【Ⅲ】ー2 溜息

 西部準都市スフィリーナ、白軍西支部にて。


 第二副長室に行くのが、憂鬱で仕方なかった。ついた溜息は、この数日で確かもう五十にはなるはずだ。その事実に今一度、カゼッタは溜息を重ねた。


「失礼します、ネリドル副長。お話がございまして」


 ノック三回の後にこう発すると、扉の中からはやはり——それが“やはり”になることが大変物悲しいのであるが——想定通りの返答があった。


「今忙しいんだ。後にしてもらえないか」


「いつ参ってもそうではありませんか」


 思うままに零して、再び「失礼します」と断り、カゼッタはノブを握った。この人には多少強引に出ないといけないと、過去の経験で学んでいた。


「ああ、サード先輩の腹心だからといって、上官の指示を無視するなんて!」


「大変申し訳ありませんが、至急の事態なのです。私では力不足で、副長殿に出ていただく他ないことでして」


「……仕方ないな」


 こういう立場を重んじた言葉に弱いのも学習済みだ。案外素直なところには、わずかな好感を抱けないわけではない。わずかだが。


「中央からの増援が、撤収したいと煩いのです。もう黒軍の姿が見えなくなって大分経つからいいだろうと。どうも、支部の食堂が気に入らないようで、長く留まりたくない様子で」


「贅沢な! この間、名店のディナーでもてなしたところだというのに」


「どうやらそれで味を占めてしまったようです」


「これだから中央軍は!」


 勢いよく椅子を引いて、ネリドルは立ち上がった。机上に山積していた書類が、どさどさと雪崩を起こす。多忙ということに嘘はないのだろう。ほとんどは支部長であるゴダの尻拭いだろうから、多少不憫な気はした。


「こちらの厚意でもてなしたというのに、それで図に乗るとは礼儀知らずではないか。いいよ、分かった。私が行き、灸を据えて——」


 そこで唐突に言葉が途切れる。ネリドルの身体から力が抜けて、がたりと椅子の上に崩れ落ちた。今のは尋常な倒れ方ではなかった。さすがに焦って、カゼッタは大きな机を回り込み、彼に寄る。


「ネリドル副長! どうされました!」


 もしや、過労が祟って? いや、違うようだ。顔を覗き込んで初めて、ネリドルの周囲にほのかな闇が漂っているのを見た。黒軍か。まずい、サード副長はまだ総会から戻っていない——そんなことを考えながら腰の剣に手をかけたところで、覚えのある声を聞く。


「手荒な真似をして、すみません。あなただけと話がしたくて」


 傍らに佇んでいたのは、あのとき——黒軍がスフィリーナに入り込んだとき——の女だった。作り物のように精巧な顔に、儚い微笑を染み渡らせて、彼女は言う。


「お久しぶりです、副長副官さん。その後、町はどうですか」


「問題ないが……」


 しかし、この女が来たといういうことは、また何か起こるのだろうか。不安になったカゼッタの前で、女は肩から流れ落ちた横髪をゆっくりと耳にかけると、顔を上げる。


「三支部が、中央本部へ兵を出します。もちろん、攻め落とすつもりで」


 言葉の意味がよく理解できなくて、カゼッタは何度も頭の中で反芻した。


「内乱が起こるのか」


 半ば茫然としながら尋ねた言葉に、女は躊躇ためらうことなく首肯した。


「そうなります」


「黒軍の脅威も高まっているというのに、なぜ今——」


「黒軍とは本来、戦う理由はないのです。激戦区に現れた城の話は、まだこちらには届いていませんか?」


 届いている。沈黙が答えになった。女は頷く。


「中央が歴史を改竄し、戦いの理由を作り出したのです。だからと言って、中央を倒せばすべて終わるとは私も思いません。ですが、その一歩にはなる。きっとそうでしょう」


 ——カゼッタ。王国説を知っているか?


 蘇ったのは、サードの言だった。カゼッタには、彼から聞いた王国説の知識が多少ある。当時は伝説のようなものだと思いつつ聞いていたが、城の出現を聞いて、その説に真実味を感じたのもそうであった。


 しかし、と思う。確信が持てもしないのに、中央を打倒するなど思い切りがよすぎやしないか。いや、東と北は分かる。かねてから衝突していたから、今回の件はよい大義名分になるだろう。だが我ら西は、中央の庇護があってはじめて形を保てている部分が少なからずあるのだ。中央に叛逆するとなると、東や北の数倍の覚悟が必要になる。


