【Ⅱ】ー3 反射

 熱い血が降りかかってきて、一時何も見えなくなる。急いで拭った。目で確認するよりも先に、腕が下がったことでセトが膝を折ったらしいことは伝わってくる。だからこそ気が急いた。あんな身体でこれ以上怪我をしたら、今度こそ本当に。


「ランテ様、そのまま動かないでいらして。次で決めますわ」


 フィレネが動く気配がする。いけない。彼女の声に逆らって、ランテはセトを庇うように動き回ってみた。ぼんやりと視界が戻るがまだ像は結ばない。色が混ざり合った世界の中で、唯一しかと存在感を示してくるのはやはり赤色だ。


「ランテ、腕」


 セトの声がする。腕を放せという意味だろう。また自分のせいで怪我をさせてはとは思うものの、この手を放したらおそらくセトは行ってしまう。


「盾にして」


 手を放さない代わりにそう答えた。視界が鮮明になった瞬間に、鎌が大写しになる。あ、とは思うが何もできない。刃先が頬を掠めたと同時に身体が風に乗った。フィレネの姿がみるみる遠くなる。彼女の後ろには、白い制服姿の白軍たちが雲のように群がっている。支部連合軍がもう着いてしまったのだ。


「……本当に、お前は」


 風に門の前まで運ばれ終えたとき、セトがそう零したのが聞こえてきた。ランテが顔を上げると、彼は何と名づけていいのか分からないような表情をしていた。そのまま一度溜息をついて、ゆるりと額に手を遣る。


「まず、癒し手相手に加減するな。次に、相手の腕を封じるなら利き腕だ。剣を握ってる方を自由にしたままでどうするんだよ。最後に、もっと自分の身を大事にしろ。お前を盾にしたらフィレネ副長はお前ごと——」


 ここで手を下ろしてランテに視線を向けたセトは、言葉を止めた。すぐに怪訝な表情になる。


「この状況で笑えるのは、流石に意味が分からない」


「だって」


 言われて初めて、ランテは自分が笑っていたことに気がついた。でも、自分がそうしている理由なら分かる。


「やっぱり、助けてくれた」


 あのままセトが【疾風】を使わなければ、ランテはフィレネの鎌の餌食になっていた。間違いなく、セトはランテを救ったのだ。


「セトに言われたことをしなかったのは全部、セトを信じてたからなんだ。笑ってるのは、信じてよかったって思ったから。戦うつもりで来たけど、セトの姿を見ると途端にその気持ちがなくなっちゃって。だけどセトだって、本当にオレを殺す気なら、あのまま盾にしてフィレネ副長に殺させていればよかった。でもそうしなかった。それで今、助言までくれてる」


「……あれは、ほぼ反射」


 ランテの言を聞いているうちに、セトはまた先の複雑な表情に戻った。半ば言い訳のような返事を寄越して、支部連合軍の方に視線を遣り、今度はセトの方がランテの腕を掴んだ。風に引き上げられて外門の上に降り立つ。これで交戦までに少し猶予ができた。


 セトは首と肩の間の辺りから出血したらしく、右の襟が赤く染め抜かれている。つんと、血のにおいが鼻腔を突いた。


「ごめん、セト。オレのせいで怪我を」


「そっちは大丈夫だ。すぐ止血した」


 そっちは、ということは、そっちでない方は大丈夫ではないということか。


「やっぱり、毒は大分?」


「解毒は済んでるけど、中を傷めててさ。癒しの呪じゃどうにもならない」


 彼にしては素直な答えだった。そう言わざるを得ないほど、つまり隠し切れないほど重篤なのだろう。


「……さっきも言ったけど、本気だったんだ」


 握った剣を静かに見下ろして、無表情になっていたセトは、遅れて笑う。笑みの奥にはまた自嘲が含まれている気がして、ランテの胸は痛んだ。


「やっぱり、剣では簡単に勝てなくなったな」


 確かに、呪はともかく剣に迷いはなかった。セト自身の身体が万全でないことと、ランテが記憶を取り戻したことが重なって、無事でいられたのかもしれない。だが剣での勝負を選んだことそれ自体が、セトの言うように本気だったかというと首を捻りたくなる。呪での勝負ならセトとランテの能力差はもっと大きいからだ。そして、殺すつもり“だった”ということは、もうそのつもりはないということ——そもそも本気だったのかどうかは別として——なのか。黙ってセトを見つめていると、やがて視線はランテに戻ってきた。


