【Ⅴ】ー1 夢幻

 白というものが、こんなにも強い色だなんて知らなかった。


 大神殿の中に足を踏み入れてすぐ、ランテは居心地の悪さを感じ取った。四面どころか、天井も床も白一色で統一されているその空間は、今しがた入り込んできた白以外の色を——すなわちランテたちを——強烈に拒んでいるような気がしてならないのだ。当然、だからといって踵を返すわけにはいかなのだが、少々気圧されたことは否めない。


 靴音が響き渡るほど、静かだった。だからこそ不気味でもあった。全員で警戒しながらも、一つ目の部屋を行き過ぎる。両開きの扉を開けると、長い廊下が現れた。


「この先に白女神はいる」


 心なしか、ハリアルの声も硬い気がした。よく見てみると、廊下を半分ほど行った辺りに、薄いもやのようなものが見える。あれが結界なのだろう。


「結界の先は、恐らく強い力で満ちている。全員、心構えをしておきなさい」


 抜身の剣を携えて、まずハリアルが廊下へ一歩を踏み出した。前衛の二人がその後すぐに続く。ランテも三人を追いかけた。後ろから残りの三人も追ってくるのが分かる。


 一行が結界を通り抜けようとしたそのとき、ランテたちをふわりと淡い闇が包み込んだ。


「白女神の力にてられてはいけませんから」


 ミゼが何かの呪を使ってくれたらしい。心強く、安心した。勇んでもやの向こうに足を踏み入れる——


 熱い。


 初めに感じたのは、異常な気温だった。暑いを優に通り越して、熱いのだ。息を吸うと、胸の奥にまで熱が届いて痛い。こんなところでどうやって戦えばと思った直後に、呼吸が楽になった。


「扉一枚隔ててこれか」


 セトが言う。涼やかな風を感じた。【寒風】だろうか。


「……すみません。人の身体への配慮が足りていませんでした。副長さん、熱の対処は私が引き受けるわ。また苦しくなれば、声を掛けてくれたら」


「分かった」


 ミゼから生まれた新しい闇が、ランテたち一人ひとりを包み込む。風は去ったが、もう熱いとは感じなかった。多少暑さは残るが、これくらいならば問題なく動けるだろう。


「白女神のしわざ?」


 ランテの問いには、テイトが頷いた。


「奥から白女神の強い力を感じる。間違いないよ。何の呪かはまだ分からないけど、光と熱で町を滅ぼすつもりなんだろうね」


 ミゼの母親であるルテルアーノは、一体どういうつもりでベイデルハルクと共にあるのだろうか。全く理解することができない。


「時間が惜しいが、方針だけは定めておこう。状況がやや掴めた。扉の先には白女神とベイデルハルク。白女神は既に呪の準備に取り掛かっており、おそらく戦闘には積極的に関与しない。その呪は完成以前にも我々にとって脅威だが、それにはルノア殿が対処してくれる。ここまではいいね」


 ランテも念のためにと扉の向こうの呪力をたどってみたが、確かに二つ大きな力を感じとった。それ以外には誰もいないようだ。


「完成までの猶予は分かるか?」


「正確には……ただ、白女神が力の全てを使うつもりであれば、今すぐにということはないと思います。後は直接見ないことには……すみません」


 テイトが小さく頭を下げる。それを「いや、十分だ」と言って受け取り、ハリアルは全員を順々に見た。


「まずは大聖者に集中しよう。使う呪は光、まず間違いなく上級紋章まで使って来るだろう。高位の呪を使わせないように、前衛が牽制し後衛が呪で討つ。この形が基本だ。ルノア殿、問題ないかな。君の呪が一番効果的だろうと思う」


「ええ、構いません。ですがその前に」


 進み出たミゼが、ハリアルの剣の刃を、緩やかにひと撫でした。闇が刃に染み渡るように広がっていく。


「ただの刃では、紛い物の器を揺るがせることしかできませんが、呪を纏わせれば話は別です。ベイデルハルクの精神に異物を、つまりは他者の呪力を混入させていくことで、彼の存在は曖昧になっていく。白女神についても同じです。属性は対極にある闇が一番効果的でしょうから、私が皆さんの刃に呪を付与します。武器を使われる方は、私の前に」


 ミゼはアージェ、ナバ、セトの順に闇を分け与えた。最後にランテを振り返る。


「ランテの場合は、始まりの女神の力を使ってもいいと思うけれど、どっちがいいかしら」


 剣を見下ろし、ランテはしばし悩んだ。己の内側の女神の力に、ほんの少し手を伸べてみる。刃は、かすかに薄橙に輝いた。


「自分でやってみる」


 なるべくミゼの負担を増やしたくなかったし、女神とて戦いたいからランテの内側にいるのだろうと思うと、彼女の力を使いたいと思った。ミゼと視線を交わして、頷き合う。


「厳しい戦いになるだろう。だが、屈する訳にはいかない。偽りの歴史からの解放のため、価値なき戦の終焉のため、そして多くの命を救うため。我々の信じる正義のために、剣を取ろう。行こうか」


 やはり先頭を行くハリアルに、皆が続いた。彼の言葉に奮起されてだろう、全員の足取りが一段と力強くなったのが分かった。




 微笑む白女神と平伏す信者たちが彫られた両開きの扉が、廊下の果てには坐していた。これにも永続呪がかけられているのだろう、扉は淡く輝いている。その扉を一枚ずつ、アージェとナバが開いていく。他の者は扉の左右に分かれて様子をうかがった。扉が開き切っても、強い光が漏れてくるばかりで、警戒していた不意打ちはなかった。


