【Ⅱ】―2 本気
セトは剣先についた血を払った。白い煉瓦に点々と赤が舞う。
「記憶、戻ったんだな」
「え?」
「剣筋も足運びも、今までと違う。今ので決めるつもりだったんだけどさ」
少し剣を合わせただけだったが、それでもセトには分かったようだ。
「うん。そのこともセトたちに話したくて。セト、戻ってきて。こんな風にオレたちで戦わなくても」
セトは穏やかな微笑を浮かべたまま答えない。それは一番彼らしい表情で、だからこそやはり恐ろしい。
そのとき、ふと自分で考えたことが何か引っかかった。もう一度同じ思考を繰り返して、どうやらセト“らしい”というところが引っかかったのだとランテは自覚する。ミゼの呪を挟んで二回、セトはランテに斬りかかってきたが、セトは一度も呪を使わなかった。これがとてもらしくないのだ。
——剣も呪も、オレくらいの使い手なんて幾らでもいるんだよ、ランテ。
以前、剣と光速の訓練をし終わったときに、セトが語っていたことが頭の中で再生された。光速の制御が上手くいかず、何でもできるセトが羨ましいと言ったランテに対して、彼が返してきた言葉だった。
——突出した力で捻じ伏せようとしても、オレにはそれはできない。だけど武術も呪も同じくらい使える人間っていうのは、そう多くないんだよな。だからどっちもそれなりにできるようになって、敵と相対したときの選択肢を増やすことにしたんだ。武術か呪か、どっちかで相手を上回ることができればそれでいいってさ。
確かランテは、両方ともこなせてやっぱりセトはすごい、といったようなことを述べた気がする。ここでセトは笑ったが、今振り返るとやや悔しさのようなものが潜んでいたような気もした。
——いや、お前の言ってくれるように、何でもできるってわけじゃないんだ。むしろどっちも満足にはできないから、両方のそれなりを目指したってだけで。お前はオレを手本にしない方がいい。ランテは、剣術に重きを置いた方が強くなれる。
セトは自分に厳しいから、共に高水準な剣も呪も「それなり」などと言っていて、そこには同意しかねる。しかし、確かに彼の強さは剣と呪を組み合わせた手数と選択肢の多さにあって、だからこそ剣一本で仕掛けてくる今の彼がとてもらしくないのだ。一回目、ミゼの【加護】に剣を阻まれたところで、普段の彼なら何か呪を使ったはずだ。二回目も、ランテが距離を取った後に呪で追撃ができたはずだ。剣で斬りかかった後に間髪入れず呪を使うだけの腕が彼にはあるし、実際に十八番ともいえるほどそうしている姿を見てきた。
特に二回目の方は、あの後すぐに【風切】あたりを撃ち込まれていたら、直撃していただろう。それくらいあのときのランテは隙だらけだった。それを見切れないセトではあるまい。
「セト」
剣を構えたままで、ランテは呼びかけた。
「セトも迷ってるんだ」
「二回も殺されかけて、よくそう言えるな」
「ううん。たぶんセトは本気でオレを殺す気じゃないんだ。だってオレは生きてる」
「オレが本気ならお前はもう死んでたって? それは違う。ルノアの呪と、お前の動きが良かったから」
「でも、セト。セトは呪を使ってない。上級呪まで使えて、オレよりもずっといい腕をしているのに、一度も」
しばらくランテに視線を据えて、セトは一度、笑みを消した。
「……そうだな。確かに呪は使わなかった。迷ってるつもりはなかったけど、どこかにそういう気持ちもあったのかもな」
「セト、なら!」
「なら、もう迷わないようにするだけだ」
話ができるかもしれない。抱いた期待は、淡いまま潰えてしまった。またしてもセトが視界から消える。次はどこから来る?
