【Ⅲ】ー1 もう一度
意志を失った虚ろな目を半分だけ晒し、血まみれで傷だらけの身体を投げ出して、ランテは死んでいた。
その事実を理解するのは、そんなに難しい話ではなかった。というのも、死した己の肉体が目の前に横たわっていれば、嫌でも理解できる。むしろ、それを『理解できる』という状況のほうが、ランテには不思議でならなかった。ただそれも、今の自分は幽霊のようなものなのだろうと結論づければ、案外素直に受け入れることができた。
ランテは冷静だった。情けない自分に怒りを覚えはしたが、
当然というべきか、身体の感覚は失せていた。どこにあるのか分からない目で周囲を見渡してみる。あれから、つまりランテが死んでからは、それなりに時間が経過してしまっているようだった。
まずミゼがいない。いや、ミゼだけではなかった。ランテの屍以外のすべてのものが、この空間から消えていた。
どこへ行ったのだろう。女神は、どうなったのだろう。すぐにでも探しに行きたかったが、動けなかった。足も手もどこにあるのか分からない。そもそも、あるのかすら分からない。
気だけが急く中で途方に暮れていたら、そのとき不意に音がした。それは次々連なると、意味を成していく。
——我は、ラフェンティアルン。
声と呼ぶには足りないものが多すぎるが、その音は始まりの女神が発するものであると、なぜか確信できた。が、肝心の彼女はどこにもいない。ならばこれはどこから聞こえてくるのだろうと思案して、見つけた答えにさすがに驚く。内側だ。この音は、ランテの内側から響いてくる。
——我は王国の平安を守ると誓い、女神となった。
——身体はとうに朽ち果て、魂ももはや一片を残すのみ。
——されど、己が使命は未だ果たされず。
言葉が、淡々と並べられていく。女神の意志などランテにとってはどうでもよかった。今必要なのは、ミゼを助けに行く力だ。それが欲しくてたまらない。
——この地に新たな王と女神を。
——汝に我が力を授けよう。
話半分に女神の言葉を聞き流していたランテだったが、次の瞬間、何とも形容しがたい奇妙な感覚に襲われた。自分の中から生み出された曙色の光が、広間中を染め上げて……その光の全てが、自分の一部であるという、そんな感覚だ。今ランテは、広間の天井に触れ、壁に触れ、床に触れ、そして己の屍を覆い尽くしている。死んでいるはずなのに、それらに触れているという実感があるのだ。
何もかも、分からなかった。混乱することすらできないほどに、全てが分からない。息を殺して——殺す息などきっとないのだろうけど——ランテはじっと、待っていた。そうしていると、広間全体に広がっていたランテの感覚が、少しずつ収縮されていくのが分かった。
——我が力ももうわずか。
——力を得て、汝は何を望む?
願いなど決まっている。心の中に響く問いかけに、ランテは意識を集中した。刻むように、誓うように、一つだけの答えを告げる。
「もう一度だけ、ミゼを守る力が欲しい」
答えの代わりに、女神は光をさらに収縮させた。密度を増した光は、ミゼのところへ駆けるための足を成し、ミゼを守るための腕を成す。
どくり。
胸に、鼓動が戻ってくる。身体中を流れる熱い血潮を再び感じることができる。恐る恐る、光を秘めた腕を持ち上げ、指を一本一本折ってみた。動く、動かせる。紛い物かもしれないけれど、構わなかった。身体があればミゼをまた守ることができる。それさえ果たせるのであれば、他のことはどうだってよかった。
確かめるように歩を進めて、出口へ向かう。玉座の間まで戻れば己の剣を見つけた。拾い上げる。握ることができている。
「……ミゼの」
声を発してみれば、己の声がちゃんと出てくる。
「ミゼのところへ行かなきゃ」
思いを口にしてみると、ふいに身体が軽くなった。光に包まれて、ぐいっと引っ張られる。ミゼに教えてもらったけれど、結局うまくできなかった【光速】だ。それが今、信じられないほど簡単に使えた。女神の力の功だろう。
繰り返し光速を使えば、あっという間に城を出ることができた。城の中にはあちこち血が飛び散っていて、それを踏んだことによってできた多くの赤い足音が、そこかしこに散見された。どれがミゼのものかは分からない。それでも彼女はこの先にいると確信できた。
さらに先に。そう思って顔を上げた瞬間だった。眼下に広がる街を目にした途端、ランテの思考は硬直した。
「え……え?」
目を疑う。疑っても結果は同じだったのだけれど。
城下町が燃えているのは知っていた。それでも、この惨状は予想だにできなかったのだ。ある場所は燃え、ある場所は凍てつき、ある場所は横倒しにされ、ある場所は森に覆いつくされ。落雷の結果だろうか、焼け焦げた場所もあれば、土砂に埋もれてしまった場所もある。町は既に、町としては存在していなかった。
「何だ? 何でこんなことに……」
町の至るところで、明滅する鮮やかな光が踊っている。あれがきっと精霊なのだろう。女神の中に封じられていたはずの精霊たちが、外に出て、暴れているのか? ミゼは大丈夫だろうか。両親は? 友達は、親戚は、近所の人たちはどうだろう。先に城下町へ急行したマイルと、それを追っただろう紫の軍の皆は無事なのか?
