【Ⅳ】ー2 共闘
吸い込む空気が重く、息をすればするほど、身体の動きが鈍くなっていく気がする。
デリヤが駆けつけたとき、現場で対処に当たっていたらしい二人の味方の召喚士の内、片方は倒されもう片方は立てないほどの重傷を負っていた。市民街に配置されていた兵の百余りも、まともに動けそうな者は二十程度しか残っていない。中央軍にしてはという言葉はつけど、優秀で名高いモナーダの兵でこの有様とは。
「紋を刻まれた腕を落とせば、気配は微弱になるのか。今まで知らなかったよ。それも君、【黒獣呼び】の方の召喚士だね。いやいや、元召喚士というべきだね、うん」
やたらとにやけているこの男が敵の召喚士と思しい。周囲に侍らせた呪使いに身を守らせ、召喚のための時間を稼いだのだろう。外に漏れれば中央の崩壊を呼びかねないことを——すなわち黒獣を生み出しているのは中央であるという事実を——知っているあたり、かつては上層部に食い込んでいた者だと考えられる。実力がある者か、世渡りが上手い者かのどちらかだ。侮れないと、デリヤは身構えた。
「そこまで知っていて、まだ中央に頭を垂れるのかい? 腐り切った中央貴族の椅子を惜しく感じているのかな」
相対した上級司令官は、まだ笑っている。
「ニスケルド家の当主でテムンと言うんだ。よろしくね」
兵卒が二十そこらとデリヤ一人では分が悪い。援兵が来るまで時間を稼ごうと思っていたが、相手はそれに乗る気はないようだから、やるしかない。
ひとたび白獣が呼ばれれば、光呪使いと慣れがある者以外はまともに戦えないということは、ランテから聞いていた。召喚士になるために無理やりさせられた契約だったが、今ばかりは光呪使いであってよかったとデリヤは思う。槍を突き出したまま塑像のようになった兵を見る。ああなっては、何もできない。
「片腕、なおかつ呪はそれほど得意じゃなさそうだね。中級呪をいくつか使い始めたところ、と見たけど。さあ、そんな君が白獣とどう戦う? 見せてごらん」
控えていた白獣が、進み出てくる。白獣に血を流させてはいけないならば、召喚士の方をどうにかするしかないだろう。デリヤは駆け出して、素早く白獣の足の間を潜り抜けた。この巨体だ、こうしてしまえばもうデリヤの姿を視認することはできないはずだ。
しかし。
「くっ」
自分を覆っていたはずの影が消えて、すぐ後だった。また影が差してくる。仰いだところから、何か大きなものが勢いよく落ちてくる。身を引くことでかわせはしたが、あと少しでも気づくのが遅ければ、あの蹄に押し潰されて無様な亡骸を晒すことになっていただろう。
「そう、正解だよ! 私を狙うのがいい。しかし、君にできるだろうか」
楽しげに笑うテムンとやらを、冷めた目で見つめる。この男も、早く黙らせたい類の男だとデリヤは思った。しかし、確かに白獣は厄介だ。あの巨大な身体であれほど俊敏に動けるとなると、やはり一人で勝負を決めるのは不可能か。
三本の編み込まれた尾が、デリヤめがけて突き進んでくる。それを兵たちが必死に阻むが、一人、また一人と倒されていく。尾は、まるで人の指のように自在に動かせるらしい。鋭い爪の生えた足に気が引かれがちだが、本当に注意すべきなのはあの尾だ。身を挺して知らせてくれた兵に感謝しながら、デリヤはその脇を駆け過ぎて行くのだが。
「呪が来る!」
両膝をついていた召喚士が、警告の声を上げた。振り返ると、白獣が口腔内に何かを蓄えているのが目に入る。
あれを撃たせてはならない。分かっていても、切れる手札がなかった。何の呪だかは知らないが、あの光の塊が解き放たれて無事でいられる気が全くしない。何か傍に物陰は。目を走らせて、脇道を見つけた。光は直進しかできない。あそこに入れば——
駆け込もうとした途端、そこからひゅっと何かが勢いよく飛び出してきた。矢、か?
