【Ⅱ】ー6 洗礼
「では、ルノア、ランテ、セト、アージェ、そして私の五名か」
ハリアルの声によって、ランテは深い思考の海から引き揚げられた。
「支部長、僕も同行します。敵の呪の対処は僕がします」
テイトに視線が集まる。目の下に濃い隈ができているのを見た。彼もまた、万全からは程遠い体調であるのは疑いようがない。
「ルノアさんには敵に集中してもらえるように、僕が防御呪を担当します。手が回らないときには、後衛に回るだろうセトの手も借ります。僕らは連携も取り慣れているので」
テイトの身体とて心配だったが、先のことがあるので安易に止めることはできない。心配が顔に出てしまうのが分かったが、ランテがそれ以上は我慢して周囲を窺っていると、ハリアルが頷いた。
「では、テイトも加えて六人で。フィレネ副長、東はどうする? 北に任せてもらって構わないか」
フィレネは頬に置いていた右手の人差し指を二、三度置き直す間、黙っていた。
「……ナバを同行させます。よろしくて?」
「構わない」
「他の兵も出せますけど、あまり数が増えるとそちらも動きにくいでしょう。ナバに見届け人を務めてもらいますわ。あの子なら相応しい腕がありますし、北の皆さんとも慣れ親しんでいますから、ある程度連携も取りやすいかと」
「ああ。ただ、本人の意志も確認してやって欲しい。相手は白女神だ」
「否とは言いませんでしょうけど、分かりましたわ。では白獣征伐と民の避難については、わたくしが東支部副長の名に懸けてやり遂げます」
二人の話がまとまると、この場にいる人間のほとんどの動きが定まった。その中でまだ所属の決まらないリイザが、落ち着かない様子でセトを見上げる。
「セト、私を呼んだのは何で? そっちに入った方がいいってことー?」
「……いや、そうじゃない。お前には別に頼みたいことがあって」
「何ー?」
リイザが首を傾げたのを見届けてから、セトは背後を振り返った。そして、呼ぶ。
「ユウラ、来てくれ」
兵舎だろうか、本部内にあるにしては質素な建物の陰から彼女は姿を現した。
「ユウラっ!」
彼女もまた中央の制服に身を包んでいたが、歩き方を見るに怪我はなさそうだ。ほっとしてランテは叫んだが、彼女が近づいて来るにつれて、安堵が壊れていく。
反応がないのだ。呼びかけに。感情がないのだ。その瞳に。
「え……」
ユウラはセトの隣まで歩んできた。そして、静かに彼を見上げる。その場にいた全員が口を閉ざしていた。おそらくは、惨すぎる真実にたどり着いてしまったがゆえに。
「リイザ。お前にユウラを頼みたい。連れては行けないから」
淡々と、セトは言う。
「え、……え? ユウラ? ユウラー?」
リイザは不規則な足取りでユウラに寄ると、頬を何度か軽く叩くようにしながら呼び掛けた。しかしユウラは微動だにしない。まるで人形のごとく。
「……どういうこと?」
ユウラに触れていた手が、声と一緒に落ちた。リイザの目はもう潤んでいる。
「どういうことなの、セト……」
セトは、面でも被っているのではないかと思うほど、完全な無表情を維持していた。その様を見ていると、身体の芯から凍っていくような心地がした。セトが、何も思わないわけがないのだ。それなのになぜこんな表情ができるのだろう。分からない。セトが全く分からない。
「ユウラは、洗礼を受けさせられた」
言葉を聞く前から、分かってはいた。それでも聞く前までは、どこかに間違いであって欲しいという願いが息づいていて、きっとランテはその願いに
「嘘、嘘よそんな……せっかく生きて出てこれたのに。中央白軍が倒れたら、妹とだって会えるはずで……ね、ユウラ。ねぇ、ユウラってばー……ユウラっ!」
途中から縋りついていたリイザは、終いにはしがみついて激しくユウラを揺さぶった。それでも何の反応も示さないユウラを見て、リイザはやがて泣き崩れる。彼女が零す嗚咽しか聞こえない時間が、しばらくの間続いた。
「……ユイカさんに」
自分が言ったのだと気づくまでに、しばらくかかった。全員がランテを見ているのを悟って、慌てて言葉を継ぐ。
「ユイカさんに、会ったんだ。ユウラのことをお願いされて、助けるって約束して…………北で、ノタナさんにも、……っ」
震え始めていた声が、ついに途切れてしまった。代わりに涙が流れ出てくる。泣き声を上げそうになるのを必死に堪えながら、ランテは幾度も涙を溢れさせた。泣いてしまったら、今目の前に佇む虚ろなユウラを受け入れないといけない気がして、だから泣きたくなんてないのに、涙は後から後から溢れ出る。信じたくなんてない。だって、眼裏には豊かな表情のユウラがいるのだ。勝気に瞳を輝かせるユウラ、優しく微笑むユウラ、呆れて溜息をつくユウラ、無茶を叱るユウラ、力不足を悔しがるユウラ——こんなにも鮮やかに蘇るのに、今ここに立つユウラは同一人物であることが嘘みたいに静かなのだ。こんなこと
しかし、ランテはもう知ってしまっていた。どんなに拒みたくても、事実というものはいつでも頑として存在してしまっていて、取り消すのは不可能だということを。だから、泣くのだ。そうすることしかできないから。
