5:正義の在処は
【Ⅰ】 祝福
月が高いうちに目が覚めた。
夢は見なかった。ずいぶん早く目覚めはしたが、深く眠ったような気がして、ランテはつい笑った。こんな日にもしっかり眠ってしまえる自分が、今は心強い。
同室で休んでいるデリヤはまだ横になっている。各支部軍の白都ルテル入りは日の出と同時になる算段だ。交戦が予定されている貴族街に至るまでには、それから多少時間がかかる。もう一眠りできなくはなかろうが、これ以上は不要だと思うほどに目が冴えていた。
我ながら驚くほどに心が凪いでいる。自信があるのかと問われたら、それは違うという答えになろう。しかし、やるしかないという意識が一本の太い軸となって、ランテを強く支えていた。昨日一日の方がむしろ不安だったかもしれない。いざというときに腹が括れる人間で良かったと安堵すると同時に、ちょっとした誇らしさも覚えた。
本隊の足を引っ張ってはいけないので、動き出すのは貴族街の入り口で交戦が始まってからと決めていた。デリヤや、そしてトウガも、それを合図に動くようだ。三人とも役割が違うから、そこで別れることになる。今回の戦いは中央と決着をつけるための戦いではない。もちろん、ベイデルハルクを討ち取れればそれがいいに決まっている。しかし、何よりも今は西大陸の平定が肝要だ。今のように意志の統一ができていないままでは、内輪揉めばかりが起こってしまう。目的が決着ではない以上、ランテは己の内側の熾烈な憎しみと怒りを封じなければならない。この間まみえたときのように、後先考えずあの男に向かって行ってしまってはならないのだ。そして軍の一員としての目標以外に、ランテには必ず果たしたい願いがある。セトとユウラとテイトの救出だ。成就のためには、何が最善か自分で考え続けて動く必要がある。今のこの心の平穏をずっと保っていたい。我が身を励ますつもりで、ランテは左胸にそっと手を添えた。
窓の外の闇がほんの少しずつ薄らいでいく。どれくらいの時間かは分からないが、ランテはその様子を眺めていた。遥か昔にミゼに言った通り、闇には人を落ち着かせる力があると改めて思う。お陰で心は安らかなままだった。
「僕より早くに起きるなんて、珍しいこともあるものだね」
デリヤが身体を起こした。寝相がとても良いのか、それとも髪質に恵まれているのか、寝癖一つついていない髪を手櫛で整えている。必要なさそうなのにと思いながら、ランテは応じた。
「でもオレ、デリヤと同じ時間に寝たことほとんどない。いつも交代で見張りしてなかった? だから、珍しいかは分からないような」
「相変わらずだね、君は」
毒気のない返答に、ランテは思わず瞬いた。その方がよほど珍しい。デリヤがランテの顔を見て、怪訝な目になる。
「何だい?」
「ううん、今日は優しいなと思って」
「誰が」
彼なりにランテを気遣おうとしてくれたのかもしれない。礼を言おうとしてやめた。そういうことは、全てが済んでからの方がいいと思った。
会話が途切れたのと同時に、扉が数回ノックされた。返事をすればミゼが入ってくる。
「ティッキンケムの様子を見て来たわ。あちらの監獄長は炎呪と槍を使う優秀な上級司令官だったけれど、サード副長の指示は的確だった。戦力も総数ではこちらが上回っていたのがあって、多少の被害は受けたけれど無事牢獄は落とせたみたい。中央からの援軍はなかったようなの。戦力の補充はできたようだから、収穫があったのは確かだけど」
サードもそうなるのではと言っていた。一番の目的は戦力増強だったのだろう。中央とティッキンケムは程近い。この時間に落とせたというのも大きい。日の出までには間に合わずとも、そのうち合流できるだろう。作戦の一段階目は成功と言えるはずだ。
「ありがとう、ミゼ」
行って帰るのも、貧民街より内側ではいつものような移動が使えない分、手間がかかっただろう。彼女がいてくれてどれほど助かっているか。ミゼは微笑んで首を振った。それから扉を大きく開く。何か美味しそうな匂いがふわりと漂ってきた。