「もーう! なんで白獣がいるのよ。デリヤちゃんのばか!」
涙目で弓を構えた黒髪の女が——リイザが、そこにはいた。よく分からない理不尽な抗議を受けながら、矢の行方を追いかけると、白獣の牙に命中したところだった。だが牙は相当に硬いと見え、矢など受け付けない。何を無意味なことをと思ったとき、後ろでもう一度声がした。
「何でもいいから、お願い!」
白獣の口の中に、突然緑色が生まれる。眩しくて見えづらいが、どうやら蔓や葉がそこで次々生まれては伸長しているようだ。
目を傷めそうな光が、さっと霧散する。口の中の異物感に、呪を使うための集中が持続しなかった。そんなところか。
「へえ、呪を使うようになったんだ」
「これしか使えないのよー。それより、どうして白獣がいるの? 防いでくれるんじゃなかったー? 逃がさなきゃいけない人がいるのに」
「知らないよ。ここは僕の担当外だ。役に立たない愚痴ばかり言ってないで、出くわしたなら手伝ってくれるかい?」
返事を聞く時間はきっとない。そろそろ白獣も体勢を立て直しているはずだ。脇道から出たところを、呪で狙われた。テムンの取り巻きの放ったもので威力に乏しく、足元を掠めたが大した負傷にはならなかった。
「騒がしい弓使いがそこにいるようだね。同じことをされると面倒だから、先に殺そうと思うんだ。そこ、どいてくれるかな?」
溜息をつく。リイザは性格上、本当に弓兵には向いていないともう何度目になるか分からないことを思った。接近されれば、弓使いは終わりだ。だから身を隠していないといけないのに、リイザは黙ることを知らない。今の居所はもう露見したから、リイザが再び狙いをつけられる場所を探して身を隠すまで、ここは動けない。不自由なことにも。
「行きなさい」
命じられた白獣が、再びデリヤのところへ駆けてくる。いつの間にか、立っている兵は五人になっていた。この数で、あの三本を捌き切れるだろうか。
尾の一つが、辛うじて立っていた一人を縛り上げた。残りの二つが左右から、デリヤを絡め取ろうと向かってくる。どうしたものかと剣を迷わせたとき、耳元を行き過ぎた声があった。
「右を、どうぞ」
声に沿い、デリヤは右から来た尾を剣で受け流し、軌道を変えさせた。想像以上の力でやや構えを崩されたが、大事には至らない。直後、左から轟音が聞こえてきて、つい顔をしかめた。
「うるさいよ。君だって貴族だろう。もう少し上品に戦ってくれないかな」
「ご高説は、わたくしに一度でも勝ってから聞かせてくださいな」
鎌の平面で尾の一つを捕え続けながら、支部連合軍総指揮官は言う。思い切り得物を叩きつけたと思われる足元の舗装には、縦横無尽に罅が入っていた。
「あなた、わたくし、リイザ、そしてユウラ。この場は、四人で収めましょう」
巻き髪を風になびかせつつ、フィレネは優雅に微笑んだ。彼女の言葉の中にユウラの名を聞いて、安堵の感情を抱いた己を自覚する。再び向かってきた尾を捌きながら、つい姿を探した。
「え、でもユウラは」
「当然、洗礼を受けていることは分かっていますわ。それでもあの子の力は並の兵を大きく凌ぐと思いますし、この場に必要と判断致しましたの。わたくしの名に誓って死なせませんわ。ですから、リイザ。ユウラへの指示権をわたくしに」
リイザの傍にあった店の門付近に、ちらりと見える人影が一つ。
——それで済んでれば、まだ良かったんだけどな。
そういうことだったか。デリヤは、あのときの、暗いものを引き連れたセトの声を思い出していた。このことに発想が至らなかった自分の生温さにどこかで呆れ、どこかで少し安堵するような、複雑な心境だった。
ユウラがユウラであれば、今の今まであんな所に控えたままでいるわけがない。フィレネの言の——おそらくはデリヤに事情を伝えるためにあえて口にしたのだろう——正しさを認めると同時に、胸が石にでもなったような不快感がデリヤを襲った。沈んでいても仕方がない。一度思い切り引いた剣を勢いよく返して、白獣の尾を弾き、追い返す。
「セトは戦わせられないって」
「あの方は、いつもいつも過保護なのですわ。わたくしの妹弟子を見くびってもらっては困ります。あなた自身で、ユウラとわたくしの力量を判断なさい」
白獣が下がろうとする。フィレネは一度鎌を戻し、それを許した。そのまま進み出て、何やら呪を使おうとしていた呪使いを仕留める。決して弱くはない中級防御呪【加護】が、何の意味も成していないのを見て、味方ながら戦慄した。
ふと、白獣に初めて対面するはずのフィレネが平気な顔をして動き回っているのが気になった。よく目を凝らしてみれば、フィレネはうっすらと光の膜に覆われている。誰か、白獣の対処法を見出した者がいるらしい。
「……分かったわよ。ユウラ、白獣がいる間はフィレネの指示に従って。絶対、死なないでよね」
「ユウラ。槍を持ってこちらへおいでなさい。あなたには囮をやってもらいます。可能な限り白獣の気を引いてくださる? くれぐれも白獣に血を流させませんよう」
「ちょっと、そんな危険なこと——」
早速異議を唱えようとしたリイザを、フィレネはすぐさま遮った。
「あなたは白獣に呪を撃たせないようになさって。ユウラは、呪以外の対処なら何ら問題ありません。危険になるかどうかは、あなた次第ですわ、リイザ」
リイザは、黙って自分の握る弓を見下ろした。そのまま答えないということは、この策を受け入れる決断をしたのだろう。
「それで、デリヤさん。あなたには召喚士の方を頼みますわ。よろしくて?」
「構わないよ」
女三人で白獣を抑えきれるか多少不安は感じるが、得物を考えても小回りの利く自分こそが召喚士を狙うべきだ。フィレネの指示は、この場における最上の策だとデリヤにも感じられる。
「では、参りましょうか」
駆け出したフィレネとユウラに続く形で、デリヤも足を踏み出した。誰かと共に戦うのは久しぶりだ。覚えた違和感と少しの不自由さが、妙に懐かしかった。
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