【Ⅴ】   一緒

 会議が終了し全員を見送った後、ランテとデリヤ、そしてルノアを加えた三人は、行きと同じようにトウガに協力してもらい、ソノの屋敷へと戻ってきていた。できることをやり遂げられた、という結果にはならなかった。むしろ、当初の目的のほとんどを果たせなかったと言える。辛うじて別れ際に、テイト救出の件はアージェに部隊の編成を頼めたが、それとても上手く事が運ぶかは分からない。


 屋敷に戻ってから、デリヤはデワーヌ家の書物に目を通したいと言って書斎に籠っている。ルノアは、ソノやユイカと話をしているようだ。ランテは一人で使用人の部屋に戻った。既に日が暮れようとしていた。薄いカーテンを引いた窓から、紫に染まり始めた空が微かに見える。溜息をついたら、カーテンが頼りなげに揺れた。


「ランテ」


 ノックの後に扉が開く音がして、生まれた隙間からルノアが顔を出した。


「今、少しいい? さっきの、ランテが呪を上手く使えないことについて話したいの」


 言いながら部屋に入ってきて、ルノアはランテを見上げた。断る理由はもちろんないので、彼女にソファを勧めることで応じる。自分も隣に腰かけて、続く言葉を待った。


「呪が上手く使えないのは、あなたの中の始まりの女神の力が邪魔をしているからだと思うの。神光を取り込んで、それが一層強くなったから、制御が上手くいかないんじゃないかしら。取り出す呪力に彼女の力が混ざっているんだわ」


 真剣な眼差しでランテの胸の辺りを見つめて、ルノアは言う。


「ランテ、少し自分の中に意識を集中してみて。異質な力があるの、分かる?」


 集中のために、ランテは瞼を落とした。己の中を探るように自分の内側を意識する。普段異質なものの存在感は全くなかったが、こうして集中してみると、何か……身体の一部が切り取られたような感覚があった。それをそのまま言葉にしてみると、ルノアは一つ頷く。


「私が精霊を宿しているように、あなたは始まりの女神の思念と力を宿している。身体の一部を貸してあげているようなものだから、ランテのその感覚はきっと正しいわ」


「始まりの女神はどうしてオレに宿ったんだろう。傍にいたから?」


「彼女が倒されたとき、私やベイデルハルク、クレイドやお母様もそこにいたわ。でも、ランテが選ばれた。何か理由があるのかもしれないけれど……それは、女神に聞いてみないと分からない。ごめんなさい」


「ううん。もしかしたら、死んでいたからかも」


「……ランテは死んでいないわ。だって、ここにいる」


 ランテの言葉に、ルノアは酷く傷ついたような顔をした。怯んだようにそれきり口を閉ざしたルノアに、慌てて謝罪する。


「ごめん。うん、オレはちゃんと生きてる。生きてるよ、ルノア」


「ええ……」


 そう答えても、ルノアはまだ脅えた顔をしていた。膝の上で重ねられた手が微かに揺れている。


「それで、なら、どうしたらいいかな」


 これ以上悲しい顔をさせたくなくて、ランテは努めて明るい声を出しながら新しい話を振った。ルノアはちらりと視線を送ってきて、ランテが笑っているのに釣られたように少しだけ口角を上げる。ほっとした。


「呪を使うときに、注意して自分だけの呪力を取り出すようにするの。可能なら防御呪を使うときの要領で、自分以外の力を封じ込めるようにするといいのだけど」


「やってみていい?」


「ええ。部屋を壊すわけにはいかないから、防御呪がいいと思うわ」


「うん、分かった。じゃあ【加護】でやってみる」


 防御呪は命に直結する重要な呪だからと、テイトから加護については一層厳しく指導を受けていた。その成果があって、中級呪の中では一番自信がある呪となっていた。自分を包み込むように、優しい光が何層も重なるイメージをする。ゆっくりと呪力を取り出して——


「あっ」


 注意していたのに、途中で取り出す呪力に女神の力が混ざってしまったのを自覚した。途端呪力が操りきれなくなって、不完全なまま加護が発動してしまう。作り上げられた光の膜は、先ほどランテが溜息で揺らしたカーテンのように、不安げに揺らめいている。


「難しいな……」


 呟きの通り想像以上に難しいと感じた。しかし、呪が使えない状態で明後日を迎えるわけにはいかない。もう一度挑戦しようとしたら、隣からルノアが助言をくれた。


「呪を使おうとすると、ランテの呪力に女神の力が反応して、普段より制御が難しくなるわ。だから、事前にいつもより制御に割く力を増やしてみて」


「うん、ありがとう」


 ふと懐かしさが込み上げてきて、ランテはつい追憶に浸ってしまった。あの秘密の特訓場所で、二人でこうして剣と呪を教え合ったことが蘇ってきて、自然と口許が緩んだ。当時は夢中で気づかなかったけれど、あのときはとても幸福だった。また、あんな時間が戻ってくるといい。願いながら、ランテは呪力の制御にますます打ち込んだ。




