【Ⅱ】ー1 微笑

 秘密の会合は、ミゼが紫色のドレスを着ている時にだけ行われた。回を重ねるたびに騎士たちの数は増し、今ではもう百に届こうかといったほどにまでなっていた。もっとも、すべての人員が一堂に会せることはない。毎度非番の者だけが顔を出す。今夜は半数ばかりが集まっていた。


「【精霊移しの儀】は、七日後に決定しました。おそらく、ベイデルハルクが何らかの行動を起こすのもこの日になるでしょう」


 いつも一番情報を持っているのは、近衛騎士隊の長、レイグだった。レイグは武官の中では騎士全体の長であるクレイドに次ぐ地位にある。彼が開示する情報は確かなもので、ランテたち紫の軍——命名したのはランテだ、センスの欠片もないとマイルに笑われた——の貴重な生命線だった。


 精霊移しの儀。前にミゼが言っていた、始まりの女神ラフェティアルンが封じていた精霊をミゼとミゼの母親に移し替えるという儀式のことだ。近いうちにその日が訪れるだろうことはミゼから聞いていたが、ランテはいまだに受け入れられないでいた。ミゼは当然のことのように話すし、周りも誰も触れないけれど、王家に生まれただけのミゼがなぜそんな重い役目を——おそらくは今後何百年か、精霊を封じて生き続けなければならない——負わなければならないのだろうと思う。


「ベイデルハルクの私兵が以前にも増して城に入ってきています。間違いないでしょう。……それから、姫、申し上げにくいのですが」


 レイグが、気まずそうにミゼの前で両目を伏せた。基本的に歯に衣着せぬ物言いをする彼が、何かを言いにくいと口にするはこれまで目にしたことがない。よっぽどミゼに言うのが気後れすることなのだろう。レイグはミゼにだけ囁くが、ミゼは両の瞼を落として静かに頷くだけだった。


「ええ……そうではないかと思っていました。お母様はベイデルハルクと通じています」


 感情の乗らない声で、ミゼは皆に向けて言った。瞳の中に哀しみはあったけれども、揺れてはいなかった。とっくに心を決めていた、そういう瞳だった。


「ミゼ……」


「大丈夫、私には皆がいてくれるから」


 思わず寄ろうとしたランテを制して、ミゼがそっと微笑む。気丈に見えるだけに痛々しい。彼女の心中を思う。このとき初めて、ランテはベイデルハルクを憎いと思った。どうしてここまでミゼを追い詰めるのだろう。一体、何のために? 何を欲して? ぎゅっと、力いっぱい剣の柄を握り締める。


「それから、ミゼリローザ様、もう一つよくない報告があるんですよ」


 オーマが、およそ彼らしくない陰った声を携えて進み出た。次の言葉は、彼の視線を受けたレイグが続ける。


「自分と、ジェーラと、それからオーマ……つまり近衛騎士の中でここに来ている全員が、本日付で一般騎士に降格されました」


「そう……ですか……」


 静まり返った訓練場の中央で、ミゼが心細げに声を震わせた。胸の前に添えた両手も同じように震えている。もうミゼに一番近いところで彼女を護れる騎士は——味方は、いない。このままではミゼが孤立してしまう。


「その権限を持つクレイドのヤローがあっち側だから、これは仕方ないことだ。それより気になるのは、こっちの面子が正確にあいつらに伝わってることです、ミゼリローザ様。この中に内通者がいるようには見えねーが」


「姫様をお傍でお護りできる人間がいなくなったことこそが、最も懸念すべき事項だ、ジェーラ」


「敵ばかりの場所に、ミゼ——姫様を返すわけにはいかない。……と、思います」


 進み出て、ランテは言った。経験も浅く年齢も最も低いランテだが、ここにはそんなランテが発言することを厭う者はいない。皆が国とミゼを護るためを一番に思い、動いているからだ。頷きが広がっていく。


「よく分かっているな、坊主」


「姫様、我らはすぐにでも動くべきだと考えます。先手必勝、という言葉もありましょう。どうかご決断を」


「ミゼ」


 ミゼの瞳は揺れはしなかったが、口を開くまでにはしばらくの時間を要した。しかし、顔を上げ胸を張ったミゼの姿は凛とした気品に満ちていて、彼女の支えになるはずが、逆に活力を与えられるような気がする。


「……分かりました。今宵ベイデルハルクを討ちます。私に力を貸してください」


 声には悲哀の響きが秘められていた。しかし、覚悟と信頼とがそれよりもずっと勝っていて、もしかしたらランテ以外に気づいた者はいないかもしれない。しかし、ランテには分かる。誰よりも争いを嫌うミゼが、必ず争わねばならない場所にいる。辛かろう。苦しかろう。逃げ出したかろう。それでも弱音ひとつ吐くことさえ許されない彼女のために、自分には何ができる? 何もできないかもしれない。でも、傍にいる。たったそれだけしかできないけれど、それだけならできる。


「御意のままに」


 あちこちで闘志を漲らせた声が上がる。ランテも続こうとした、そのときだった。


「待て!」


 険しい顔でレイグが扉を睨んだ。皆が己の得物へ手を伸ばすが、しばらくすると一人、二人とその手を下げていった。向かってくるのは仲間なのだろう。だが、聞こえる足音は慌ただしい。