「ランテ、上!」
ミゼの警告がなければ気づけなかっただろう。頭上から身ごと落ちてきた剣を、寸でのところで避ける。話をするためにはセトの動きを止めるしかないようだ。ならばと着地時に生まれる隙を狙って足払いを仕掛けるが、読まれていた。隙など全く生まれない。彼は自身の剣を煉瓦の隙間に突き立ててランテの攻撃を片手で封じ、そして空いたもう一方の手をランテに向けて伸べた。そこに風が集って——
「ぐ、うっ」
勝手に力が溢れて、またしてもあの曙色の光がランテを守ったが、それも途中からだった。セトの呪の発動が速すぎて追いつけなかったのだ。光のカーテンの内側から、激しく吹き荒れる風を見た。最初は下級呪の【鎌鼬】かと思ったが、違う。これはその上位互換の上級呪【狂風】だろう。鎌鼬よりもずっと大きく鋭い風の刃が、次から次に光の幕を襲っている。
女神の防御呪が間に合う前に、生身で三つほど風の刃を受けてしまった。いずれも制服の永続呪を貫通している。発動したてだったからだろう、右腕と右足に受けた傷はそう重くはないが、一番最後に受けた左脇腹のものはまずいかもしれない。出血は想像したほどではないが、痛みが強い。現状耐えられなくはないけれども、こんなところを怪我してしまっては動くたびに痛むだろう。どうしたって動きが鈍ってしまう。ただでさえ速さ負けしているのに。
しかし、やはり何かが変だとランテは思う。ランテがああ言った直後に、セトはわざわざ上級呪を使ってきた。あのとき使ったのが例えば【風切】や【鎌鼬】だったなら、ランテはもっと深手を負っていたはずだ。上級呪だったからこそ本格的な発動までにやや時間があって、この程度の負傷で済んだのだ。
風が鎮まったのと時を同じくして、ランテを覆っていた光の幕も消え入った。ミゼが負傷したランテを認めて、息を呑んだのが聞こえてくる。
「ランテ、もう」
「ううん、大丈夫」
ミゼにはそう答えた。まだまだ動ける。セトは七、八歩距離を取ったところに佇んでいた。一度ランテの脇腹に目を留めて、それから彼は言う。
「その傷だともう満足に剣も振れないだろ。それくらいにしとけよ、ランテ」
抑制された声で語られたその言葉を聞いて、ランテはようやく悟った。セトは近くにいる中央兵に気取られないよう本気を装いながら、どうにかランテを引かせるつもりだったのだ。
「ううん、セト。オレは引かない」
「ランテ」
「セト、ユウラは?」
表情は動かなかったものの、返答はなかった。
「傍にいるって聞いた」
食い下がってみたが、やはりすぐには返答はない。少ししてから、セトはランテに応じた。
「ここにはいない」
「じゃあ、どこに」
「……どこだろうな」
遠い目をしたセトは、不気味なほど静かな声でそう言った。少し流れた瞳を追いかけて、その中に微かに影が差したのを見出して、直感する。
ユウラに、何かがあった。
きっと、セトを追い詰めたのはその出来事だ。
「セト、何が」
「ランテ」
その声よりも先に、またしてもセトの姿が消えた。かと思うと、視界が何かに妨げられる。一呼吸遅れて風が吹きつけてきて、ランテの視界を妨げたのはセトだと気づいた。【疾風】を使ったのだろう。とんでもない速さで、指一本動かせなかった。
そして、距離を詰め切られたということは、当然剣が届く間合いになったということであり。
「う、あぁっ!」
先程できた脇腹の傷に、剣を差し込まれていた。斬られていないのは新しく血が流れないことから分かる。しかし剣を動かされると、痛覚が過敏に反応して激しく痛む。僅かに動かされるだけでも、そこを刻まれ直すかのような。あまりの痛みに足から力が逃げそうになる。
「引け。……こんなこと、させるなよ」
「いや、だ」
「ランテ」
「嫌だ!」
ランテはありったけの声を振り絞って叫んで剣を手放すと、空いた利き手でセトの左腕を強く握った。
「嫌だ。もう自分だけ守られるのは嫌だ。オレが皆を助けるんだ。この力は守られるためにあるんじゃないって、前にも言った。オレが持ってる力なんだ。オレが好きなように使う。オレはこの力を、皆を守るために使うんだ!」
言い切った後に、握った左腕の袖に血が染みているのに気づいてはっとする。こんなところ、返り血が飛ぶ場所ではない。それに、何か拭ったような——
ランテの傷口から剣が遠ざけられる。セトが咳き込み始めたのは、そのすぐ後だった。聞いた瞬間にただの咳ではないと分かる。彼は自身の左の上腕の辺りに顔を埋めて、しばらく咳き込み続けた。白い煉瓦の上に一滴、二滴と赤い雫が滴り落ちる。
「……セ、ト」
驚いて声が震えた。そういえば今握っている左腕も、服の上からでも分かるほど熱い。彼は汗をかいているわけではないから、運動による発熱とは違う。
こんな身体で、今まで平気な顔をして動き回っていたのか。
「セト、駄目だ、休まないと!」
彼は右手の剣を片手で器用に逆手に持ち替えると、袖で口元を拭ってから顔を上げた。自嘲がほんのりと浮かぶ。
「……何で生きてるんだろうな」
「セ——」
「なあ、ランテ。お前がどう解釈したかは知らないけど、オレは本気だった。……お前がいなかったらって、本気で考えたんだよ。声を掛けたのも、白軍に引き込んだのも、お前を守ろうと決めたのも自分のくせに。笑えるよな」
ランテは、傷つかなかった。セトの方がずっと傷ついた顔をしていたからだ。きっと、そうまで思うようになってしまった何かが起こったのだ。そして、そんな風に思った自分にセト自身が一番幻滅したのだろう。そういう顔だった。
「セト、お願いだからもう休んで——」
そのとき、右腕がぐいと引っ張られた。セトがランテの腕を振り払おうとしたのだ。放すものかとランテは必死に指に力を込めたが、それが誤りだったとすぐに気づかされることになる。
「ランテ様、そのままで」
フィレネの声が間近でした。迫る鎌が凄まじい勢いで視界に割り込んでくる。セトはこれを避けるために動こうとしたのだ。ランテがそれを邪魔してしまった——
「セトっ!」
叫んだランテを呑み込むように、鮮やかな紅が迸った。
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