「入ってきなさい」


 あの男の声がする。体内の血が一滴残らず沸騰してしまいそうな熱をこの身に感じる。削れてしまうのではないかと思うほど、ランテは奥歯を噛み締めた。どれだけ憎かろうと、今度こそ感情に支配されてはいけない。


 全員で慎重に部屋の中へ足を踏み入れた。溢れる光が強すぎて、闇が守ってくれていても目が痛むほどだった。そしてやはり、熱い。既に髪が濡れるほど汗をかいている。


「少々話をしようではないか」


 艶めく白い石が敷き詰められた床の上に、滑らかな白い絨毯が部屋を二分するように続いている。部屋の奥は数段高くなっていて、天井から白い紗が幾重にも垂らされていた。その奥に白女神と思しき女性のシルエットが見えた。彼女は全身に光を纏いながら、頭上を仰ぎ祈っている。そこにあるのは大きな光の球体だ。祈りに応えるように、それは光と熱を刻一刻と蓄えていく。


 声はするのに、ベイデルハルクの姿がどこにも見当たらなかった。部屋中を探しても見つからず、視線を祭壇と思しきところへ戻したところで、人の形に空間が歪んで彼は姿を現した。光と同色の目を微笑むように細めて、ランテたち一人ひとりを見つめてくる。


「そのような時間はありません」


 代表して答えたハリアルに、ベイデルハルクは黙して視線を注ぐ。こうしている間にも、白女神の呪は。ランテは紗の向こうで膨らんでいく光に目を向けた——


 その、直後だった。


「ああああああっ!」


 喉が千切れる、と思った。それくらいの声でランテは絶叫していた。痛い、痛い、痛い。痛いということ以外何一つ考えられない。なぜ痛いのか、それさえも。


 顔か、頭か、正確な場所だって判然としないが、とにかく痛むのはそのあたりのようだ。頭蓋の内で、何かが爆ぜているような——


「ふむ、半数か。全員目を焦がしてしまおうかと思ったが、感心だ」


「ごめんなさい、私が——」


「人の身を捨てようと、人だったときの運動能力を上回ることは難しい。もう少し外遊びでもして、反射神経を高めておくんだったな、我が妻よ。それでは守る力があっても間に合うまい」


 光に目を焼かれた、のだろうか。理解すると、より痛みが増幅する。頭蓋が砕けそうだ。


「北へ戻ることに決めたのだな、セト副長。それが君の決断なら、そうするとよい。私は止めぬ。君に尽くした副官は、見捨てられて憐れだと思うがね。さあ、三人を治してあげなさい。君の力ならどれだけ時間がかかるかな? その間で話をしよう。さすがに三人が視力を失った状態で戦うのは、分が悪かろう」


 ふと、痛みが和らいだ。激しく発熱していた眼窩がんかに、冷涼な癒しが満ちる。


「治せるから落ち着け、ランテ。じっとしてろよ」


 セトだ。真っ先にランテを治そうとしてくれているのは、恐らくランテの動揺が一番大きかったからだ。情けなくなって、また歯噛みした。


「話というのは?」


「何からでも構わんが、そうだな、ではこの世の成り立ちから話そうか」


 ベイデルハルクの声が、なぜかここで静かな歓喜を孕んだ。


「君たちがたどり着いた王国説、あれは事実だとも。現代のこよみ——白暦七三七年だが、その暦以前にはラフェンティアルン暦というものが用いられていた。確か一〇一一年まで続いたのだったかな。そうだろう、ミゼリローザ」


 ミゼの返事は聞こえてこない。


「王国の成り立ちについては、君らも王国記は読んだだろう? 始まりの王レイサムバードが戦いによって人間を束ね、始まりの女神ラフェンティアルンが精霊を支配下に置いたことにより成立したとされている。真実かどうかは女神に聞いてみる他あるまいが、私にとってはそんなことは考慮が不要な事象でね。君たちも、もっと他の疑問を持たなかったかね? ではそれ以前はどうなのかと。この世界はどう創られたのかと」


 片目の視力が、ぼんやりと戻ってくる。まだ混濁した世界に、唯一白の存在が分かるだけだ。


「……そう。あなたはそれを知ったのね」


 ミゼの声は、まるで神のそれのように平らかだった。一片の感情も個性も潜まない。それゆえに高尚な響きが備わっている。


「ほう。やはり王族には伝えられていたか。口の堅い姫だ。何度聞いても知らぬ存ぜぬの一点張りであったのに」


「それを知れば、あなたのような人が現れる。始まりの女神の懸念は、現実のものとなってしまった」


「ということは、そなたも今の世界の在り方に疑問を持っているのではないか?」


「いいえ。私は今のこの形の世界を守っていきたい。私はこの世界を愛しているから」


 痛みが引いてきて、徐々に会話が頭に残るようになってきた。ベイデルハルクとミゼは、一体何を知っているのだろうか。

 ミゼの意見を、ベイデルハルクは鼻で笑う。


「やはり愚かな王と女神の血を引くだけあって、つまらない考えに囚われているのだな。嘆かわしい」


「私から見れば、あなたの方がつまらないことに固執しているように見える。嘆かわしいのはあなたの方よ」


「では、今を生きる者たちに問おうではないか。どちらが嘆かわしいか」


 ミゼは応じなかったが、ベイデルハルクはそれを是と受け取ったらしい。これまでより声量を増やして、呼びかけてくる。


「この世界は、夢幻の、紛い物の世界なのだよ」


 静まった空間に、その声は耳に障るほどよく響いた。

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