【Ⅲ】ー2 生命

「かかれ!」


 短髪の男の号令が響いてすぐ、武器を手にした者たちが列を成して襲い掛かってきた。こちらの前衛三人も進み出る。多勢に無勢だ。ランテも前衛に混ざろうと決めて駆け出す。


 ランテたちを守るように生まれた炎の波が、敵兵たちを呑み込まんとしたその刹那、押し寄せてきた水流に阻まれて相殺される。テイトの呪を打ち消すほどの使い手があちらにもいる。やはり準司令官は侮れない。


 ランテの目の前に槍使いが現れた。髪の長い女性だ。雰囲気は随分違ったが、それでもユウラと重なって胸が疼く。彼女が無事だったなら、きっとここに来ていただろうと思うと、余計に苦しくなった。


「覚悟」


 落ち着いた声で、槍使いは言う。勢いよく薙がれた槍を剣で受け止めた。多少痺れが襲ってきたが、受け切れないことはない。ユウラに鍛えられると大抵の長物使いに対応できるようになるというセトの言を思い出して、ランテは密かに頷いた。一度刃を合わせただけだが分かる。この相手には負けるまい。


 下がることで止めていた槍を解放する。突き二度を挟んでまた横薙ぎが来た。狙い通りの軌道を描いたそれを静かに見送って、身体の前を通り過ぎると同時に強く地面を蹴る。身体に引き寄せた剣を、強く意識した。


 やれ、やれ、やれ——


「ヨーシャ!」


 鋭い呼び声が一つ。驚いて一瞬揺るがせた剣の前に、躍り出た身もまた、一つ。

 勢いはやや減じたとはいえ、駆ける刃は止まらない。赤い熱を浴びゆくランテの前で、力の抜けた身体が倒れていく。


「あ……」


 揺らいではいけない。そう思うのに、細かな震えが全身を駆け下りた。身を挺して仲間を守ったその男剣士の行いに、今しがた切り捨てたのが、紛れもなく、血の通う心ある人間であることを、悍ましいほど明瞭に認識させられる。


「貴様!」


 庇われた槍使いが、瞳に涙を溜めながら立ち上がった。なぜか、彼女の深い青の瞳に引きつけられる。見入れば、そこには血塗れになった自分が映っていた。


 ああ、これは本当に、正しいことを為そうとしている人間の姿か?


 自分が棒立ちになっていることに、槍が迫ってきてから気づいた。喉を目がけた、渾身の突き——


 思わず、目を瞑ってしまっていた。闇の中に逃げ込んだランテを呼び戻したのは、間近で鳴ったけたたましい音だ。ちょうど槍使いが膝をついたところだった。音は、槍が落ちた音だったようだ。彼女が既に絶命しているのは、焦点の合わなくなった瞳から知れた。最期の涙が頬を滑り落ちていく。それが流れてしまうよりも前に、彼女は倒れ伏せた。


