【Ⅱ】ー5 憐憫

 緩やかに吹きつける風に、群青のマントが翻っている。その風が鎮まったとき、はためいていた群青の後ろには、もう一人続いていたことが分かった。


 息を呑む。胸を熱が満たした。ああ。


「テイト!」


 思わず駆け出そうとしたランテの視界の端から、ふっとセトが消える。何事かと思って目をそちらへ戻すと、彼はその場に座り込んでいた。


「セト」


「……大丈夫だ。気が、抜けただけで」


 微かな息を長くついて、セトはそこに留まっている。傍にいた小隊長たちが口々に安堵の声を上げた。テイトがハリアルを追い抜いてこちらへやって来る。


「また無茶をして」


「良かった、無事で」


「自分のことを心配して。呪力が、何か——」


「本当に良かった。ごめんな、テイト。本当に」


 互いに一方通行に声を掛け合うテイトとセトを、ランテは何とも言えずに見守った。無事で良かったという喜びと、二人にこんな苦境を強いた悔しさとが綯い交ぜになって喉を詰まらせるのだ。


「セト、状況は」


 遅れてやって来たハリアルが、セトを見下ろして問う。一度立ち上がろうとして叶わず、諦めて座り込んだまま彼は答えた。


「北、東、それから南の連合軍が門の外に。精鋭揃いで、見たところ数は三千足らずです。テイトが戻ったなら、オレたちの方にも戦う理由はなくなりました。ここに残っている中央兵たちは指示に従ってくれるようなので」


 控えていた中央兵たちはそれぞれ頷いた。ハリアルは彼らにしばらく視線を留めていたが、何の反応も返さずにセトに目を戻す。


「身体は」


「動きます。……今はこうなんで説得力ないですけど。気が抜けただけなので、すぐにでも」


「ハリ……支部長、セトは——」


「ランテ」


 セトに目で咎められるが、ランテは頭を振った。このまま無茶を続けたらセトは本当に死んでしまう。


「熱がすごいんです。本当に熱くて。咳も……血が出てて」


「セト。隠さずに話しなさい。動いて平気か、平気ならば何割の力が出せるか。思わしくないのは見ていて分かる」


 ランテに頷いてから、ハリアルはもう一度セトに目を戻した。セトの方はすぐには答えない。返答に悩んだように見えた。


「……動けます。呪の方は問題なくやれます。呪力もまだかなり残しているので。剣の方は、七割……いえ、六割程度なら」


 ハリアルに見つめ続けられたことで下方修正して、セトは目を伏せた。膝の上に置いていた手に力が入ったのをランテは見た。思うように動かない身体がきっともどかしいのだろう。


 結界の向こうで連合軍もハリアルの登場に驚き、一度攻撃をやめたらしい。壊れかかったままで結界は維持されている。


「連合軍の総指揮はフィレネ副長か?」


「はい」


「結界を解いてもらってくれ。伝達したいことがある」


「分かりました。……支部長」


 ハリアルを呼び止めてから、セトは地に手を突いて支えにしつつ、ゆっくりと立ち上がった。


「テイトを、ありがとうございました」


 頭を下げて、セトは言う。ハリアルは彼が頭を上げるまでそれを見守り、目が合ってから応じた。


「これまで、お前たちに——特にお前に、大きな苦労を掛けてきた。すまなかったな、セト」


 瞳を陰らせて俯き首を振って、それから何かを言おうとしてやめ、セトは顔を上げた。


「行ってきます。……オレが門の前まで近づいたら、結界の解除を頼む。話をつけてくるから」


 先にハリアル、次に中央の呪使いたちに向けて声を掛け、彼は剣を納めると門まで進んだ。一人で行かせて大丈夫なのか。ランテは不安な顔でハリアルを見上げたが、頷きを返されたので留まることにした。


 多くの罅によってもはや白く濁っていた結界が、陽炎のように揺れて、やがて消える。セトは帯びていた剣を鞘ごと外して、破壊され尽くした門の前に立っていたアージェへ、それを投げ渡した。


「フィレネ副長と話がしたい。呼んでもらえるか? 拒まれたらお前でもいい。そっちには武装解除の必要はないとも伝えてくれ」


「いいぜ。支部長の意向だな?」


「ああ」


 直前まで刃を交わし合っていたとは思えないほど淡白なやり取りだった。アージェは東の兵を一人呼んで伝令にし、自身は残ってそのままセトに向き直る。


「フィレネが来ても来なくても、俺も聞くぜ」


「分かった。リイザは?」


「ナバと一緒に後方警戒やらせてる。あいつ弓使いだし、おめえとは相性悪いからな」


「リイザも呼んでもらえるか?」


「いいけどよ。おい、そこの」


 今度は北の兵が伝令になる。副長と戦わずに済んだことが嬉しいのか、北の兵は総じて明るい表情をしていた。


「連合軍に被害は?」


 やや緊張した面持ちで尋ねたセトに、アージェはにやりと笑って応じた。


「敵将が細心の注意を払って迎え撃ってくれやがったお陰で、ここじゃ怪我人一人出てねぇ。ああ、ランテくらいか。それと、俺のことは外壁上から放り出してくれたっけな。あのまま落ちたら、骨の何本かは逝ってただろうよ」


