【Ⅵ】ー3 祈り

「セト……やっぱり、そっちで何かよくないことが?」


 再度直感に任せてランテが言ったが、セトは今度こそ取り合わなかった。


「ルノア」


 呼びかけられたルノアが、痛みを耐えるような面を上げた。彼女の表情もまた、見ていられないほどに痛々しかった。


「そこにいるんだろ? ランテを危険に晒さないことが、ルノアの願いでもあったはずだ。後のことは」


「……いいえ」


 なおも辛そうな顔をしながら、しかしルノアは、セトの言葉を途中で遮った。


「確かに、この人を守ることは私の役目です。でも私は最後の王族として、民たちを守る責務も負っています。あなたたちだって王国の民」


「ルノア」


 二度目の呼びかけを、ルノアは苦しげに瞳を閉じて聞き届けた。セトの言いたいことは十分に伝わったのだろうが、ルノアは静かに、美しい色の髪を波立たせながら首を振る。


「今彼が言ったことは、あなたに最も必要な言葉です。……あなたと私は、本当によく似ている。だからこそ分かります。よく噛み締めてください」


 ルノアの、心からの、精一杯の言葉だと分かった。セトにも伝わっただろう。だが、返事はない。表情が窺えない今、彼が何を考えているのかは一向に分からない。けれども、今しかないだろうと思った。一度拳を握ってから、顎を上げて、ランテはまたもや口を開いた。


「セト、誓いの呪を使うなんて、絶対駄目だ」


 力強く言い放った声に、しかし、返事はない。ランテは歯噛みした。どうして届かないのだろう。


「セト!」


「……ああ、聞いてる」


「もう一回言うよ。誓いの呪なんて使っちゃ駄目だ」


 セトはなかなか答えなかった。分かってほしい。彼が皆からどれほど思われているのか。彼が誓う者になれば、悲しむ人間がどれだけいるのか。本当は、気づかないはずがないのだ。彼自身が目を背けているだけなのだ。


 ひたむきな願いが通じたのか、望んだ答えが返ってくる。


「分かった」


「本当に分かってる?」


「ああ」


「一人で焦るのも——」


「そうだな」


 感情が排された、全く抑揚のない声だった。不安がまた降り積もる。その声のままで、セトはさらに続けた。 


「オレも早くあいつらをここから出してやりたい。……確かに、オレ一人じゃどうにもならない状況だ。協力が得られるなら、正直助かるよ」


「うん」


「だけど、お前は来るな。少なくとも今はまだ」


 出掛かっていた言葉を、思わずランテは飲み下した。そんな。しかし、セトはランテが新しい言葉を用意する間を与えない。無理やりに強さを足した声で言う。


「ここへ来なくたって、できることはいくらでもあるよな」


「セト」


「ランテ。前にも言ったな。お前の一番の役目は何なのか。覚えてるだろ?」


「それは覚えてるけど、でも」


「それでもお前が来ようとするなら、そのときは」


 姿が見えなくとも、セトが一息ついたのが分かる気がした。


「オレが止めるしかない」


 セトは、本気だ。冷や汗が滲むような心地がした。同じ感覚を、前にも味わったのを思い出す。レベリアで話をしたときだった。


「ユウラとテイトに、オレは、命懸けでランテを守れと言った。二人はそうして、それで——そのせいでここに捕まってる。二人の決死の行為を無駄にさせないためにも、お前を止めないとな」


 意識して淡々と話すようにしているらしい。セトの声は不自然なくらいに平静だった。そうして、彼はまた一息分の間を取る。


「たとえば、力ずくになったとしても」


 ——まだオレの力でおまえを止められるうちに、力ずくでも——怪我させてでも、安全な場所にいてもらう。


 同じことをレベリアでも言われたのを覚えている。ランテは、すぐには返答ができなかった。セトの言っていることは正しい。ランテだってそれは理解している。けれども、だとしても、でも。その後に続く言葉は一向に出てこないが、黙って頷くわけにもいかない。


「まだ捕まると決まったわけじゃ」


「ここには大聖者も聖者もいれば、その他にも腕に相当覚えのある者が山ほどいるんだ。ルノアが一緒でも、無事でいられる可能性が低すぎる」


 ランテにセトを納得させるほどの力があれば、反論とて出てきたかもしれない。しかし、現実は違う。口を開いても発する言葉が何もなかった。


「ランテ、お前の仕事は中央を孤立させることだ。こっちのことはオレに任せてろよ。色々あって、今、オレは準司令官の地位を与えられてる。総会が終われば多少自由に動き回れるはずだ。この立場を利用して、中央を内部から切り崩す。お前がそっちで話をまとめるまでには間に合わせるさ。ランテがここに来るとしたら、それからだ」