「今日は、これくらいにしておきましょう。明日も一日あるわ。焦らないで」


 試行回数が十を超えたあたりで、ルノアはランテを止めた。まだまだやれるような気はしたが、少し疲れてやや集中力が欠けてきた頃合いだったから、少なくとも多少の休憩は取った方が良いだろう。従って、やめにした。回を重ねるごとに良くなっているのは感じるが、それでもまだ成功したとは言えない出来でもあった。焦らないでと言われたが、どうしたって焦る。


「大丈夫。こつを掴んでしまえば、後は簡単だから。きっと明日一日あれば、上手く使えるようになるわ」


 ランテの焦りを感じ取ってだろうか、ルノアが優しく励ましてくれる。考えてみれば、記憶喪失以降ルノアとこんなにゆっくりと会話できるのは初めてだ。明後日以降は、そんな余裕はなくなってしまうかもしれない。今しかないと思ってランテはルノアに向き直った。


「うん、ありがとう。ルノア、ちょっと話がしたいんだけどいい?」


 一度瞳を伏せはしたもののルノアは拒まなかった。返事はなかったが、ルノアもまたランテに向き直る。ソファに並んで座っているので、完全に向き合うことはなかったが、視線が自然に交わせる向きにはなった。


「何から話せばいいのか分からないな……オレ、全部、ではないかもしれないけど、とにかく大体は思い出して。それで、言いたいことがあるんだ」


 ゆるりとした頷きが返ってくる。ルノアはまた脅えているようだった。わずかに落とした視線は、ランテの胸の中央辺りを見続けている。重ねられた両手は、ぎゅっと握られていた。


「ルノア、ごめん。独りにしてごめん。辛い思いをさせてごめん。こうやって謝ることしかできなくて、ごめん、ルノア。……ううん、ミゼ」


 記憶が戻って一番に考えたのは、ミゼのその後だった。ああしてランテが目の前で消えて、ミゼは何を思っただろう。世界がこうなったということは、ランテのあの行いをもってしてもベイデルハルクとクレイドは倒せないままだったのだろう。敵の前に独り残されたミゼの孤独と恐怖と、それからの悲嘆に満ちた七百年を思うと、身体が裂けてしまいそうなほどに胸が痛む。どう言葉にしてよいかも分からないほどに。


「ミゼは、七百年間、オレじゃ想像もできないくらい辛かったと思う。苦しくて、何度も消えてしまいたくなったと思う。でもミゼは逃げなかった。中央に立ち向かって、皆を守り続けようとしてくれた。誰にでもできることじゃないって、オレは思うんだ」


 優しいミゼは、ベイデルハルクが全て悪いのだと割り切れはしなかっただろう。聖戦と名づけられた戦いを止められず、散っていく命たちを目の当たりにして、自分を責め続けていたに違いない。常に罪の意識を持ちながら独りで生きる七百年は、生き地獄でしかない日々だったはずだ。


 想像を絶する彼女の忍耐の七百年を、どう労い、どう称えればよいか。ランテが持つ言葉たちでは、到底ふさわしいものを探し当てられない気がした。それでも黙っていて良いはずがない。必死に頭の中を探り回す。


「ミゼ。頑張り続けてくれて、ありがとう。ミゼがいてくれたから、まだこの世界はベイデルハルクと戦える。ミゼのおかげなんだ。それを分かっていて欲しくて。……伝わる?」


 じっとルノアを——ミゼを見つめた。ミゼは膝の上で組んだ自分の両手を凝視したままで微動だにしない。肩から滑り落ちた髪に邪魔されて、表情がちっともうかがえなかった。


 かなり長い間そうしていたミゼは、やがてふるふると震えるように首を横に振った。解けた指がきゅっと小さな拳を作る。やはりそれも震えている。


「違うの……ランテ、違うの……」


 零れた声はひどくか細くて、耳を澄ましていないと聞き取れない。耳を近づけるために寄って、ランテは彼女を呼んだ。


「ミゼ?」


「……私、そんなに正しくは、いられなかった……」


 さらに二度小さく首を振って、ミゼは言う。震えは今や彼女の華奢な身体全体に広がっていた。どうしていいか分からなくて、ランテはおずおずと利き手を伸ばした。そっと、ミゼの背中を撫でる。


「私は、たぶん……もう一度、あなたに……逢いたかっただけなの……」


 弱々しい声で、彼女はそう告白した。握られた拳の上に透き通った雫が流れ落ちた。止まらない。後から後から流れ落ちて、あっという間に面積を広げると、手の甲から滑り落ち始めた。


「またあなたと逢うために……世界を守ろうとしていただけで……自分のことしか、考えていなくて……王族失格、で」


 そうしてミゼは、泣きながら自分を責め続ける。その後は何か言おうとしたら、声を上げて泣いてしまいそうだったのだろう。唇を強く結んで、震えながら涙を零し続けていた。


 ああ、と思った。


 同じだった。きっと、最初から全部、オレたちはいつだって同じ気持ちだったんだ。


「ミゼ」


 呼ぶと同時に、ランテはミゼの小さな身体を捕まえた。記憶の中の熱と同じものは感じられなかったけれど、そんなことはどうだって良かった。ここにミゼがいる。そして自分もいる。ただもうそれで良かった。