 ここ西支部には、中央から左遷された者が多く集っている。半数は役立たずゆえに飛ばされた身分のみの輩たちで、もう半分は中央への忠誠心に欠ける者たちだ。この話を支部内で持ち出したとしたら——確実に、西は分裂する。小心者と我が強い者とで、意見が一致するわけがない。


「……西も出兵しろと、そう言いたいのか?」


「いえ。判断は任せます。あなたの上官は、私の意見など欲さないでしょう」


 それは間違いないだろう。そして、サードの選択はもう読めた。あの人はこの上なく我が強い。おそらくこの女も、それを目論もくろんでこの情報を伝えに来たに違いなかった。


「もし兵を出すことになるのなら、四日後、中央貧民街で軍議があります。実際の出兵はその二日後になるでしょう。軍議には指揮官のみを向かわせてください。詳しい話は、北から書簡が届くと思いますので、それで確認を」


 こちらの反応を待つことなく、女は言い終えると同時に姿を消した。後には、伸びたままのネリドルと、カゼッタだけが残される。


 総会は昨日終わっているはずだった。サードはじきに戻るだろう。カゼッタは、選択を迫られることになった。


 今聞いた情報を、サードに伝えるか否か。


 頭痛の、それもとびきり大きな種が増えてしまったことに、五十数回目の溜息をついた。きっとさして迷わないだろう自分に気づいて、また溜息を足す。


 西支部の副長副官というのも、楽ではないなと思った。






 南部準都市ラチェル、白軍南支部にて。


 すれ違った隊員たちの半分弱は知らない顔だったが、知っている顔には軒並み「何をしに来たんだ?」という言葉が貼りつけてあるようで、居心地は悪かった。だが故郷の街並みは懐かしく、幼い頃兄と駆け回った広場を通ったときは自然と笑みが零れた。


 支部までたどり着いたとき、町は夕暮れどきを迎えていた。最後にここを通ったのは、怒りのままに支部を飛び出したときだったと思い出して、何とも言えないような気分になる。兄は、あのときの判断を正しかったと言ってくれるだろうか。何度考えたか分からない問いを、ナバはもう一度頭に浮かべた。


 玄関の兵に応接室に通され、そこに座して待つ。支部長は昼過ぎには総会から戻ったらしく、彼女が来るらしい。できればその前に来たかったが、しようのないことだ。女を待つのにこんなにも嫌な気分になるなんてと苦笑する。仕方がない。相手は世界で二番目に嫌いな女なのだ。いや、一番目はもう死んだようだから、今は一番か。


 ノックが聞こえる。ナバはすっと席を立った。開いた扉の向こうにいた人影を認めて、腰を折る。一応の礼は尽くそう。


「ご多忙の中、お時間を頂きすみません」


「東支部副長からの書簡をお持ちだとか」


「はい、ここに」


 南支部長ミラハは事務的な言葉しか寄越さない。相も変わらず氷のような女だ。知っていたことだったが、落胆したのは、まだどこかに謝罪を期待していた自分がいたからだろう。自嘲は堪えた。


 ミラハは書簡に目を通し終えると、元の形に戻してそのままナバに突き返してくる。何もかも、いくつかした想定の最低のパターンをなぞるような反応だ。やはり、この人とはとことん合わないとナバは思う。


「見なかったことにします」


 一言それだけ言ってミラハは立ち上がる。表情を一切動かさない。今度もまた、中立を掲げ、貫くつもりなのだろう。それが一番楽だからだ。


「本当に、あんたはつまらねー人だな」


 消えていく背中に向けて、投げつけてやる。傷つけてやりたくて放った言葉だったが、南の支部長であることを示す臙脂色のマントは、一瞬たりとも乱れないまま消えた。


 つかみかからないだけ大人になったと、自分で思う。


「さて」


 書簡を懐にしまって、あえて口に出し、ナバはすくっと立ち上がった。案の定、悪いことをしなければならなくなった。


「……ほんと、人が悪いすよ。副長。今度ボーナスくださいよ」


 思い浮かべていたのは、北の方の副長の姿だった。金貨二枚で生活なんてできっこないから、またあの人に助けてもらわなければならない。ここまではきっと、彼にとっても想定内だったのだろう。だからこそ、南への橋渡し役にナバを選んだのだ。おそらくは我が東支部の副長も同じ考えだ。書簡の内容にはまるでやる気を感じなかった。そもそも彼女は、ナバが言うまで書簡を書く気もなかった。二人とも、この後の自分の働きの方に期待をかけている。笑っていた。あの二人は、こういうときだけ妙に気が合う。


「分かる人には分かるってことか。オレの本領」


 声に出すことで、自分を鼓舞する。


 やってやろうと思った。

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