【Ⅰ】ー2 許して

 その建物は、澄み渡った朝日の色をしていた。どこを見ても白ばかりの町の中で、大聖堂は、孤独にも誇らしげにも見えた。ステンドグラスに、あの印——初めて見た時は、罰印に横線が一つ足されたようにしか見えなかったが、これはもしかしたら大陸の形に線を足したものなのだろうか——と、円柱型。エルティで見た教会の姿と酷似している。もちろん、規模は違う。エルティの教会は一つの円柱からできていたが、この大聖堂は五つの円柱から成り、その円柱たちがまた一つの大きな円の形に並んでいる。いたるところに精緻な装飾が施されており、また始まりの女神と思しき像がずらりと並べられている。


 壮観だった。ただ、中央と癒着しているという事実と合わせて考えると、美しいはずの曙色は幾分くすんで見えた。


「大きな建物だね。一体何人くらいの神僕と癒し手がいるんだろう」


「神僕の正確な数は分かりませんが……おそらく、癒し手の数は四人ほどだと思います」


「分かるものなの?」


「ええ、彼らの呪力は特殊ですから」


「思ったより少ないな。これだけ大きな建物なら、って考えたんだけど」


「癒し手の素質を持つ人間は本当に少ないんです。だからこそ中央に重宝される……おそらく、本部にはここよりもたくさん癒し手がいるのではないでしょうか」


 ランテがルノアと話をしていると、偵察を終えたデリヤが帰ってきて、必要な情報を淡々と告げた。


「正門に十五、裏門に十、その他は十歩間隔で一ずつ。神僕の装束をしているけれど、あれは中央兵だね。予想していたよりは手薄だ」


 手馴れている。やはりランテが行くより彼に任せて正解だったようだ。礼を言うとデリヤは目を背けたが、皮肉を返さなかった辺り受け取ってくれたのだろう。


「中央の呪力読みには優秀な者が多いと聞きます。ここで呪を使っては、大聖堂を使った侵入経路を悟られかねません。制御にさえ気を付ければ簡易な呪の使用は可能だとは思いますが、なるべく避けたいですね」


「それならもちろん交戦もできないし、見つかるわけにもいかないってこと? 一番可能性があるのは壁から侵入することだけど、結構高い。これを上るのは骨が折れそうだから、その間に見つかっちゃいそうだ。陽動でもする?」


 作戦会議を始めたランテとルノアを横目でちらりと見て、デリヤは鼻で笑った。


「君の頭ならその程度が限界だろうね」


「デリヤにはもっといい考えがあるの?」


 ランテには応じず、デリヤはルノアを見た。簡潔に尋ねる。


「実現の呪は使えるかい?」


「ええ」


「薄橙の衣と黒い衣をそれぞれ三つ用意してもらうよ」


 味方を装って侵入する。デリヤの策は一見単純ではあったが、内部事情をつぶさに知っていなければ実行できない大胆な策でもあった。神僕の纏う薄橙の衣と、中央の命令を受けて各地で黒獣を召喚する召喚士が纏う黒い衣を使い分け、逃げも隠れもせず大聖堂内を歩き回るというものだ。


「中央の人間は入れ替わりが激しい上に、他人には無関心なんだよ。さらに、中央本部の白軍であることを鼻にかけて、危機感に欠けている。騙すのはこの上なく簡単だね」


 危険すぎないかな。ワグレでの失敗が言わせかけた言葉を、ランテはぐっと飲み込んだ。デリヤを信じよう。ルノアも何も言わずに実現の呪を使う。彼女の掲げた両手から生まれ出た光が、六枚の衣を象った。




「ご苦労」


 顔を隠すようにして黒い布を巻きつけ、三人は堂々と正門前に並んだ。橙の衣を纏った見張りが——布の裾から剣の鞘と思しきものがわずかにはみ出している、おそらく神僕を装った中央兵だろう——出迎える。ランテはごくりと生唾を飲み下した。衣の下で冷や汗を流すが、見張りが不審がる様子はない。


「北二区、六区、十一区。帰還命令により帰還したよ」


 デリヤが一歩進み出て、落ち着き払った声で告げた。見張りは一つ頷いて、応じた。


「今夜は冷えるな」


「白女神の御心のままに」


「結構」


 流れるように会話が交わされて、あっという間に大聖堂への道が開かれた。ランテはなおも警戒しながら見張りの脇を通ったが、彼らがランテたちに刃を向けることはなく——むしろ、もはや興味が失せてしまったらしい。退屈そうなまなざしを静かな町並みへ戻している。あまりに、それはもう拍子抜けしてしまうほどに、簡単な侵入だった。これまでの緊張が馬鹿馬鹿しく思えてしまうくらいだ。


「今の、何? 合言葉?」


「聞いていれば分かるだろう。全部で四十種ある。ここの人間も入れ替わりが激しいからね」


 四十種の合言葉。全て暗記してよどみなく答えてしまったデリヤにも、もちろん感心はする。しかし、情報が漏れてしまった場合——例えば今回のように侵入される場合に対しては、何の効力もない手段ではないだろうか。まだ市民街への門をくぐることの方が難しかったくらいだ。


