【Ⅱ】―1 正気

 日が昇り切った。支部連合軍はもう貧民街には入っただろう。そこから市民街を抜けて貴族街に至るまでと、ここから本部正門までの距離はほぼ等しい。ミゼに目くらましの幻惑の呪をかけてもらいながら、ランテは正門を目指して進んでいた。


「主に光呪を使う光呪使いが、外壁上に等間隔に並んでいるようね。モナーダ上級司令官の持っていた情報は正しいわ。加えて正門付近に十人程度、やはり呪使いがいる。その他の、呪力をあまり持たない人の数はここからでは分からない。やっぱり正門へ向かう?」


「うん。セトは奥に引っ込んでるタイプの指揮官じゃないから、絶対前線になる場所にいると思う。外壁の守りを固めているのも、主戦場が自分のいる正門になるように誘導しているんじゃないかってデリヤも言ってたし、オレもそう思う」


「ランテ」


「うん?」


「もし、の話だけれど」


 ここでミゼは言いにくそうに視線を彷徨さまよわせてから、ランテを見つめ直した。


「副長さんが、あなたと戦うことを選んだなら……そうしてあなたが危機に陥ったとしたら、私は静観してはいられない」


「……ミゼ」


「私が最も得意としているのは闇呪なの。闇呪は高位のものになればなるほど、人の心に干渉する呪が多いわ。私は、あなたを守るためならそれを使うことも辞さない。たとえ、副長さんの心を完全に壊すことになったとしても」


 反射的に首を振りかけたが、止めた。拒むだけなら簡単だ。代案がなければ拒んだところで意味なんてない。


「分かった。そうならないように、オレが頑張るよ」


 剣の柄をぎゅっと握る。ミゼの意志も、ランテと近いところにはあっても等しくはないのは分かっていた。客観的に見れば正しいとは言えない願いを突き通そうとしているのだ。随分我儘を聞いてもらっているのだから、ランテとて何もかもを撥ね退けるわけにはいかない。




 白軍中央本部、正門前。ランテはミゼと共に、念のためと大通りの物陰に身を潜めていた。町は静かで、まだ交戦の気配はない。さすがに鼓動が落ち着かなくて、ランテは何度も深呼吸をしていた。


 本格的な警戒はまだしていないのか、門は大きく開け放たれている。正門の向こうは少しだけしか見えないが、まるで城と見まがうほど大きく壮麗な建物が鎮座しているのはよく見えた。あちこちにしつらえられた女神像は、それぞれが見る者の視線を奪い合うように輝いている。光の永続呪がかけられているのはもちろんのこと、宝石の類も埋め込まれているように思われた。贅を尽くしているのがよく分かるが、果たして治安を守るための組織にこれだけ麗しい本部が必要なのかと考えれば、不要にしか思えない。


 目を凝らせば白い鎧たちの姿もちらほらと見えたが、セトやユウラらしき人物の姿は見つけられなかった。見つけるとますます冷静ではいられなくなりそうだったから、その方が良いかもしれない。もう何度目か分からない深い呼吸を、もう一度繰り返した。


 刹那。


 世界を切り裂くように、鋭い光が駆け抜けた。【閃光】だ。おそらく中央軍の門番が放ったものだろう。直後、音が溢れる。鬨の声に金属の高鳴り。間違いなく戦いの音だ。支部連合軍の戦いが始まった——


「門を閉ざせ」


 そのとき響いた声に、ランテははっと息を呑んだ。この澄んでよく通る声、間違いない。


「セト!」


 叫んだランテを見て、ミゼが持ち上げた右手を水平にゆっくりと動かした。【幻惑の呪】が解けて、ランテとミゼの姿が日の下に晒される。


 閉まっていく重々しい扉の奥に、声の出どころを探った。並んだ兵の後ろからこちら側へ歩んでくる、一人の姿——


「ミゼ、行こう!」


 ランテは【光速】で門の中へ飛び込もうとしたが、利き腕をミゼに引かれてつんのめった。


「駄目よ。門の中へ入ると逃げ道がなくなるわ。閉まる扉をどうにか——」


「門はそのまま閉めていいからな」


 言いかけたミゼの声を遮るように、再度のセトの指示が聞こえた。何かしようと片腕を掲げかけていたミゼが、そのままで静止する。奥から歩んできたセトは、閉まろうとしている扉を潜り抜けるところまでやって来た。