「一点の迷いもなくオレのことを信じてきて、しかも自分を盾にしろって言った丸腰の人間を斬れるほど、まだ狂ってなかったみたいでさ。甘いだけかもしれないけど、甘いのはお前もだな、ランテ。フィレネ副長には殺せって言われてただろうに」


 そう言えば、剣を置いてきてしまっていた。空の鞘を確認したところで、脇腹の傷が綺麗になくなっているのを知る。セトの癒しの呪によるものと思われるが、いつだろう。呪の対象者にも気づかせないのだから、恐らく周りの人間も気づいていないはずだ。


「中には入れない。そこは譲れない」


「でも、ユウラとテイトは?」


「ユウラは中じゃない。テイトを救い出してお前が捕まったんじゃ、本末転倒だ」


「そうだけど」


「白獣召喚のおそれがあることは、お前やフィレネ副長たちは知ってるか?」


「うん、こっち側の召喚士たちに阻止してもらおうとしてる」


「別動隊がいるんだな。ならそっちの戦況が定まるまでは、ここで戦線を維持して本隊を食い止める。白獣が呼び出されたら、その対処が優先だ。本隊にとっても、外門警備の兵にとっても」


「でもセト、そんな身体で」


「幸い慣れてる。徹夜三日した後の方が身体が重いくらいだな」


 久しぶりに、普段に近いセトらしい笑い方を見た。それを見て初めて、今まで見せていた笑みがどこかぎこちなかったのだと気づく。


「今は一応、ここにいる兵たちの命を預かる立場だ。投げ出せない。東の兵は精鋭揃いだから上手くやらないと被害が出る。当然あっちにも被害を出させたくないし」


 外門の向こうから進軍してくる兵を真剣なまなざしで見つめてから、セトはもう一度ランテを振り返った。


「ランテ、悪かった。ごめんな。だけどお前のおかげで、少しはまともに頭が働くようになった。ありがとう」


 首を振った。ランテは何もしていない。それに、まだ思うところもあった。一見いつものセトに戻ったように感じられるが、本当は今すぐにでも折れそうなくらい危うい状態の自分を隠しているだけのように思えてならないのだ。いや、気丈に振る舞うことで、自分自身すら錯覚させようとしているのかもしれない。


 ——何で生きてるんだろうな。


 先程聞いたあの言が耳から離れない。あのときセトが一瞬見せた苦悶の表情が今になってランテを不安にさせる。弱音の範疇に入るようなことを、たとえ望まれても一度も口にしなかった、それを自分に一切許さなかった彼の、初めての弱音と言えるもの。それを耳にして、心を許してもらえたと喜べるほど楽観的でも愚鈍でもない。


「総員、聞いてくれ。見ての通り支部連合軍が迫ってる。捕獲対象はここに確保した。後は本気で迎え撃っていい。ただし、今までの指示は守るように。交戦は門、並びにその奥の結界を破られてからで、それまではオレに一任すること。例外は敵がオレの目が届かない箇所の外壁を上って来たときで、それには外壁上の呪使いと弓兵が対処して欲しい」


 門の内に控える者たちが一斉にセトを見上げている。証持ちとそうでない者たちはすぐに見分けがつき、小部隊の長と思しき者たちの表情は皆真剣だ。就任以来まだ日が浅いであろうセトが、この瞬間までに兵たちの人心をよく掌握したらしいことは分かった。


「命が惜しくなったら逃げていい。むしろ、逃げてくれ。本部内には大聖者を筆頭に戦力が充実してる。任せたらいい。兵を逃がすために戦線を門一点に誘導してる。だから、証持ちにも命を捨てさせるような真似はくれぐれもさせるな。全員が逃げても、多少の時間はオレが責任を持って稼ぐ。だから部隊長も責任を持って隊の者を逃がせ。いいな」


