【Ⅶ】ー1 首都

 婚約の儀を終えて以降、ミゼは一度もランテに会おうとしなかった。


 お互い、忙しくなったのは確かだ。しかし、ランテは一日の大半城の中にいたし、実際ミゼの姿を見つけることは幾度もあった。にも関わらず、言葉を交わす機会は一度としてない。


 理由は分かっている。


 ミゼの方が、ランテを避けていた。


 百日の後に——正確には、婚約の儀から百日後であるから、今日から八十七日の後に——ミゼはシュレムザード家の嫡男と結婚する。ミゼが望んでいるなら、ランテとてそれを静かに見守っただろう。だが、そうではないのは、遠目に見た彼女の沈んだ表情からも明らかだ。だから、このまま何もしないでいるわけにはいかない。


 とにかく、ミゼと話がしたかった。城の窓から空を見上げる。青が白く薄れて、そこへ赤みが混じりかけている。そろそろ夕暮れどきだ。ミゼは部屋にいるだろうか。行ってみよう。勝手に持ち場を離れると後から叱られるが、そんなこと、今はどうだってよかった。


 途中先輩騎士たちに何度も呼び止められたが、その都度適当に言い繕って——ミゼへの伝言を言付けられたことにした——三階まで上がった。そこで違和感を覚える。騎士の数が、二階までより明らかに少ない。普段はもっとたくさんいたはずだ。どういうことだろうか。疑問に思いつつも最後の角を折れようとしたそのとき、耳に届いた声にはたと足を止めた。


「ですから、わたくしはそのようなことは知りません」


 ミゼの声だ。誰かと話しているらしい。一度止めてしまった足を動かすのは難しかった。いけないと思いながらも、ランテはそこに留まって耳を澄ました。


「王族であるあなたがご存じない? これは面白いご冗談を仰る」


「冗談でも何でもありません。事実です」


 ミゼの返答には拒絶の響きがありありと認められて、ランテは戸惑った。こんな声は初めて聞いた。一体誰と話しているのだろうか。ランテが角からそろりと顔を出しかけた、ちょうどその瞬間、ミゼの短い悲鳴が届いた。


「やめてください!」


 反射的に、ランテは飛び出していた——が、ミゼの部屋の前に見えた背中に、再度足を止めることになった。


「……騎士長?」


 項で結わえた長い銀髪、そしてこちらに向けられた冷徹な深い緑の双眸。そこにいるのは、間違いなく、ラフェンティアルン騎士の頂点に立つその人だった。騎士長はミゼの片手首を握り、強引にどこかへ連れて行こうとしている。


「騎士長、ミ——姫を、一体どちらへお連れに」


 ふと遣った視線の先に、もう一つの人影を見つけて、ランテは再三立ち止まった。今度は息を呑んでいた。


「あなたは」


 シュレムザード家の嫡男、ミゼの婚約者が、そこにいた。間近で見たのは初めてだったが、間違いない。凍えきった金の眼が、ランテにじっと注がれている。背筋に震えが走った。とても嫌な感じが——彼を目にすると、いつも感じるのだが——する。


 ——ミゼリローザ姫様の婚約者様? ああ、あのシュレムザード家の、確か御名はベイデルハルク様でしたかしら。評判? よろしくてよ。お若いのに、貧しかった領地をたった七年で他のどこよりも豊かで大きな領地にしてしまったらしいわ。あの方が王になられたら、きっとこの国も、もっと平和で素敵な国にしてくれると思うの。


 気にならないはずがなかった。あれ以来ランテは可能な限り情報をかき集めて、少しはミゼの婚約者のことを——ベイデルハルクのことを知った。評判は悪くなかったが、婚約の儀でその姿を見てからは、どうしても彼によい印象は持てなかった。


 目だ。目が、獲物を求める獣のように、ぎらぎらと底光りしている。


 ——野心家って顔だよな。ああいうの、オレは嫌いだね。なんとか破談にならないもんかな。


 ランテによくしてくれる年の近い先輩も、同じ意見を抱いたようだった。同様に思った人間は他にもいることだろう。


「ランテ」


 ミゼのまなざしは、助けを求めていた。細かな震えと不快感は止まらなかったが、ランテは拳を握ってミゼと彼らに近づいた。


「姫をどちらにお連れするつもりですか?」


「騎士見習いのお前こそ、殿下に何の用だ」


 帰れと、騎士長はそう言いたいらしかったが、嫌がっているミゼを置いて帰るような非情なことは、ランテにはできない。


「陛下からミゼリローザ姫をお連れするよう、仰せつかりました」


 嘘は、おそらくすぐにそれとばれたのだろう。刃よりも鋭利な視線が二対、ランテを穿とうとするのを感じた。けれども、ランテは足を止めなかった。二人の間を割って進み、ミゼの空いた手首を握る。


「では、姫、参りましょう」


 ベイデルハルクと、騎士長の視線はいつまでも追ってきたが、ランテはミゼの震える腕を離さなかった。なぜ、あの二人が共に居たのか。ミゼに何を尋ねようとしていたのか。ランテは何も知らなかったが、あそこにミゼを置いておくことは危険だと直感が訴えていたし、何より、ランテがそうしたくなかった。