 死んでしまった。今の今まで、確かに生きていたのに。どうして彼女は、彼は、死ななければならなかったのだろう。答えが見つからない。分からないから、動けない。


「下がってていい」


 セトの声だった。ようやく槍使いの亡骸から目を離すことができた。見上げる。ランテを助けてくれたのは、セトだったのだろう。


「でも」


 言葉はそこでつっかえた。


 よく知る人が浮かべた、よく知る表情が、全く理解不能で戦慄する。


 彼はそのままの顔で、折り重なるようにして倒れた二人に目を遣った。ごく小さな声で捧げられた弔いの言葉に、ランテはますます色を失う。


 きっと、目と耳がおかしくなったのだ。それが今しがた起こったことを受け入れられる、唯一の条件に思われた。


 だって、笑えるはずがないのだ。人を殺したすぐ後に。言えるはずがないのだ。一緒に逝けてよかったな、なんて。この、とても優しいはずの人に。


「セ、ト」


「お前は殺してない、ランテ。止めはオレが刺したから。気にするな」


 言われて、視線をゆっくりと傾ける。確かに、最初に斬ってしまった男性も、首に新しく一つ傷を作っている。


 言葉が出てこない。礼など言いたくなかった。何に感謝すればよいのだ? 殺してくれてありがとう? そんな馬鹿なことが、あるものか。


「……分かった、下がってる」


 やっとのことでそう言った。声が出てきてわずかだけ安心した。身体の芯が冷え切っている。


「でも、セトも下がって」


 震えた声で続ければ、いやに素直に彼は頷いた。明らかにハリアルら三人が優勢な戦況を見つつ、二人で下がる。


 最早身体まで震え始めていた。一見普段と何ら変わらないものだから、一段と恐ろしいのだ。刷いた笑みの奥で、セトが壊れていっている。それを今ありありと見せつけられたような気がした。悪化しているのだ。最初に対峙した、先ほどに比べて、絶対に。ちゃんと分かるのに何ができるわけでもない。見ていることしかできないランテの前で、彼の心はきっと今も軋み、崩れ続けている。静かに、着実に。


 半ば茫然としたまま、ランテは戦場を眺めていた。アージェもナバも二人三人を一挙に相手にして引けを取っていないが、やはりハリアルは圧巻だった。今日は片手剣を使っている北の支部長は、ほとんどの場合においてたった一振りで勝負を決している。絶技と呼ぶにふさわしい鮮やかな剣捌きで、先ほどから続いていた震えを一時忘れてしまうほどに見入ってしまった。


 ミゼとテイトは上階の呪使いたちを相手取っており、セトは前衛の——アージェとナバの——怪我を癒している。仕事がないのはランテだけだった。皆に【加護】こそかけたものの、出来たことと言えばそれだけだった。


 こんなことでは駄目だと思う。思うのだが、人を殺すという重大な罪を身に受ける覚悟がどうしてもできない。命は唯一のもので、なくなればそれで終わりだ。もう返って来ない。一度殺された身だから、分かるのだ。あそこで命が尽きていれば、ランテはミゼを再び支える機会を持てないままだったし、セトやユウラ、テイトたちにも出会えないままだった。生きていることで手に入った喜びが、楽しさが、嬉しさが、幸せが、数え切れないほどある。生きていてよかったと心から思うし、今ある命にとても感謝している。


 比類なく尊いものなのだ、命は。敵対したからといって、その何にも代えられない無二のものを奪ってよいのか。そう考えると、ランテにはとても頷けない。


 王城や城下を染めた真紅。ワグレの骸であった白砂。ケルムの丘を埋め尽くす墓標。そして今ここで失われていく命たち。


 どの光景も、研ぎ澄まされた剣のようにランテの胸を切り裂いてくる。もうこれ以上、こんな痛みを身を感じていたくないし、誰かに感じさせたくもない。


 戦いをやめさせるのだ。今度こそ止めるのだ。もう、失われる命を、流される血を、許さない。諦めたりしない。


 すうっと、息を吸う。仰け反るくらいにたくさん、空気を取り込んだ。


「やめろ——っ!」


 魂を振り絞ったような絶叫は、四面を取り囲む建物に反響して、幾重にも木霊した。時の流れから取り残されたように、戦場にあるもの全てが停止する。


 生あるものの視界を独占して、ランテは顔を上げた。視界の隅が曙色に染まっている。


「守るために殺すのは、おかしい!」


 こんなあたりまえのことに、どうして今まで気づかなかったんだろう。


「誰かを殺さなきゃ守れないなんて、絶対おかしいんだ。そうしなきゃ生きていけないわけでもないのに、一人に一つしかない命を、誰かのために捧げたり、奪ったりなんてしちゃいけない。そんなことをして守られたら、その守られた人の命が汚れるも同然だ。犠牲なんて許しちゃ駄目なんだ。絶対、駄目なんだよ!」


 身体の内側から言葉の奔流が迸って、手がつけられない。熱がそのまま言葉に形を変えたようだった。


「皆は、人を殺すために白軍になったんですか。守るためになったんじゃないんですか。どうして、守ることと殺すことを等しく考えるんですか。おかしいって、思わないんですか」


 どうすれば、分かってもらえるだろう。熱を言葉に変えてしまうと、途端に冷えてしまう気がする。この熱のまま、伝えられたらいいのに。


「一人が皆を守るなんて無理だけど、一人が一人ずつ皆で守っていけば、無理じゃないってオレは思う。多くを守ろうとして無理をして、他の人を傷つけて、自分を追い込んで……そんなんじゃ、駄目なんだ。自分と一人を守るために、本当に誰かを殺す必要がありますか? そうしなきゃ守れないですか? 違う、違うと思います。特にここにいる優秀な人たちなら、そんなことしなくたって守れるはずだっ!」