 皆が扉を見つめる中、雪崩れ込むようにして部屋に駆け込んできたマイルは、血の匂いを引き連れていた。


「マイル!」


「怪我を。エデ!」


 マイルは背中に怪我を負っているようだった。命に関わるほどのものでもなさそうだが、軽い傷でもない。一筋の裂傷、それは明らかに刀剣による——人の手による負傷だった。エデがマイルに治療を施すのを、何もできずにただ眺める。先ほどまで自分を浮かせていた熱が一目散に失せていくのを、ランテはやけに強く自覚した。何かが、今、この城の中で起こっている。ひどく胸がざわつく。皆も同じ不安を抱いたのだろう、固唾を飲んで荒い息を繰り返すマイルを見守っている。


「すみません……オレは大丈夫です。追手も……どうにか撒いてきました。ですが……」


「何があった?」


「ベイデルハルクが動き始めました。王が……陛下が……」


 マイルは半ば呆然としていた。おそらく自分の発している言葉が自分でも信じられないでいるか、あるいは信じたくないのかのどちらかだろう。だが、ミゼが彼の正面に両膝をついたところで、正気に返ったようだ。一度歯を噛みしめると、短く言った。


「討たれました」


 皆が一様に息を呑んで、それきり誰も話さない。動きすらしない。時が止まったかのような沈黙が場を支配する。


「伯父様が……」


 ミゼも今度ばかりは動じて、消え入りそうな声で言った。倒れてしまいそうな彼女に伸ばした腕は届かない。レイグが代わりに支える。


「騎士長です。報告があると言って近づき、そのまま——」


 言葉を詰まらせてマイルは俯いた。目が強く瞑られ、唇が引き結ばれて、両の掌は握りこまれている。抑えがたい感情を全身で耐えている、痛いほどにそれが分かる。


「陛下の仇を討つために立ち向かった奴らが斬られていくのを……オレは……見捨てて……敵に背を向けて……」


「伝令役はお前と決めていたはずだマイル。むしろお前でなければ、ここまで辿り着けなかっただろう。役目を果たしたんだ、誇るといい。よくやった」


 レイグの労いにも首を振るばかりだったが、肩に手を置かれるとマイルはそれで我に返ったらしかった。


「……すみません、ご迷惑を。今、城内の至る場所で戦いが起こっています。おそらく、ここにもじきに兵がやってくると思います」


 沈黙はその後もなおしばしの間居座ったが、ずっとそうしているわけにもいかない。レイグがミゼを優しく立ち上がらせると、剣を一撫でして皆に言う。


「姫様、城外へ脱出しましょう。先手を打たれました。一度逃れて立て直すべきです。全員姫様を無事に城外へお連れすることを——」


「いえ、それは駄目です」


 先の報はかなりの衝撃をミゼに与えたはずだが、彼女はあのときの動揺をもう押しとどめている。レイグの支えから離れて、皆の顔を見渡しながら言った。


「すみません、無理な願いをするとは分かっています。でも、私を玉座の間へ連れて行ってもらえませんか」


「駄目だミゼ、そんな敵ばかりのところに——」


「ベイデルハルクの身に女神の力——精霊が移されてしまえば、もう誰にも止めることができない。その前に私が、この身に精霊の力を宿します」


 止めようとしたランテに首を振り、ミゼは胸元で両手を添えた。固い覚悟が全身に染み渡っている。ああ、と思う。ミゼは強い。いっそ、悲しいまでに。


「承知仕りました。姫様を玉座の間へお連れする。全員姫様を死守するために動け、いいな」


 全てを察して、レイグも、皆もうけがった。頷き返して微笑んで見せたミゼに、今度こそ、ランテは寄った。


「ミゼ」


「ランテ、私は大丈夫。精霊移しの方法は、ちゃんと学んできたから」


「うん……」


 何と言って良いのか、最早分からなかった。本当は、何もかも放り出して忘れてしまえる場所へ、強引にでもミゼを連れていきたかった。しかしミゼは、それを自身に許さないだろう。分かっていたから、ランテはそっと彼女の手を握ろうとした。が、ミゼは後ずさってその手を避ける。


「ミゼ?」


「ごめんなさい、何でもないわ」


 寂しそうにランテが差しのべた腕を見つめて、ミゼはゆるゆると首を振った。何かあったのだろうか。ひどく心細げに見えたミゼを励まそうと、ランテは顔を上げた。


「ミゼ、絶対守るから。こういうときのために、オレは剣を練習してきたんだ」


「ありがとう、ランテ。……私」


 一瞬だけ、ミゼは涙の気配を見せた。だが、それだけだった。


「私も、戦うわ」


 虚勢だったかもしれない。きっとそうだっただろう。でもミゼは。


「私も、こういうときのために呪を練習してきたの」


 そう言って再び微笑んだ。とても美しかったけれど、ランテの好きなミゼの笑い方とは全然違っていた。哀しみ、苦しみ、辛さ。本当は声を上げて泣きたいくらいの、痛みの全てを隠してしまう微笑みを、ミゼはいつの間にか身につけてしまっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る