【Ⅵ】ー2 違和感

 緩く弧を描いた剣が、黒獣の足を鮮やかに切り裂いた。体勢を崩して突き出してきた太い首を、今度は長さも太さも重さも標準的な剣が刺し貫く。黒獣の巨体は何もできないまま倒され、すぐにもやと変わってしまった。


 エルティを発って、一日が経っていた。中央はもう見えてきていた。もう少しで辿り着けるだろう。


「やっぱりいい腕してる」


「当たり前じゃないか。僕を誰だと思っているんだい?」


 黒獣とはこれで三度遭遇したことになるが、デリヤはどの戦闘でも左腕の欠損をほとんど感じさせない。以前館で見たときと同じように剣を自在に操り、狙いを過たず仕留める。デリヤはうそぶくが、ここに至るまでにどれだけの努力を要したのか、同じく剣を握る者としてランテも多少なら予想がつく。


「……どれだけかかった?」


 聞くべきではないかもしれないと分かってはいても、聞かずにはいられなかった。


「何の話だい」


 デリヤはランテを横目でちらと見たが、すぐに逸らす。注意して見てみると、剣を直した彼の右の手のひらに、言葉よりもずっと分かりやすい答えがあった。血の滲んだまめがいくつも並んでいたのだ。


「【光速】で行けたらなあ」


 ランテが敢えて話を変えると、デリヤの視線も帰ってきた。


「呪力で悟られる。それに、首都に着いたときに疲れ切っていたんじゃ、話にならないじゃないか」


「そうなんだけど」


「無駄口を叩いてないで、さっさと歩いたらどうだい」


 言葉通りさっさと歩き出してしまったデリヤを追う。一歩踏み出したそのとき、ランテの視界の端に薄闇が過ぎった。はっとして、全身の動きを止める。懐かしい感覚が胸の奥から染み出してくる。それにつれて鼓動も大きくなっていく。地に紫の紋章が刻まれて、柔らかにそっと膨らんだ闇から、まず、艶めく白銀の髪が現れた。


「ルノア!」


 ルノアは足元の紫の花の群れを避けて平原に降り立つと、最初にランテを見て、いつも通りの、どこか寂しそうで儚げな微笑みをやおら広げた。


「無事で、安心しました」


 どんなときでも、何を言っていても、彼女の声から陰りが消えることはなかった。何がそうさせているのか。ランテの記憶は徐々に蘇りつつあったが、まだそこまでは追いついていない。彼女がミゼであった頃の、あの曇りのない明るさを、また取り戻してほしいと思う。


 ルノアは次にデリヤを見て、「あなたも」と続けた。


「……君は」


 デリヤは驚きに満ちた顔で、ルノアを凝視している。それを見てランテも驚いた。知り合いだったのか。一体いつ、どのようにして出会ったのだろう、と考える。


「はい」


「君のお陰で、僕は今ここにいる。感謝するよ」


 ルノアは黙して、ただ首を振ることで応じた。何があったのかはランテには分からないが、以前ルノアがデリヤを救ったことがあるらしい。


「これからどこへ向かうつもりですか」


 ランテを振り返り、ルノアが穏やかに問う。以前ケルムの墓地で聞いたのと同じ言葉だったが、今度は咎める響きは微塵もなかった。


「皆が中央に捕まってるんだ。だから助けに行こうと思って。あ、大丈夫、何の策もなしにって訳じゃないよ。まずは情報収集に行くだけで」


「危険です」


「分かってる。でも、このまま何もしないでただ待ってるなんて、できない」


 しばし、視線を交わし合う。ランテは、うまく言葉には表せないあらゆる思いを瞳に託して、ルノアに注いだ。受け取ってくれたのか、紫の瞳が観念したように細められる。


「止めても……きっと、無駄なのでしょうね」


「うん。譲れない」


 頷きだけを返して、ルノアは沈黙する。それから陰りの増した瞳をどこか遠くへ遣って、小さく言った。


「少し前に、副長さんと話しました」


「セトと?」


 首を傾げてから、じんわりと、腹の奥から温度が戻ってくるのをランテは感じた。生存を信じて疑っていなかったが、自分が安心したのが分かる。


「よかった……やっぱり生きてたんだ」


「ええ。残りの二人も無事だと。でも……」


「でも?」


 紫の瞳の陰りが、さらに増殖する。釣られるように、ランテの中でも不安が再び頭をもたげた。


「思わしくない状況のようでした」


「どういうこと?」


 言うべきか否か、ルノアは葛藤したようだった。一度ランテに双眸を戻し、それで心を決めて、瞼を落とす。


「彼は、私に、誓いの呪の使い方を教えて欲しいと」


 薄っすら開いた瞼の奥に、悲しみが満ちた。蘇ったものと、そして新たに生まれたものと——ルノアが過去の己とセトを重ね合わせてるのが分かる。


「身体が思うように動かない、それからどうしてもやらなければならないことができたと言っていました。おそらく、相当に追い詰められているのでしょう」


 ランテは両の手のひらを、力いっぱい握り締めた。中央で何が起こっているのだろう。分からない。分からない自分に腹が立つ。どうして自分は、いつもこうなのだろう。


「……ルノアは、使い方、教えた?」


「いいえ。でも、彼なら使い方を見つけてしまう、そんな気がします。私では彼を止められない。止められるとしたら」


「ユウラだ」


 反射的に答えてから、自分の声を改めて聞くことで確信した。


「ユウラなら止められると思う」


 もう一度、確かめるように言ったランテを、ルノアはなぜか、とても辛そうに見つめた。


「ルノア、セトと話せないかな」


「少しの時間なら、できないことはありませんが」


「頼める?」


「分かりました」


 手のひらを上にして、ルノアは両手を胸の前までゆるりと持ち上げた。少し時間がかかります、そう言って彼女は宙を——ちょうど掲げた手と手の間だ——見つめる。少しずつ少しずつほのかな闇が集っていき、それらが渦を成して、そうして。


