【Ⅱ】ー3 終わり

 敵うとは最初から思っていなかった。一瞬でいい、どんな形でもいい。とにかく隙を作れば、後は傍にいる仲間たちがどうにかしてくれる。ランテはそう信じていたから、どれだけ受け流され、どれだけかわされても、立ち向かうことをやめなかった。


「筋は悪くないな。磨けば光る剣だ」


 遊ばれているのが分かる。クレイドとレイグの戦いは一瞬で勝負が決したが、それは遊ばずに仕留めにかかったからだろう。未熟なランテの剣を捌くのは、クレイドにとっては子供を相手にするのと同じように容易く、だから一分の隙すら作ることなく延々と弄び続けることができるのだ。


「どうして、どうして!」


 正しいのは、ミゼだ。間違っているのは、目の前の男とベイデルハルクだ。それは疑いようもないことなのに、正しい人を正しいものとして守るだけの力がランテにはなかった。悔しくて情けない。自分と敵への怒りを力の源泉にして剣を振るうが、何度振ってもそれは届くことがなかった。


「飽きたな」


 その声を聞いた直後、目の前にいたはずのクレイドが突如姿を消した。戸惑うよりも先に、ランテは膝をついていた。背中を、何か熱いものが流れていく。身体を焼くような痛みが背中から全身に突き抜けて、気づけば絶叫していた。


「ああぁ!」


「ランテっ!」


 いつの間に倒れたのか、とにかく立ち上がらなくてはならないのに、身体が動かない。おそらく背中を縦に一度裂かれただけだろうが、既に血を流しすぎたようだ。身じろぐとまた痛みが襲ってきて、悶えることで精一杯という有様だった。どうしようもなく無様だ。そう思うのに、それでも、立てない。


「ミゼリローザ様、引きましょう。我々が時間を」


「やめて!」


 仲間の誰かの声に答えるミゼの声が聞こえる。ほとんど悲鳴だった。立ち上がらなければ。早く、ミゼを安心させなければ。守らなければ。


「もう誰も傷つかないで。騎士長、私をこの先に連れて行きたいのね? 連れて行って」


「姫様!」


「ここまで連れてきてくれて、ありがとう、皆。どちらにせよ、私は女神の間に行かなければならなかった。だからいいんです。町の方をお願いします」


「しかし」


「お願いします」


 ランテの身体が浮き上がる。クレイドに持ち上げられたらしい。痛みに顔が歪んだ。振りほどきたいのに、もがくことすら難しい。


「やめて! ランテを離して」


「それはできませんね、殿下。あなたとお話をするためには、どうやら彼が必要らしいですから」


 このままでは体のよい人質にされてしまう。どうにか、どんな手を使ってもいい、逃れなくては。自分を抱える腕に手を伸ばしたところで、またしても背中から痛みが疾走する。背中を殴りつけられたようだ。


「あぐっ」


「大人しくしていろ」


「やめなさい! 従う、従うわ。だからこれ以上ランテを痛めつけないで」


 クレイドが笑声が降ってくる。心底、愉快げな声だった。自分は何をしているのだろう。胸から溢れ出る怒りで身が焦げそうだ。そういう心が、この状況を切り開く力にちっともなり得ないのが呪わしかった。されるがままに、玉座の間の奥へと連れて行かれる。


 新しい部屋に入ると、ランテはどさりと床に投げ出された。流れ出した血が床に広がっていく。情けなくまた呻いてしまう自分が、苛立たしくて堪らない。ランテの苦痛の声を聞くたび、きっとミゼは苦しんでいるだろう。


「これはこれは、ミゼリローザ姫。いや、婚約者となった今、姫などと呼んでは他人行儀かな?」


「ベイデルハルク……」


 やはり、この男なのだ。こんな男がいるから。ミゼが笑って過ごせるだったはずの日々を返して欲しい。この男さえ、いなかったなら。


「始まりの女神はもう限界だ。精霊移しの儀を、すぐに執り行ってもらわねば。私がやろうとしたのだがね。女神の血を引く者でなければと拒絶されてしまった。ここにおわす君の母君に頼んでみたが、一人では力が足りぬと言う。女神の我儘ぶりには困ったものだ」


「女神に拒まれたから、私にここで精霊移しをさせた後、力を奪う気でしょう。精霊移しの儀は、あなたたちの前では行いません。立ち去りなさい」


 ミゼの声は、聞いたランテが心配になるほどに気丈だった。凛とした声で、毅然と語る。感じているはずの恐怖は欠片も覗かせない。


「殿下、拒否できる状況だとお思いですか?」


 すぐ近くでクレイドの声がした。剣先で背中がつつかれる。痛みに耐えながら、ランテはどうにか首を起こして、ミゼの姿を探した。


「ランテ……」


 目が合うと、ミゼの瞳が揺れた。その目を捕まえて笑ってみせる。せめてミゼを苦悩させたくないと、そう願う。


「ミゼ、いいよ。オレのことは……う、ぁ」


 背中に剣が浅く食い込んだ。声を上げそうになって、歯を食いしばって堪える。その後荒い息を吐き出して痛みを逃がし、ランテはもう一度笑い直す。


「大、丈夫……ミゼ、従わ、ないで、あ……くっ」


 剣が少し深く食い込んだ。身体がけ反るが、悲鳴だけは上げるわけにいかなかった。両の手を握り潰し、歯を強く噛み締める。ミゼの瞳の揺れが強くなった。駄目だ。ミゼを屈させるわけにはいかない。そのためにランテができることは、もう多くはないのだけれど。