「詭弁だな」


 冷えた声が、ランテの言葉を断った。そちらに目を遣ると、声と同じように冷えた瞳と視線がかち合った。


「お前たちは、これから大聖者様と白女神様を倒しに行くのだろう。それだって殺しではないか」


「そうです。でも、ベイデルハルクは悪いから! 今ここにいる人は、どっちも悪くないじゃないですか。何で戦う必要があるのか、大事な命を奪い合う必要があるのか、オレには分からない!」


 準司令官たちが、揃って呆れたような顔でランテを見ているのが分かる。すぐには返す言葉も出てこないほど、ランテの言うことが理解不能だったのだろう。


「悪だの善だの、それで刃を向けるのなら、貴様のやろうとしていることは、私たちと変わらない。私たちにとっての悪は、この町に害を与える者たちだ。だから今こうして貴様らに剣を向けている。悪を滅ぼすために」


「本当の本当に、支部連合軍の人たちが悪いと思っていますか? 白獣を呼ぼうとしているのも、白女神が強力な呪を使おうとしているのも、全部ベイデルハルクの指示なのに、それに対抗しようとしている連合軍が、本当に悪ですか? 一番町に害を与えようとしているのは、ベイデルハルクなのに! あなたたちが連合軍に剣を向けるのは、悪を倒そうとしてのことじゃない。自分より圧倒的に強い者が怖くて、逃げて、逃げたくせに逃げたことを認めたくなくて、無理やりできることを見つけただけだ!」


 呆れ顔が、一つ、また一つと見えなくなっていく。皆、顔を俯けていくのだ。少しは響いただろうか。そして、言うべき相手は彼らだけではない。ランテたちは、次に仲間たちの方を見た。


「……皆もです。時間がないのも分かりますけど、簡単に人を殺す決断をしちゃいけないと思う。相手は黒獣じゃなくて、同じ人間だから。ここで全員を倒しても、また後から背後を突かれることだって、あるかもしれない。これだけの人を殺しても、手に入るのが不完全な安全なら、やめた方がいいんじゃないかなって思います」


 六人は黙ってランテを見つめている。じきにハリアルが準司令官らに視線を移して、問うた。


「どうされる?」


 動揺が、準司令官ら全員の間に広がっていったのが分かった。ランテからだけでは受け入れられなくとも、それを受けてハリアルがこう言ったことで、先の言葉がより大きな影響力を持ったようだ。


「……私たちがここで貴殿らを謀る可能性は考えられないのか」


「ここにいる方々は、礼節と誇りと、そして信念は持っておられると見ている」


 静かに受け取り、準司令官の長は倒れた仲間たち一人ひとりに目を向け——一度目を強くつむった。しばらくそのまま佇み続けて、やがてゆっくりと踵を返す。


「各自判断は任せる。まだ戦いたい者はそうしろ。私は町と町民の護衛をする」


 敵だったはずの相手に背を見せて駆け出した彼に、その後、多くの者が続いた。行かなかったのは二人で、その二人はランテらに刃を向けることはなく、ただ骸と変わってしまった誰かの前に佇んでいる。


 ランテもまた、覚めることのない眠りに落ちた二人の準司令官を見つめていた。助けられたかもしれない命だった。もっと早くに、諦めずに声を上げていればよかったのだ。そうすれば彼らは今も生きていたはずだった。死ぬことなんて、なかったはずだった。


 悲しかった。苦しかった。切なかった。悔しかった。分かったのはそこまでで、その後は名前がつけられない、多くの感情がランテを呑み込んだ。


 そっと頬に触れる。指先に移った血に視線を落として、誓うように握り込んだ。失われた命は取り戻せない。自分で実感したことだ。彼らはもう生きられない。それは覆せない。だから、自分が至らないせいで失われてしまった命を、せめて覚えておこうと思った。


 彼らの命を無為にしないために、もう二度と、無益な戦いを起こさない。どんなに厳しい状況でも、それを貫こう。


 直接彼らに報いることはもうできないから、ただの自己満足でしかないのだろうけれど。何もしないなんて、そんなことは自分に許せなかった。

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