「ルノアか?」


 闇を通して声が聞こえてきて、ランテは息を呑んだ。それは、絶対に、間違いなく。


「セト!」


 思わず叫んでいた。そう、信じていた。だが実際に声を聞くと、本当に、心の底から安堵できて、涙さえ滲みそうになった。


「……ランテ?」


 意外げな声が返ってきて、それからすぐにいくらか和らいだ声が続いた。


「無事でよかった」


 セトの方も安心したらしかった。ランテを心配してくれたのはありがたいが、少しは自分の心配もして欲しい。表情は伝わらないだろうが、苦笑いで応じる。


「それはこっちの台詞。リエタ聖者と相討ちだったって聞いた。ひどい怪我とかしてるんじゃない? 大丈夫?」


「大したことはない。そっちはどうなってる? 今お前はどこに」


「中央に向かってる」


 次の返答までに、数瞬の間があった。


「……ランテ。ナバから手紙は受け取ったか?」


「受け取った。ちゃんと読んだよ」


「なら、お前が今何をするべきかは分かってるはずだよな」


 これだけは譲らない、そういうときにセトが使う声だった。諭すような、しかし拒否は許さないと暗に示す強引さも持った、常よりもわずかに低い声だ。だが、ランテとて譲れなかった。何も気づかない振りをして答える。


「うん。セトたちを助けに行くことが、今オレが一番しなきゃいけないことだ」


「お前の一番の役目は、中央に捕まらないことだろ?」


「大丈夫、捕まらないようにす——」


「ランテ」


 鋭く名を呼ばれ、一瞬だけランテは怯んだ。その隙にセトに先を越されてしまう。


「お前の気持ちはありがたい。だけど、オレたちの思いも酌んで欲しい」


 皆が命をして守ってくれたこの身にどれだけの重みがあるのかは、分かる。牢で一人で打ちひしがれているときに、嫌でも分からざるを得なかった。自分の身体だからといって、おろそかには絶対にできない。重々承知している。


「それは十分分かってるつもりだよ。絶対に捕まらないように慎重に動く。約束するから」


 またしても、セトは沈黙した。今度はかなり長い間言葉を発さない。気まずい間に耐えかねてランテが口を開いたちょうどそのとき、辛うじて耳に届くほどの大きさで、セトが、囁くように言った。


「……ランテが捕まったら、何のためにあいつは」


 とても珍しい——少なくともランテは初めて聞いた——かすかながらも感情に震わされた声だった。苦しみに耐えかねて喘ぐような——そういう何か堪えきれないものをそれでも堪えんとしているような、切迫した痛々しさが感じられる気がする。


「セト?」


 不安になって呼びかける。固唾を呑んで返事を待ったが、セトは何も語らない。


「悪い。何でもない」


「もしかして、ユウラに何かあった?」


「……いや」


 直感のままに問うたが、当ては外れたのか、セトは否定の返事を寄越すだけだった。落ち着いているように聞こえる声が——どこか違和感もあったのだけれど——続けられる。


「ランテ。こっちのことはこっちでどうにかする。オレたちのことは気にするな」


「また一人で無理してどうにかしようとしてる?」


「そうでもないさ」


「ルノアに、誓いの呪の使い方を尋ねたって聞いた」


 何の前触れもなく切り出せば、返事に窮したか、セトは押し黙った。


「ユウラが言ってた。セトはいつも自分だけで抱えて自分だけでどうにかしようとするって。でも、今回のことを一人でどうにかするのは無茶だよ、セト。人には、できることとできないことがあると思う。できないときは、皆でどうにかすればいいんだ」


 ラフェンティア平原で目覚めてから、今の今までずっと、ランテはたくさんの人に助けられてきた。セトやユウラやテイトはもちろん、彼らと別れてから一人ぼっちになったランテを導いてくれたナバやデリヤ、ノタナに、アージェやリイザを始めとする北支部の皆、そしてルノアもだ。一人では到底辿り着けなかった。皆の助けがあったから、ランテは今ここにいる。強くそう感じている。


「セトはもっと、自分以外の人を頼った方がいいと思う。オレ一人じゃ頼りないかもしれないけど、ここにいるのはオレだけじゃない。ルノアもいるし、デリヤだっている。ナバもアージェたちも協力するって言ってくれた。これから皆で、セトとユウラとテイトを助けに行く」


 ランテと違って、きっと、セトは優秀すぎたのだろう。誰かの力を借りずともなんだってできる。それだけでなく、ほとんどの場合において、他人を助ける余裕さえ持っている。だから知らない間に何でも一人でやる癖がつき、他人を助けるのがあたりまえになってしまったのだ。だが、どんなに優秀だとしても、強靭だとしても、やはりたった一人で背負える重さは限られている。彼は、これまで、全てを一人で負いすぎた。


「セトはさっき大丈夫だって言ったけど、本当は大丈夫じゃないんじゃない? 今は声しか聞こえないけど……何か、いつものセトとは違う気が」


 闇を通じて聞こえる声には、普段は確かにあったはずの、芯のある強さが欠落していた。先ほど伝わってきた違和感の訳はここにあったのだろう。何があったかは分からないが、今度も一人で負おうとして、無理をしているに違いない。


「ランテ」


 ランテはありったけの言葉を尽くしたが、しかしそれでも、セトは頷かなかった。


「頼む。分かってくれ」


 強情に拒むのとは違った響きだった。何か、願うような。これもまた初めて聞く。ランテの中の不安が、また少し、膨張した。

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