「ソノさんとユイカさんが、食事の準備をしてくださっているわ。行きましょう」
ランテたち——もちろんトウガも含めて——を送り出すために、二人が腕を振るってくれたのだろうか。ありがたい。ミゼに従って、ランテとデリヤは食堂に向かった。
「あ、ぴったりだ」
温かく美味しい食事を終えて、ランテとデリヤ——複雑な表情をしてはいたが——は、ミゼが調達してくれていた北の制服に袖を通した。普通のものとは違う呪の気配を感じる。おそらくミゼが防御呪をかけてくれたのだろう。
「ミゼ、ありがとう」
部屋で着替えを済ませ二人揃って出てくると、姿を確認したミゼは優しく笑った。
「かけた防御呪である程度の傷は防げるけれど、くれぐれも無理はしないでね」
「うん」
黙っていたデリヤも、ここで口を開いた。
「良い腕だね」
彼なりの感謝の言だろう。ミゼも悟ったのか、もう一度笑みを浮かべた。
「皆様、もうそろそろ夜明けになります」
穏やかな声が響いた。廊下の奥に支度を済ませたトウガがいる。彼の声だ。
「ありがとうございます」
全員で一緒に玄関まで歩いた。歩調が遅く感じられたのは、全員多少緊張していたからだろう。言葉もなかった。心を鎮めるためには、その方がよかったかもしれない。
大きな両開きの扉の前で、館の主人とその妻がランテたちを待っている。四人がたどり着くと、二人は揃って腰を折った。
「……どうか、お気をつけて」
言葉が出てくるまでにしばらくかかった。何と言おうか迷ったのだろうか。一番にトウガが、次いでミゼが二人に続いたのを見て、ランテも急いで頭を下げた。
「本当にお世話になりました。忍び込んだのがソノさんのお家で、とても良かったと思っています」
素直な気持ちだった。迷惑をかけてしまったのは確かで申し訳なくもあったが、一番大きな気持ちは感謝だ。できる限りの協力をしてくれたのだと感じる。二人の心遣いに報いるためにも、頑張りたいとますます思った。
「いえ、そう言っていただけて、こちらもとても嬉しく思っています」
顔を上げたソノは穏やかに笑んでいる。しかしその奥に、ランテは何か悔いのようなものを見た気がした。それが記憶の中のノタナの顔と重なって、ランテは顔を俯けた。戦えることで感じる重圧と、戦えないことで感じる無力感と。比べることなんて詮無いことなのだろうけど、どちらも変わらず苦しいのだとランテは思った。戦える人間の数の方が少ないから前者を重く見る人が多いだけで、実はきっと違う。むしろ、戦えることは幸福でもあるような気さえした。
「ランテさん」
ユイカが進み出て、ランテの利き手を両手でしっかりと取った。
「お姉ちゃんをどうか、お願いします」
震える腕で、彼女はランテに大事な人の命を託す。誓うようにその手を握り返した。
「はい、必ず連れて帰ります」
ノタナにもそう約束した。破るわけにはいかない。破るつもりもない。だから明確に言葉にして、ランテはユイカに伝えた。ユウラそっくりの赤い瞳を細めて、彼女は手を握ったままもう一度頭を下げた。その額が手に触れる。祈るように、暫くの間彼女はそうし続けていた。
「……ユイカ、ランテさんたちはそろそろ行かないと」
ソノに声を掛けられてようやく、手が離される。託されたものを逃がさないように、ランテは利き手をぎゅっと握った。
屋敷に残る二人が開けてくれた扉を、拳を握ったままでゆっくりと潜る。途端、曙色が視界を染めた。もう日の出だ。
「デリヤ、ミゼ。それから、トウガさんも」
何かしておきたくて、ランテは右の拳を前へ突き出した。ミゼが一度首を傾げてから合点して、同じように右手を伸べる。次にトウガが従って、全員の視線を受けたデリヤが溜息をついてから倣った。
「やろう、皆で」
集まった四つの拳に向けて、力強くランテは言った。昇った日が緩やかにその拳たちを照らす。曙の色の光だ。まるで始まりの女神に祝福を授けられたかのようだった。
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