「セト、だけど」


 懸命に探せど、ついに言葉は一つも見つからなかった。悔しさを握りつぶすように、ランテは両の手を握った。


「……分かった」


「本当に分かってるのか?」


「分かってる」


 分かったなんて、嘘だ。今セトが目の前にいたら、きっとすぐに見破られてしまっただろう。今だけは、彼がランテの表情の見えない場所に居ることにほっとする。真に信じてもらえたかどうかは分からないが、セトは話を先に進めた。


「ルノアと、それから、デリヤもいるのか? 二人もよく考えてくれ。今はまだそのときじゃない。ルノアも、デリヤも、そのときには必要不可欠な戦力だ」


 ルノアは悲しみがすっかり棲みついてしまった瞳を伏せ、デリヤはたいそう機嫌の悪そうな溜息を落とした。二人とも答えはしない。セトの方も、答えを待つつもりはないらしかった。


「ルノア。可能なら、また連絡が欲しい」


「……分かりました」


 このままでは、何も聞けないままに話が終わってしまう。ランテは焦るままに口を開いた。


「セト。教えて欲しいんだ。そっちで一体何があった?」


「馬鹿だね、君は本当に。中央のやりそうなことも分からないなんて」


 声は、ランテの後方から聞こえてきた。デリヤだ。彼は、少し、ルノアが呼んだ闇へ——つまり、セトの声が聞こえるところへ——歩み寄った。


「どういうこと?」


「僕はこいつほど馬鹿じゃない。セト。準司令官の地位を与えられている、そう言ったね。残りの二人は人質かい?」


 はっと、ランテは息を呑んだ。同時に、その考えに至らなかった自分を叱る。前々から中央はセトを欲していたのだ。彼を利用するためになら、どんな手段だって使うはずで。


「……それで済んでれば、まだ良かったんだけどな」


 やっと届くような小声の応答に、デリヤは眉を顰めた。ランテもまた一歩、無意識に闇に近づいていた。


「どういうことだい?」


「セト、本当に二人は無事?」


 デリヤとランテからの問いに、セトはしばし沈黙してから応じた。


「とりあえず、二人とも、生きてはいる」


 生きてはいる。どういうことだろうか。嫌な予感ばかりがランテの脳内を駆け巡った。一杯に膨れ上がった不安がランテの気道を塞ぐ。息が苦しくなる。声が出てこない。


「ごめんなさい、そろそろ」


 唐突に、ルノアが言った。限界を迎えつつあるのか、闇がわずかに揺らいでいる。


「三人とも、無事でいろよ。もう誰も捕まるな」


 その闇の向こうで、セトが言う。今度の声にも、願いに似た響きが混ざっていた。もう満杯だと思っていた不安が、ランテの中でまた嵩を増す。


「……セトも、無茶は駄目だよ」


 ランテはどうにか声を絞り出した。何も知らない自分がもどかしい。どうしようもないくらいに、気ばかりが急く。


「ああ。頼むな」


 その言葉を届けたのが最後、闇は形を崩して、次の瞬間には霧散した。もう意味はないのに、三人ともが、しばらくは闇のあった場所を見つめていた。


「やはり呪力が、ひどく乱れています。あの乱れ方は……身体的にも、精神的にも、かなり危うい状態ではないかと」


 呟くように、ルノアが言った。胸の下で己を抱きしめるように回された両腕に、密やかに力が籠もったのを見る。


「何があったんだろう?」


「……予想はつきます。中央が——あの男がやることは、いつでも最も非情ですから」


「非情って、どんな」


「今はまだ、予想でしかありません」


 ルノアは静かに首を振った。そうでなければいいのですが。続いた小声には祈りが込められている。


「セトは、本当に思い留まったのかな」


 ランテの呟きに、今度もデリヤは溜息を吐いた。先ほどより、さらに不機嫌さが増えている。


「あんなに簡単に引き下がるわけがないじゃないか。空返事に決まってる」


「やっぱりユウラじゃないと」


「あの」


 言いかけたランテを、ルノアが遠慮がちに遮った。


「ルノア?」


「彼、あなたでも止められると思います」 


「オレでも?」


「ええ。きっと」


 言い切って、悲しみと痛みが名残を引いた面を上げると、ルノアは少しだけ微笑んだ。ランテに真っ直ぐに向けられるまなざしに、嘘は見つからない。彼女がなぜそう思ったのかは分からないが、それならばやはり、ランテこそ中央に向かわねばなるまい。


「これからどうしますか?」


「ああは言ったけど、オレは行くよ。じっとなんてしていられない」


 じっとルノアを見つめ返す。彼女はもう、ランテを止めなかった。


「あなたならそう言うと思っていました」


 ルノアはランテのまなざしを受け止めて、一度、しっかりと頷いた。


「念のため、町に入るまでは私も同行します。待ち伏せがあるといけませんから。それからは各支部の動向も確認したいので、また少し傍を離れます」


「ありがとう」


 ルノアが一緒に来てくれるというのは、素直に心強かった。心のままに礼を述べると、彼女は目を細めて微笑んだ。いつも見るものより、ほんの少し、影は薄れていたように見えた。

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