 そうして立ち止まった彼は、ただ静かにランテを見つめた。


 すぐには声が出なかった。ああ、と思う。見慣れない中央の制服に身を包んだ彼は、一目で分かるほどに、随分痩せていた。元から細身だったのに。


「……セト」


「お前だけは来るなって言ったのにさ」


 声は、いつもの調子だった。穏やかさや優しさすら感じた。ほのかに笑みを刷いたその表情も、普段通りの彼そのままであって。強がることに慣れているセトだからと、ランテは注意深く翡翠の双眸を見守ったが、そこには影一つ過らない。一部の隙もなく凪いでいた。痩せたことを除いたら、目の前に立つその人は、何から何まで完璧に、全く違うことなく、いつも通りのセトその人だった。


 ——セトは、今、正気じゃないかもね。


 蘇ったデリヤの声に、ランテは思わず激しく首を振った。セトは間違いなく正気だ。自らの判断でここに立っている。それがはっきりと分かるからこそ、ランテの身体は氷に転じたかのように冷えていた。なぜならランテは、知っているのだ。


 ——……ランテが捕まったら、何のためにあいつは。


 あのときの、平静を取り繕えなくなったセトを。何かがあった。彼を大きく揺るがすほどの何かが、絶対に。だからこそ常と変わらないセトが、いっそランテには恐ろしかった。きっと彼はまた一人で立ち上がったのだ。おそらくは、壮絶な覚悟の上に。その覚悟のほどを思うと、恐ろしくて堪らなくなる。事情を知らなくたって、そこにいかほどの精神力が必要かくらいは、多少なりとも想像が……いや、想像が及ばないほどだろうというのが分かるからこそ、恐ろしかった。それだけではない。今、目の前に立つセトの考えが全く読めないという点も、恐怖を感じる一つの理由である気がする。どうして彼はランテの前に立ち塞がって、兵の布陣に手を入れて、持てる力を尽くして門を守ろうとしているのだろう。分からない。まるで分からない。セトのことは、もうよく知っているはずなのに。彼がこんなにも完璧に微笑むからだ。


 門が音を立てて閉ざされる。低く響いた音と緩く吹きつけた風で、ランテは我に返った。


「ごめん、セト。でも、やっぱりオレは」


「決めてたんだ。お前が来たら、どうするか」


 ランテに皆まで言わせないまま、セトはそっと自身の左腰に手を遣った。そこには当然、剣が吊ってある。


「セト、待って! テイトを救えたら、戦わなくたって」


「ランテ」


 淀みない鞘滑りの音がする。それを聞くだけで、腕に覚えがある者には彼の技量の高さと決意のほどが分かるだろう。露わになった剣は、今しがた登ったばかりの朝日を映して眩いほどに輝いた。


「この先にはベイデルハルクと白女神がいる。そこへ行くつもりなら、お前はオレ程度に止められてるんじゃ駄目だろ?」


「セト」


「抜けよ。お前がこの先に行くつもりなら止める。オレの方も譲るつもりはない……前にも言った通り、たとえお前を殺してだって、な」


「……セト!」


 彼は抜剣したきり構えはしなかったものの、言葉通り、何があっても譲らないときの表情をしていた。門から出てきて一人で対峙してくれたことに、多少の譲歩はあったのかもしれないけれど。


「ルノア。ランテを連れて離れるなら追わない。そうして欲しいと思ってるけど、ランテに手を貸したいならそうしたらいい。ただ」


 隣に立つミゼに目を移して、セトはその後、また軽く笑んだ。いつもそうだ。笑えるはずがないときに笑って、本当の表情を隠してしまう。


「ルノアが相手でも、簡単に負ける気はないから、そのつもりで」


 呼吸一つ分の間をたっぷり取り、ミゼは徐々に瞳に苦しさを溜めると、静かに応じた。


「……自身の呪力の変質が分からないあなたではないでしょう。心身共にそんな危うい状態で、それでも戦うつもりなの?」


「嘗めてもらったら困る。本当にランテを守りたいなら、殺す気で来ないと先にこっちが殺すからな。ランテにも同じことを伝えとく」


 戻ってきた視線を受けると、ランテは少々怖じを感じた。ランテはまだ、セトの本気の剣を受けたことがない。あの速さの剣戟を捌き切れるだろうか。やるしかないと分かっていても、感じる不安は変わらない。