空に閃光が走り、雷鳴が轟く。その音がランテを我に返らせた。ここでこうしていても意味がない。早く行かなければ。自分も、あそこへ。
「もう少し、力を貸してください。ミゼのところまで」
自分の内側にいる女神へ、語りかける。言葉としての返事はもう得られなかったが、呼応するように身体が光で包まれる。
そのままさらに数度、光速を使った。合間合間に間近で見る城下町では人々が逃げ惑い、あちこちであらゆる色の光の集合体がさまよっている。人ごみの中にミゼの姿を探すが、見つけられない。
「ミゼ、ミゼ」
ぼんやりと、ランテにはミゼの居場所が分かるような気がしていた。城下町のちょうど真ん中のあたり、だろうか。噴水広場があるあたりだ。それが女神の力によるものなのか、理由は分からないが、とにかくそこをひたすらに目指す。
「ランテ? おい、ランテだよな?」
あと少しで広場に辿り着く。そういうときにランテを呼ぶ声を聞いた。振り返る前に腕を捕まれる。
「ああよかった、何か雰囲気が違うから。無事でよかったけど、これ、どういう状況なんだ?」
マイルだ。彼はいくらか血のついた剣を握りしめている。ランテがそれを見やったのに気づくと、彼は少し悲しそうに笑った。
「工作兵は全部片づけた。さっきまで同じ場所で働いていた仲間たちを斬るのは、当然、気持ちの良いことじゃなかったけど」
「マイルこそ無事でよかった。でも、心配するまでもなかったかな。マイルの剣の腕ならそうそう遅れは取らないだろうし」
「とにかく、この状況を説明してくれ。精霊が暴走したのか? 姫様は? ベイデルハルクはどうなって——」
「マイル」
時間が惜しかった。名を呼ぶと、やや混乱していた様子のマイルは戸惑ったようにランテを見返す。彼が再び何かを言う前に、ランテが言葉を継いだ。
「急がないといけないんだ。オレが行ってくる。マイルは、町の人たちを避難させてあげて。大事な人もいるんだし」
「行くってどこへ? お前一人でか? オレも——」
「大丈夫」
微笑んで言ってみせれば、マイルは驚いたように目を見張り言葉を飲み込んだ。そんな彼へ向けて、もうひとつ、添える。
「大丈夫だから。父さんと母さんを見つけたら、お願い」
心は平静だった。己の骸はあの場所に置いてきた。せめて両親の目に入らなければいいなと願う。おそらく、もう会えない。自分は間違いなく死んでしまったのだ。ミゼを助けて、この凄惨な状況をどうにかできたら、心残りはない。
兄と慕ったマイルとも、これが最後になるだろう。半ば呆然としているマイルにもう一度だけ笑いかけて、ランテは光を呼んだ。
すっかり包まれてしまってから、小さく、別れの言葉を呟いた。彼には聞こえていないだろう。それでいいと思った。
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