「傲りです」


 ランテの心を読み取ったのか、ルノアが静かに言った。


「自分たちに刃向う者はいない。また刃向ったとしても、敵うわけがない。これはそういう傲りが呼ぶ隙でしょう。あるいは、求心力の不足がもたらす怠慢かもしれません。何にせよ、ここが警戒されていないということは……あなたと、ランテと、そして私がこうして共に在ることを中央は知らないのですね。おそらく、予想すらできない事態であるはずです」


「それでもいずれ漏れるだろうね。僕たちのことはセトが知っている」


「セトが簡単に喋ったりは」


 そんなことは分かっている。そう言いたげな一睨みを寄越して、デリヤはランテを遮った。


「人質を取られているのを忘れたのかい? 中央はこういうことに関してはお手の物だ」


 確かに、とランテは思った。セトのことは信じている。自分が痛めつけられる分には、彼は頓着しないだろう。彼なら上手くはぐらかすこともできるはずだ。だが、中央は手段を選ばないだろう。もし、ユウラやテイトが目の前で危害を加えられたなら。奥歯を思いきり噛みしめる。また、焦れる。もう何度目か分からない。


「急がないと」


「当然だね。言っただろう、警備の布陣そのものは甘くはない。特に昼はね。見つかってしまえば突破は難しい。夜の間に地下通路へ出るのが賢明だ。ぼさっとしてないで、さっさと衣の色を変えなよ」


 デリヤは、大聖堂の中では橙の衣を身に付けているように指示した。中は神僕ばかりだろうが、デリヤのことだ、今度も何か考えがあるのだろう。三人が淡い橙の衣を纏ってから、ランテは大聖堂の扉に触れた。両脇に立つ始まりの女神の像が、謎めいた微笑みを三人に向けている。腹の奥が誰かの手に握り締められているような、苦しいほどの緊張を感じる。軋んだ音が鳴って、柔らかな橙の光が差し込んでくる。その光がランテの肌に触れた、その瞬間だった。


「あれ……」


「どうかしましたか?」


 とても奇妙な感覚がした。身体そのものではなく、身体の内側にあるものが聖堂内部へ引き込まれているような、そんな名伏しがたい感覚だ。


「大丈——痛っ」


 ——ここだ。


「え?」


 途端に生じた頭痛が、何者かの声を生み出した。この声は知っている。これまでも何度もランテの内側で響いてきた声だ。低く穏やかに染み渡るような、それでいて聞く者を残らず平伏させるような強引さも秘めた、神聖で崇高で傲慢な声だ。


 ——我はここだ。


「ここって……ど、どこ?」


「ランテ、誰と話しているの? しっかり——」


 扉を開けかけた状態で固まってしまったランテを、隣からルノアが心配げに覗き込む。その様はランテの目に映ったが、身体は反応しない。内側から響いてくる誰かの声と会話することに全ての神経を傾けながらも、ランテはこのときになって初めて、ようやく理解した。


 自分の中に、自分ではない誰かが、いる。


 ——力を求めるならば、来るがいい。


「だから、どこに……それに、誰?」


 自分と、自分ではない何者かで、一つしかないランテの身体の奪い合いをしている。まばゆい橙の光に押しつぶされそうになりながら、一歩踏み外せば簡単に自分を明け渡せてしまえるような状況下で、ランテは懸命に抗った。


 頭の中の声が、ふ、と。ランテの質問に微かに笑った気がする。


 ——我が名はラフェンティアルン。


「えっ!?」


 ラフェンティアルン。始まりの女神の名。どうして彼女が、ランテの内側にいる? 分からない。まったく、さっぱり、訳が分からない。何が起こっているのか? 何が起ころうとしているのか?


「こんなところで正気を失うとかやめてくれるかい。大人しく——」


 デリヤの声が耳を通る。


「ランテ、しっかりして。その声に耳を傾けてはいけないわ! ランテ!」


 ルノアの声も耳を通る。半ば悲鳴のようなその声にも、ランテの身体はもはや反応できないくらいに、女神に浸食されていた。そうして、思う。否、思わされる。


「……行かなきゃ」


 ——そうだ、来い。そしてすべてを思い出せ。


「あっ」


 刹那、橙の閃光がランテの視界を満たした。それはランテが大聖堂の扉を開け放ったからなのか、それともランテの内側で女神が自らの勝利に微笑んだからなのか。


「ランテ! 駄目! ランテっ!」


 橙に支配されたランテには、悲痛なルノアの叫びも響かない。そこにいたはずのルノアの姿が霞んで、時の流れを遥かに遡って、ミゼに変わった。こちらへいっぱいに手を伸ばして、声を振り絞ってランテの名を呼ぶ彼女の姿は、今の今まで目に映っていたルノアのものだったのか、記憶の中に生きるミゼのものなのか、あるいは両方だったのだろうか。もうランテには分からない。ランテの身体で女神が笑う。笑い続けている。


 記憶に埋もれそうになった意識の中で、ただ一つ、願った。


 許して。

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