「ランテ、抜け。三つ数えるまでは待つ。抜くか去るか。どっちもしないなら、お前はここまでだ」


 話がしたい。一番は説得のためにここに来たのに、セトはランテにそのための時間を与えてくれない。支部連合軍だって背後から迫っている。本当に、本当に、時間がない。でもどうしたらいいのかを考える時間さえ、三つ数える間では足りなかった。


「三」


 冷たい汗が輪郭をなぞった。


「二」


 セトが構えを取る。


「一」


 覚悟は、柄に手を掛けるところまでしか間に合わなかった。


「あっ」


 五歩は先にいたはずのセトの姿が消えて、その直後にはもう、彼の間合いに迫られていた。切り上げられた剣に迷いはない。ああ、これは、右腰から左肩まで深く入る。終わったかもしれない——


「ランテ!」


 ミゼの声が聞こえて初めて、ランテは自分がまだ無事であることに気づいた。右腰に入ったセトの剣を、制服が放つほのかな光が受け止めている。ミゼのかけた永続呪がランテを守ってくれたのだ。


「ルノアの永続呪か」


 セトは苦笑していた。身震いする。間違いなく本気の剣だった。着ていたのが通常の制服なら、今の一閃に加護の永続呪を貫かれ、ランテは地に横たわっていたことだろう。命を摘み取るに足る力をもってセトはランテに斬りかかってきたのだ。しかも、それが叶わなくて苦く笑うほどの余裕が、今のセトにはある。あれだけ仲間の犠牲を厭った彼に。


「セト、何でっ」


「ランテ! 構えて!」


 セトが離れたすぐ後に、今しがたまで彼が立っていた場所に光が満ちた。ミゼの光呪だ。作ってくれた時間を無駄にしないように、慌てて剣を引き抜いた。さすがに丸腰では、身を守ることもできない。


 背後に気配を感じた。振り返りざまに剣を立てる。剣同士がぶつかって、細かな振動が両手に伝わってくる。そのまま何度か剣を受け止めるが、そうしているだけで精一杯だ。速すぎて反撃など一向にできそうにない。次は上から——


「え? あ……うっ」


 飛びのいてから、痛みが襲ってきた。滲んだ血を制服が吸っていく。思わずそこを左手で押さえた。左胸、正確に肋骨の合間を狙われていた。上段からの斬り下ろしが来ると思ったが、その予備動作で剣を誘われたのだ。本命は突きで、ランテは全く反応できなかった。セトの踏み込みは完璧で、結果ミゼの【加護】を貫かれた。飛びのくのがもう一拍遅ければ致命傷になっていただろう。


 理解はしても、次同じことをされたとしてどうにかできる気がまるでしない。速すぎて反射神経に頼る他、対処のしようがないのだ。そして反射神経に依存して避けていては、フェイントまでは読み切れない。そもそも純粋な読み合いになったとしても、頭の切れでセトに勝てるとは思えない。


 左手についた血を上衣の裾で拭って、ランテは剣を構え直した。どうすればいいだろう。分からなくたって止まっている時間はないし、躊躇ためらいながら振った剣が当たる相手でもないのだ。やれ。やるしかない。自分に言い聞かせるように念じる。


「ランテ、私が」


「待って、ミゼ」


「でも」


「もう少しだけ、オレに任せて」


 柄を握り締める自分の手を見た。震えてはいない。恐怖はあったが、それは殺されることへ向いているのではなくて、急にセトが理解できなくなったことへ向いている。自己分析してランテは頷いた。戦える。一人で立ち向かってくれている今が最大の機会なのだ。逸する訳にはいかない。


 柄を強く握り締めた。波立っていた心に、平穏が戻り始めていた。

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