 身体を硬直させて少しも動かさないミゼに、ランテはできるだけ優しく伝える。


「大丈夫」


「ラン、テ」


「大丈夫だよ、ミゼ。オレも一緒だった。だから、大丈夫」


 ミゼはなおもしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと腕の中からランテを見上げた。新しい涙が零れ落ちる。何よりも美しい宵色の瞳に向けて、言葉を重ねた。


「オレは、本当はミゼを城から連れ出したかった。国のことなんてちっとも考えてなかった。ミゼだけ無事だったらそれでいいって思ってたよ。一緒だ」


 聞き届けて、ミゼは驚いたように目を丸くした。何か言いかけて少し口を開いて、しかしそこから言葉は出てこない。代わりにミゼはまた瞳に涙を溜めた。そのまま彼女は、俯けた頭をランテの胸に預ける。ゆるりと持ち上げられた手が、ランテの胸元の服をぎゅっと握り締めた。


 そうしてミゼは、嗚咽を必死に押し殺しながら、月が昇ってしまうまでランテの腕の中で泣き続けた。涙は止まらなくても震えは止まっていて、だから、悲しくはならなかった。むしろ、もっと泣いて欲しかった。きっと彼女はこれまで泣く場所一つ、見つけられなかっただろうから。




 ミゼの涙が止まるまで、ランテは彼女を抱き締めながら、背中を撫で続けた。熱のなかった身体にランテの熱が移って、ほんのりと温かくなっている。


「大丈夫?」


 こくりと頷きを落として、ミゼは涙の跡が残る面を上げた。そこにほんのりと笑みを刷いて、彼女は言う。


「この身体でも、泣けるのね」


「これまで泣かなかった?」


「泣けると思っていなかったし、泣く資格なんてないと思っていたから」


「泣くことに資格なんていらないと思うんだ」


 思うままに言えば、ミゼはまた静かに笑みを重ねた。


「ありがとう」


 励ましの効果は、多少はあったのだろう。ミゼの笑みからは、少し憂いが薄れたように見えた。しかし、まだ消え去ったわけではない。この切なげな光を、全て消したいとランテは思った。また懸命に言葉をかき集め始める。


「世界のためにとか、国のためにとか、全員のためにとか……そう思って動ける人はすごいとは思うけど、オレたちは人間で神様じゃないから、大きな範囲を全部一気に守ることなんてきっとできない。だから思うんだけど、人間は我儘でいいと思うんだ、ミゼ。手の届く範囲にいる大事な人をそれぞれが守っていく。結局はそれが、世界を守ることに繋がっていくんじゃないかなって。ほら、前も言ったけど、一人じゃ戦えないと思う。持ちきれない量の重荷を背負うと苦しくて、動けなくなっちゃう気がする。皆で分け合って、皆で頑張る。あ、もちろん、自分たち以外はどうなってもいいなんて考え方は駄目だけど……人間って小さいから、目標も小さくていいんじゃないかって、オレは思うんだ」


 ミゼはランテをじっと見つめながら聞いている。ミゼの瞳の中に映った自分に向けて、挑むように、ランテは言った。


「ミゼも他の皆も強くて優秀で、背負うのが当たり前になっちゃったんだ。それは周りの人間の頑張りが足りていなかったから、そうなっちゃったのかもしれない。でも、理由はたぶんもう一つあって、それはミゼたち自身が頑張りすぎてしまったところもあると思うんだ。だからもう少し荷物を下ろそう、ミゼ。世界のために、国のためにじゃなくていい。皆で一緒に、ちょっとずつ大事な人たちを守っていこう。それがきっと世界を守ることになる。オレももっと頑張るから、しっかりするから、もっと頼って、ミゼ」


 ランテを真剣な顔で見つめていたミゼの顔に、ゆっくりと、新しい微笑が滲んでいった。細い指で涙の跡を拭って言う。


「ランテは本当に、人を励ますのが上手ね。昔からずっとそうだった。私は何度助けられたか分からない。あなたがいてくれたから、私は」


 そこで言葉を切って、ミゼは、ランテとかつて剣や呪の特訓をしていたときの頃のように、陰りのない笑みを浮かべた。ランテの胸を優しい温かさが一杯に満たしていく。ずっと足りなかったものを、ようやく見つけたような気がした。


「ありがとう、ランテ。悔いないというのは少し難しいけれど、私はもう嘆かない。迷わない。皆にも手伝ってもらって——いいえ、皆と役目を分け合って、立ち向かう」


 言葉通り迷いを消し去った瞳を真っ直ぐにランテに向けるミゼは、それでも少しの脅えと不安を抱えているようで、だからこそ普段のように世を儚むような表情をしているときよりも、ずっと人間らしく見えた。それが無性に嬉しくて、ランテもつい笑んでしまう。今度はミゼの手を誓うようにぎゅっと握った。


「うん、一緒に守り合って戦おう、ミゼ」


 頷いたミゼは、ランテの手を握り返してくれた。今はそれが何よりランテの闘志を高めてくれる気がした。

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