どうしてだろう。なぜ、ユウラがこんな目に遭わなければならなのだろう。深い悲しみで麻痺した頭では、もうそんなことしか考えられなかった。
「リイザ。絶対に信頼できる相手にしか任せられない。お前しかいない。ユウラを頼む」
「頼むって、どうしたら」
「町の外に連れ出してやってくれ。こんな状態で、戦わせられない」
どこまでも平静に語るセトを、両目を真っ赤にさせたリイザが、勢いよく睨めつけた。
「……セト! 何でセトは、そんなに平然としてられるの! ユウラが今まで、どんな気持ちでセトの傍にいたか——」
「リイザ!」
鋭い声で言葉の奔流を遮ったのは、テイトだった。彼もまた痛みを刻みつけられたような顔をして、しかしその後は穏やかに語る。
「ユウラも僕も、死ぬかもしれないって分かってセトについていったんだ。自分の意志で。セトは何度も僕らを止めようとしたし、最後まで僕らだけは逃がそうとしてくれた。自分の身は顧みないでね。だから、セトを責めないで」
テイトはそこで一度やめて、そっとセトを見た。セトの方も彼に視線を返す。さっきからちっとも変わらない目をしていた。まるでセトまで洗礼を受けてしまったみたいだ、とランテは思う。テイトはますます痛そうな顔をして、小さな声で続けた。
「……セトは、大丈夫じゃないよ。全然、大丈夫じゃない」
そう言われて、セトはしばしテイトに目を留めていたが、何かを言うことはなかった。リイザは硬直したように動かなかったものの、再びセトに視線を戻されたことで我に返ったらしい。
「セト、ごめん。私……気が動転して……ごめん」
「いや。責はオレにあるから。ユウラを守れなくて、悪かった」
何か、何かがおかしい。セトの言葉がひどく無機質に聞こえる。普段から感情的に話す方ではないが、言葉の節々にはいつだってほんのりとした熱が宿っているようにランテには感じられていた。それなのに、再会してからはほとんどその熱が伝わってこない。ずっと彼に覚えていた違和感は、このせいだったのだ。
口調や選ばれる言葉、時には表情だって、どれもとても彼らしい。だからこそ感じる微妙なずれが、ランテにはずっと恐ろしく感じられていたのだろう。
——自身の呪力の変質が分からないあなたではないでしょう。
セトと再会した直後の、ミゼの言葉を思い出す。それに続くように、呪を習っていたときにテイトが教えてくれたことが蘇った。
——呪力って面白くてね。契約している精霊の影響も受けるけど、何よりその人の性格が強く反映されるんだ。穏やかな人は呪力も穏やかだし、明るい人は呪力もどこか溌溂としてる。その微妙な差によって呪の適正も変わるんだ。攻撃呪が向いているとか、防御呪が向いているとか、属性の合う合わないもね。もちろん呪力だけでその人の全てを理解することはできないけど、一助にはなるから、日常生活でも役に立つよ。ランテも呪力読み、練習してみる?
残念ながら、ランテはまだ上手く呪力読みができない。だからミゼの言う『変質』は理解できないが、先のテイトの「大丈夫じゃない」という言葉も加味すると、それはきっと真実なのだろう。呪力が変質したということは、内面が大きく変化したということではないか。今のセトは、『いつものセト』を自分で演じているだけのような状態なのでは? そうしなければいけないほどの変化が内側に起こっているのだとしたら、もしかしたらそれは、身体的な損傷よりもずっとずっと深刻なことかもしれない。
きっと、ランテが感じているこの悲しみ以上に、セトは何かを感じたはずだ。一緒に過ごした月日一つとっても、ランテよりもずっと長い。感情の深さを比べるつもりはないけれど、ランテでさえ今、心が細かく千切れてしまったような感覚を味わっている。この惨すぎる事実は、彼を変えてしまうに足る衝撃があって何ら不思議ではない。
「ユウラのことは、事態が収まったら改めて考えよう。リイザ、頼めるな?」
「……はい」
また新しく涙を浮かべながらも、リイザはハリアルの言にこくりと首を振った。
「ユウラ。オレが戻るまで、リイザの指示に従うように。引き続き何より自衛を優先してくれ」
セトに言われると、了承したようにユウラは顔をリイザに向けた。リイザは視線を受け取って、唇を噛み、一度目を閉じた後にゆっくり立ち上がって、どうにか笑みを広げた。
「ユウラ、行きましょー」
高いだけで強さの足りない、痛ましい声だった。無理に笑い続けて、リイザはユウラの手を引いていく。その様子を全員何とも言えないままで眺めていた。彼女らが出て行ってしまってからも、沈黙は長く尾を引いた。
「わたくし、ナバを呼んで参りますわ」
ややあって、フィレネが踵を返す。それを受けてハリアルが声を上げた。
「では、ナバが来次第本部へ突入しよう」
ランテは、服の袖で顔を拭った。泣いている場合ではなかった。何をするにしても、まずは中央本部を落とし街を守らなければならない。もしかしたら本部内に、ユウラを元に戻すための手立てだってあるかもしれないのだ。それが不確かな希望に縋ろうとするような、至極危ういことだと分かってはいても、何か
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