「下に風呪使いが控えたままなのを見てから落とした」


「へっ。俺の相手しながらそこまで見てるとは、相変わらず視野が広いこって」


 アージェが終始いつもと変わらない調子で語ることに、セトの方は多少安心したようだ。アージェほどの使い手なら、セトの不調には無論気づいているだろうが、そこに触れないのが彼なりの気遣いなのだろう。


 フィレネが歩いて、リイザが走ってやって来たので、二人はほぼ同時に到着した。フィレネの方は表情を動かさなかったが、リイザはセトを見つけるなり血相を変え、足を速めて駆けつける。


「ちょっとセト……また痩せちゃって。断食でもさせられたのー?」


「悪いけど、話は後で。門での戦いは中央側は全面降伏のつもりだ。そっちが受け入れてくれるなら」


 セトはリイザからフィレネに視線を移す。フィレネはやはり無表情のまま頷いた。


「それで結構です」


「ありがとう。なら、支部長——北支部長がフィレネ副長を呼んでる。兵を連れてでも構わないから、中へ」


「ええ」


 フィレネは兵に声を掛けることはせずに歩を進めた。愛用の鎌は背に戻して剣を持っているので何事かと思ったが、ランテの剣を持ってきてくれたようだ。差し出されたそれを受け取って礼を述べると、「戦場で武器を手放すのは死ぬのと同義ですわよ」と叱られた。


「ごきげんよう。総会以降、ずっと本部に留まってらっしゃったの? 戻られたものと思っておりましたけど」


「ああ。戻ったと思わせ、中央本部内に潜んでいた。気になる動きがあったのでな」


「北支部は、支部長も副長もじっとしてらっしゃらないのね」


 フィレネとの会話はそれで終え、ハリアルはこの場に集まったセト、テイト、フィレネ、アージェ、リイザ、そしてランテを順に見た。


「中央は白都ルテルを消滅させるために、二つの策を準備していたようだ。複数の白獣の召喚以外にももう一つ、より確実で強力な手段が講じられようとしている。今こうしている間にも。我々は両方を止めなければならない。白都ルテルが落ちれば、西大陸をまとめることは難しくなるだろう。少しの情報操作で、支部連合軍がその首謀者にされかねないからな。白都消滅による西大陸の分裂——おそらくはそれこそが、白軍本部上層部の企てだ」


「そのもう一つの手段とは、何でしょうか」


 唐突に、この場にいなかったはずのミゼの声が響く。紗を一枚ずつ取り払うようにゆっくりと、彼女はランテの傍らに姿を現した。


「白女神の力を使うようだ。彼女の力を結集させた最上位の光呪で、白都ルテルの一切を灰燼に帰すつもりらしい」


 誰も何も声を発しない。全員が言葉を忘れてしまったかのようだ。ハリアルは黙りこくる皆を、時間をかけて見渡した。


「当然、白獣の方を放っていても町は滅ぶ。両方を阻止する。また、阻止が叶わなかったときのために民を避難させたい。迅速に。連合軍の方でも事前に策を構えていたことと思うが、状況が変わった今、動きも変える必要があるだろう。ここにいる人間で新たに役割を分担し、動きたい。異論はないかな」


 まばらに頷きがあった。ハリアルはフィレネの反応を何よりも確認したかったようだ。少々遅れて「構いませんわ」と彼女も返したので、話は続けられる。


「本部内の白女神の大神殿へ少数の精鋭部隊で進軍したい。この部隊は避難が遅れる。失敗は即ち死だ。本部内に敵兵は少ないが、白女神やその他強敵と対峙することになるだろう。少数に絞り、かつ、精鋭が欲しい」


「何人ほど必要ですの?」


「言葉が不足していたようだな。数が何人というよりは、白女神に抗し得る可能性を持つ者だけが欲しい」


 沈黙の帳が下りる。当然だった。白女神の力は未知数だが、莫大な力を持つであろうことは確信できたゆえに。


「私は行きます。最もその可能性を持つのは、私でしょうから」


 ややあってミゼが進み出た。胸に手を当てて、彼女は言う。


「白女神も神と呼ばれてはいますが、実際には私と同じように、人の精神を溶媒のようにして精霊を封じ込めている誓う者に過ぎないのです。通常の誓う者よりもずっと強力ではありますが、その分器の維持も難しい。やりようがないわけではないと思います」