「ランテ……」


 ありがとう。続いた声は泣いているような気がしたから、ランテは振り返らずに歩き続けた。 




 ひどい有様だった。


「デリヤ、ここは本当に首都?」


「首都じゃないならどこだって言うんだい」


「だって」


 続けようとしたが、言葉は出てこなかった。鼻を刺すような異臭が漂い、不快な虫の羽音が幾重にも重なって聞こえてくる。ランテの目に映った場所は、およそ、町と呼ぶには荒廃しきっていた。道と思しきものはほぼなく、ほとんど瓦礫と化した建物が点々と並び、汚れきった粗末な服を着た人間がそこここに寝そべっている。彼らは皆揃って痩せ細り、虚ろな目をあらぬ方向に遣っていた。まるで誓う者のよう——目に見えて衰えている分、むしろ誓う者より痛ましく映ったりもする。


「こんなに酷い状態だなんて」


「ここは貧民街だからね。中央は極端な縦社会だ。ここにいるような人間は——貧民は、人として扱われない」


「貧しいから、ここに住んでるってこと?」


「そういう人間もいるけど、本部を追われた人間や罪人、それからその家族なんかもいるはずだ」


 一番傍に転がっていた、年配の男性と目が合った。全ての生気を搾り取られたような瞳を見ていると、吸い寄せられるようにそちらへ歩を進めていた。


「あの、大丈夫——」


「よしなよ」


 背中の部分の服を、デリヤに引っ張られた。抗議しようとしたランテより先に、彼は言う。


「そんな時間、僕らにはない」


「だけど、この人、このままじゃきっと——」


「ここにいる人間は皆、こういう状態だ。君は貧民街の人間を全員救うつもりかい? 一体何年かかるんだろうね」


 淡々と言い残して、デリヤはさっさと歩いていってしまう。デリヤの言うとおりだった。ここで一人ひとりを救うより、中央のやり方を一新させるほうが、迅速な解決が見込める上に実現性が高い。頭では分かっていても、目の前で死んだように寝そべる人間を置いていくのは、胸に爪を突き立てられるように苦しかった。


 ——分かりました。では、私は西へ。後でまた合流しましょう。それまでは絶対に中央軍に見つからないでください。いいですか、派手に動いてはいけません。事を成す前に捕まってしまっては、意味がありませんから。


 ルノアとは一度別れていた。彼女はランテとデリヤに感知能力の高い敵から守るための呪を——それでも限界はあるらしいが——掛けてくれた。その後西へ向かい、共に中央と対するため説得を試みてくれているはずだ。ランテも、やるべきことをやらねばならない。口の中で小さく謝罪して、デリヤを追った。


「デリヤ、これからどうする?」


「まずは市民層に入らないと始まらない」


「やっぱり、警備は厳しいかな」


「それなりには厳しいだろうね」


「どうしようか」


「今考えているんだ。君も自分で考えなよ。少しは黙ることと、頭を使うことを覚えた方がいい」


「門とかあるのかな」


「本当に無知なんだね」


 デリヤの話によると、ここを真っ直ぐ南下したところに貧民層と市民層を区切る門があるらしい。夜間は完全閉鎖されていて、昼間も出入りには中央軍によるチェックが必要なのだそうだ。


「そ知らぬふりで通り抜けるのは、さすがに難しそうか」


 風で飛んできた紙を拾い上げたら、偶然にもランテの手配書だった。誰が描いたのか、多少悪人顔にされてはいたが、我ながらそっくりだと感心する。


『北支部所属の新人兵・ランテ 黒軍のアノレカ攻略に手を貸し、リエタ聖者、セト北支部副長以下数百の兵を殉職させる ※必ず生かしたまま捕獲すること 報酬:金貨三百枚』


 報酬まで出ているのか。そう考えてからランテは慌てた。急いで手で顔を隠し、周囲に目を走らせる。貧しい人が多いなら、金は喉から手が出るほどに欲しいだろう。


 ——北や東ならともかく、他の支部や中央の白軍に見つかったら即行で捕まるぜ。一般市民も敵に回ったと思ってた方がいい。


 ナバの忠告が、現実味と恐怖感を帯びてランテの耳に蘇った。が、対してデリヤは、フードを被る様子もなく、堂々と顔を晒している。


「デリヤは手配書とか配られてないんだ?」


「配られていたみたいだけど、それがどうしたんだい?」


「じゃあ、ほら、顔。気をつけてないとすぐばれちゃうんじゃ」


「ここには、他人のことを気にする余裕のある人間はいない。文字を読める人間もそんなにはいない。中途半端に隠そうとしたら、余計に目立つ。普通にしてなよ」


 恐る恐る、ランテは口元を覆う手を離した。もう一度落ち着いて周りを眺めていれば、確かに、ランテやデリヤを見ている人間は一人もいない。先ほどランテと目が合ったはずの男性ですら、関心を持っていないようだ。


「門をどう越えるかが目下の問題だね。どこかに警備の穴でもあれば——」


「手を貸そうか、お兄さん方」


 突然聞こえてきた声に、ランテとデリヤは揃って剣柄に手を遣って振り返った。声の主はすぐには見つからず、視線をゆっくり下方に遣って、ようやく発見に至る。


 少年だ。間違いない。いつか、あの古びた館の前で会った少年だ。


「お久しぶりだね」


 少年は、この上なく生意気に見える笑みを浮かべながら、ゆったりとランテたちに歩み寄った。

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