「ミ、ゼ!」


 強く、名を呼んだ。言葉はいらないと思った。ミゼの揺れる双眸を、ランテが一番好きな色を、真っ直ぐ射貫くように見つめた。剣がまた突き立てられる。ランテも屈するわけにはいかない。痛みは絶えず襲ってきたが、悲鳴はどうにか飲み込んだ。


 ランテの視線をしばらくの間受け取り続けて、その後ミゼは静かに瞼を閉じた。身体が震えていた。華奢な身体は、そのまま今にも崩れ落ちてしまいそうだ。しかし再び瞼を開いたとき、もうミゼの瞳は揺れていなかった。彼女は、どこまでも、強かった。


「立ち去りなさい」


 震える声で、それでもミゼは言い切った。両手が、わななきながら強く指を握りこんでいるのが見えた。


 心はとても痛んでいた。ミゼの手元には、どれを選んでも彼女の心を深く傷つける選択肢しかなかった。ランテを助け王国を見捨てても、王国を救いランテを殺しても。結局彼女を傷つけるための駒にしかなれなかった自分が、本当に本当に、どんな言葉でも足りないくらいに許せなかった。それでもミゼがランテの意を汲んでくれたことで、幾らか救われる。どうしても、ミゼに国を滅ぼしたという意識を植えつけたくなかった。ミゼのためにそう思うのか、ランテ自身のためにそう思うのか。


「ミゼ、ありが、と」


 伝えて、笑う。無理なことかもしれないが、できるだけミゼの心に傷を残したくない。ミゼは傷ついた瞳を伏せて、ふるふると首を横に振った。ごめんなさいと、弱々しい声が零れた。


「使えんな」


「貴様もだクレイド。私はこの女を従わせるように考えろ、と言ったはずだが?」


「常人なら従っているはず、殿下を褒められたらいかがです? それに手段はもう一つあるとご存知でしょう?」


「面倒だが、この手で神殺しをするのも悪くないか」


 敵の会話を遠くに聞く。少し視界がぼやけ始めた。背中から次々血が流れ出していく。ああどうして、この身体はこんなにも脆いのだろう。立ち上がれたら、ミゼを守れたら。それが為せるなら、その後どうなったって構わないのに。


「そいつを殺せ」


 ベイデルハルクが命じた直後のことだった。


 首に、鋭い衝撃があった。


 喉を刺されたのだと理解した。


 突き通った刃を視界の端に見た。


 迸る血潮をただ見つめた。


 ああ、と思う。死ぬことは、それほど怖くはなかった。そんなことよりも、独り残されることになるミゼの方がずっと心配だった。どうして、自分には何もできないのだろう。ミゼを助けるどころか、ミゼを傷つけている。こんなにもあっけなく死んでいくことが、無念で無念で仕方がない。このままではランテは、ミゼを追い込むためだけに生まれてきたようなものではないか。自分のものだった、そのはずだった命を、敵に良いように利用され、最も傷つけたくなかった人を傷つけるために使われてしまった。ミゼは優しいから、一生、このことを忘れられないだろう。


 こんなことになるなら、ミゼと出会わなければ良かったのだろうか。


 違う。そう信じたいだけなのかもしれないけれど、それは違うとランテは思った。二人で過ごしてきたあの時間まで、踏みにじられたくなかった。ミゼにも、そう思って欲しい。だから、ランテがここで死ぬことなんて、許されない。


 溶けていく世界の中央に、ミゼの姿が見えた。彼女は声の限りにランテの名を呼んで、涙を流し、やがて崩れ落ちた。差し伸べようとした手は、ついに、動くことはなかった。


 動け、立て、笑え、守れ。


 遠ざかる意識の中で、ランテはひたすら繰り返し続けた。ここでランテが死んだら、誰がミゼを守るのだろう。守りたい、守らせて欲しい、守らなければならない。だから、ランテは死んではならないのだ。


 立ち上がって、剣を握って、ミゼを庇う自分を思い描いた。死ぬなと、自分で自分に言い聞かせる。この命はあの男たちの道具ではない。このまま死んではいけない。死ぬな、動け、死ぬな、守れ——


 そうしてランテは、最期の一瞬まで己の死を否定し続けた。乞うように、呪うように、誓うように、何度だって、何度だって。動かなくなった身体に引きずられるようにして動かなくなっていく心を無理やりに動かして、抗えないものに挑み続けたけれど。


 迫りくる終わりは、その想いごとランテを呑み込んでいった。


 静かに、そして非情に。

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