「なるほど。では、通常の誓う者を相手にするときのように、とにかく器を揺るがせばいいと」


「ええ、その通りです」


「あの」


 ミゼとハリアルの会話に、ランテは多少遠慮しつつも割り込んだ。


「オレも行っていいですか? 白女神に抗し得る可能性だったら、オレの中にいる始まりの女神もきっと持ってると思います」


「……君に秘められた力は、始まりの女神のものだったか」


「はい」


「ランテ」


 それ以上言わなかったが、セトはランテに抗議の目を向けている。


「ごめん、セト。でも、オレは行かなくちゃいけないと思う。あっちにはベイデルハルクもいると思うし、それ以外にも強い人がきっといる。ミゼを一人では行かせられない」


「ランテにも来てもらおう」


 加勢してくれたのはハリアルだった。この場において、何よりも強い後ろ盾だった。


「……支部長、もしかして」


「ああ、私は行くつもりだ」


「あなたに何かあったら、支部は」


「お前がいるだろう」


「オレは今、中央の人間として、北支部の兵たちと戦いました」


「今回の一件くらいで、これまでお前が築いてきたものが壊れたりはしない」


「それに……」


 そこから先は、言葉のないやり取りが支部の長と副長の間で交わされる。先に視線を逸らしたセトは、少しして再びハリアルに目を戻した。


「……では、オレも行きます」


「やれるのか」


「癒し手が必要なはずです。前に出るなと仰るならそうします。癒し手としてなら、他の者を連れて行くよりは役に立てると思うので」


「セトっ」


 今度はランテがセトに抗議の目を向ける番になった。確かに癒し手はいて欲しいと思うが、あの身体の彼にこれ以上の無茶はさせられないと思う。


「支部長と副長が揃って死地に殴り込みか。こりゃ負けられねえ。そういうことなら、俺もそっちに入れてくださいよ支部長。いいすか?」


 アージェがこう言ったことで、セトを止めるタイミングを逸してしまった。いや、あるいはアージェのこの行動は、セトを止めさせないためにだったのかもしれない。


 リイザがアージェの服を引く。


「待ちなさいよー。アージェまで行ったら」


「北にゃ地力がある。上役揃ってどうにかなっても、潰れやしねえよ。そりゃ立て直しに大分苦労はするだろうがな。支部を回す人間に代わりはいても、白女神を潰す人間に代わりはいねえ。自ら乗り込む理由はそんなところすよね、支部長。だから支部長にゃ俺もセトも止められねえはずだ。何たって同じ理由で乗り込もうとしてるんだしよ」


 ああ、やはりとランテは思った。アージェはセトを行かせるつもりだ。あのとき、中央に向かうと言ったランテを止めなかったのと同じように。


「……アージェ、オレはやっぱりセトには残ってもらうべきだと思う。支部長と副長どっちも危険なところに行くのは良くないし、何よりセトは本当に身体が——」


「ランテ。おめえのその気遣いは、この場じゃこいつを助けるかもしれねえ。けどよ、後から苦しめることになるんだ。そうだろ、セト」


 返事に窮した様子のセトに構わず、アージェは続ける。


「自分を助けに来た連中だけが危険を身に受けて、自分だけ安全な場所にいるのなんて、こいつにゃ酷だ。挙句誰か死んでみろ、今まで通りの顔で北になんていられねぇ。おいセト。こっちが折れて連れて行ってやる。だから全て済んで無事なら戻って来い。いいかランテ、こりゃセトのためのけじめだ。北に戻るために、北のために命懸けで働かせる。誰も気にしやしねえが、こいつ自身がこいつを許すために行かせてやれ」


 セトは居心地が悪そうに身じろいだ。


「……単純に何かしていたかっただけで、今はそこまで考えてなかったけど、後から似たようなことを思っただろうとは。ありがとな、アージェ。支部長も意を酌んでくださってありがとうございます。ランテ、ごめんな。気遣いはありがたいと思ってる」


 首を振った。ただ身体を気遣うただけがセトのためではないのだと、アージェの言葉に納得する。またしても、目先のことしか見えていなかったことを思い知らされた。どうすれば皆のように多くを見渡せるようになるのだろう。分からない。分からないから、こうして皆といて、意見を口に出すことで、間違っていたら正してもらわなければならない気がする。


 ふいに思った。もしかしたらベイデルハルクは、周りに誰もいなかったから間違ったのかもしれないと。いや、クレイドなり他の部下なり、きっと人はいただろう。その人たちが立場などに遠慮して正そうとしなかったか、あるいは本人が周りの言葉に耳を傾けなかったのか。本当のところは本人にしか分からないだろうが、ランテは初めてあの男へ嫌悪の範疇に入らない感情を覚えた。憐憫だった。原因はともあれ、こんなにも狂った道しか選べなかったあの男を、心の底から哀れだと思う。そう感じたところで、微塵も許す気になれないのがまた哀れでならなかった。皆、ランテと同じで奴を許せないだろう。正しい道を示してあげようと考える者など現れるはずがない。


 あの男はもう、永遠に正しい道を歩めないのだ。自分が間違っていることにも最早気づけないだろう。それをただひたすらに、可哀想だと思った。

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