 はい、という返事が幾重にも合わさって聞こえてきた。セトも頷いて門の外へ目を向ける。


「今言った通り、門を破られなければ本格的な戦いは始まらない」


 ランテにしか聞こえない声で、セトは言う。


「……セト一人に負担がかかるやり方だ」


 素直な感想を述べたランテを一瞥し、彼は微かに笑う。


「中央軍の多くの者は戦いに慣れてないんだよ。退路を確保してやらないと統率が取れないし、死なせたくないのもそうだ。余裕のある人間は、お前みたいに気づいて手を貸してくれる」


 本当にセトはいつだってぶれないなと思う。悲しくなるほどに。


 外門の上、ランテの傍らに淡い闇が現れた。ミゼだ。


「聞こえていました。助力は必要ですか?」


「結界の強度を上げてもらえるなら助かる」


「分かりました」


 端的な会話のやりとりの後、門の内側で輝いていた光の壁が一瞬揺らいだ。付近に姿は見えないが、ミゼだろう。


「セト、オレはどうしたらいい?」


「一応お前は捕まえたことになってるから、ここで大人しくしててくれ。オレに手を貸したりするなよ。怪しまれる」


 何もしてはいけないということか。


「でも」


「今、各支部の動きはどうなってる? 激戦地から帰ってから、お前が見聞きしたことを教えて欲しい。何も情報が入ってないんだよ」


 支部連合軍が目前に迫ってきているこの状況で、こんなことを話していていいのだろうか。そう思わないではなかったが、セトが望むのならと思い直して、ランテは早口で簡潔に今日の作戦を伝達した。


「市民を脱出させるのに人手が足りていない気がするな。町の外では黒獣に遭遇する可能性だってある」


 聞き終えてすぐセトはそう言った。ランテたちはトウガに言われるまで、市民の脱出すら考えつかなかったのだ、セトの言うことはきっと正しい。現に外門の上から町を見てみても、戦地になるだろうこの付近の家の人間たちすら、まだ慌てふためいているだけの状況だ。避難の開始ができていない。


「うん、気づかなくて。ごめん」


「いや、ここの軍を自由に動かせる状況になったら、どこに遣るのがいいのかって考えてただけだ。全支部をこの短期間で動かすだけでも大変だっただろ。傍にいてやれなくて悪かった。よくここまでやってくれたと思う。ありがとう。……お前自身がやって来たことだけは、今でもちょっと怒ってるけどな」


「だって」


「だけど多分、最初に接触したのがお前じゃなかったら、オレはこうはなれてなかっただろうなとも思ってる」


「え?」


「正直に言うと、さっきまで何て言うか……自分がよく分からない状態だったんだよ。まともに思考できてなかった。お前がフィレネ副長の前に立ってオレを庇おうとしたとき、咄嗟とっさに身体が動いて、そこから後は目が覚めたというか。頭が動き始めると冷静になれた。だから本当に感謝もしてる」


 外に現れにくいだけで、やはり先ほどまでのセトは尋常ではない精神状態だったのだろう。しかし、これを聞いてもランテの懸念はまだ晴れない。セトを追い込んだ問題の根源が解決できたとは思えないのだ。きっと奮い立たせ方が変わっただけで、危うい状態でいるのには変わりがない。


 眼下に兵が押し寄せてくる。先陣を切るのは屈強そうな長物部隊と、彼らに守られるように囲まれている呪使いたちだ。フィレネはやや後方に下がっている。大局を見て指示を出すためだろうか。


「ランテ、少し離れて自分で【加護】張って屈んでろ。お前から目は離したくないけど、ここには呪が飛んでくる。多分手一杯で守ってやれないから」


「……うん」


 セトのことが心配でならなかったが、足手まといになるのは避けたくて、ひとまず指示に従うことにした。だが戦局は気になる。ランテは伏せつつも門の外壁から少し頭を出して、様子を見守ることに決めた。


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 大変ありがたいことに、文遠ぶんさんにこのシーンのイラストをいただいています。近況ノートでご紹介しておりますので、ぜひご覧ください!

https://kakuyomu.jp/users/If_/news/16817330650643027427

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