速さならば、セトの剣の方が上回っている。しかしおそらく敵の動きを読み切る力で、ハリアルが上を行く。的確なタイミングで最も回避の難しい箇所を狙えるから、彼の剣はこれほど鮮やかに映えるし、成果を上げられるのだろう。


 ベイデルハルクの影が、ふいに立ち上がった。影は背後から主を羽交い絞めにする。闇呪、ミゼだ。拘束されたベイデルハルクは、身動き一つできないままにハリアルとアージェの放った刃を身に受けた。血を流すことはなかったが、刃の通ったところが一瞬だけ陽炎のように揺らめいた。


 そして、ベイデルハルクの足元から闇が湧き出る。それはさざなみを成しながらみるみる嵩を増し、やがて目標をすっかり呑み込んだ。闇呪に聡くないランテにも、ミゼが使ったのが強力な呪であったのは分かったが、同時にこれでは終わらないだろうという予感もした。


 二呼吸の間ほど、静寂が続いただろうか。刻まれた大きな紋章から氷柱が幾重も突き出したことで、平穏は破られる。テイトの防御呪だ。上級紋章の防御呪——【氷城】だったか——連なる氷柱は一挙に成長したが、それが天井に触れるよりも先に光が溢れ出る。


 光は猛烈な勢いで氷の城を破壊していったが、全て粉砕するには至らなかった。ほっと息をつけたのも束の間で、一条の光がランテの元まで走り来る。奴の思い通りになって堪るか。そう思うが、速い。どう避けようかと迷っていると、腕が取られ、身体が引っ張られた。よく知る感覚、セトの【疾風】だ。【光速】で突っ込んできたベイデルハルクの軌道から逃れる。


「ありが——あっ」


 着地したベイデルハルクがすぐさま仕掛けてくる。全員を呑み込むほどに大きな紋章を作り出したのだ。光の上級紋章呪が来る。


「テイト!」


 セトが呪力を集めながら呼び掛けると、テイトもすぐに頷きを寄越した。それを見届けて、ミゼも呪の準備に入る。少し悩んだランテも心を決めて、目を瞑った。敵の呪の対処は十分だろう。だからランテは、ベイデルハルクを狙いに行けばいい。内なる女神の力に手を伸ばす。望んだだけの力が、しっかりと手渡されるのが分かった。


 殲滅の意志を持った光がほとばしったとき、渦巻く風が一瞬の平穏をもたらした。【無風】の応用だろう。次いでテイトが、今度は分厚い岩壁を呼び出してみせる。ここまで眩しすぎて、ベイデルハルクが用いた呪が何なのか皆目分からなかったランテだが、目が慣れてくるのに従って状況が判然としてきた。部屋の中央に高々と浮かんだ光の球体、そこから光の束があらゆる方向に撃ち出され続けているのだ。岩壁はそれを受け続けていたが、やがて限界を迎える。そのときセトがもう一度【無風】で時を稼いで、再びテイトが岩壁を呼び出し直した。防御は二人に任せておいて問題なさそうだ。女神の力を借りつつ、ランテは呪を完成させる。先にミゼがベイデルハルクに立ち向かっていたようだが、決定打を与えるには至っていない。


 呪の発動前に、頭の中に描かれたイメージがあった。おそらくこれは、始まりの女神ラフェンティアルンの記憶なのだろう。彼女が以前使っていた呪の記憶が、ランテの頭の中に流れ込んできているのだ。本来ランテにはこれほど高位の呪を扱う技量はない。彼女の力をとても借りることになる。そうしてやっと、ベイデルハルクと渡り合える。


 足元に現れた紋章が一際強く輝いたのを確認してから、両手を前に突き出した。両の手の隙間に収まるほどの小さな光が現れる。曙色のそれは、すさまじい勢いで岩壁の合間を縫ってベイデルハルクに向かっていった。ミゼの呪に気を取られていたベイデルハルクは、避け切れない。粒のような光は目標に届くと、音もなくその身体の内に入り込んだ。


 当たれば身体が蒸発してしまいそうなほど強烈な光線を吐き出し続けていた球体が、途端に揺らいだ。そしてすぐに消え入る。ベイデルハルクはよたよたと、数歩よろめいた。ランテの放った呪は——始まりの女神が、と言うべきかもしれないが——呪の区分としては間違いなく上級紋章呪に連なるものだ。本来であれば着弾の瞬間に弾け、込めた膨大なエネルギーを解き放つ。しかし今回は、力を秘めたままベイデルハルクの身体に送り込んだ。あの身体の中では今、女神の力が暴れ回っているに違いない。


 先程までは光線のせいで近づけなかった前衛たちも動き出す。一番にハリアルが、次いでアージェとナバがベイデルハルクに向かっていく。ランテも剣を引き抜いて続いた。ベイデルハルクはなおもよろめきながら、初撃のハリアルの斬り下ろしを危ういところで避け、アージェの横薙ぎを柄を片手で握り込んで止め、ナバの突きは空いた手で剣の側面を叩いて受け流す。一拍遅れて飛び込んだランテは、剣を両手で握って振り下ろしたが、届く前に手首を掴まれて阻まれた。しかし、これで両手を塞ぐことに成功した。後は——


 ハリアルが、ベイデルハルクの身体の中央を狙って、鋭い突きを繰り出した。最早逃れる術を持たないベイデルハルクは、それをただ受け入れるしかない。ミゼの柔らかい闇を纏った剣が、ほのかに輝く身体に吸い込まれていく。


 相手が生身の人間ならば、間違いなく決着がつく一撃だった。しかし、敵は誓う者。全員が、すっかり動きを止めたベイデルハルクを見つめていた。きっと数瞬程度だった静寂が、永遠に続いているのではと思われるほど長く感じられた。

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