【Ⅵ】ー1 いつか

 左胸に王国のエンブレムを刻んだ、真新しい制服を身にまとう。澄んだ曙色は、かの始まりの女神ラフェンティアルンが放つと言い伝えられている光の色であることから、騎士の制服に用いるよう選定されたのだという。見習いのそれは、正規の騎士のものよりもいくらか簡素で見劣りはしたが、それでもランテは誇らしかった。


 一番に、誰に報告へ行くのか。決まっている。ようやく自由に歩き回れるようになった城を駆け上り、ランテが息を切らしながら目指した場所は、かつて香の匂う衣を握って見上げた、あの部屋だ。


「騎士見習いへの昇格、おめでとう」


 王族への礼儀も忘れ、ランテは正しい段取りも踏まずにミゼの部屋を訪れたが、彼女はいつもと変わらない温かい微笑みで——もっとも、ミゼが己を姫として扱うよう要求することはなかったが——迎えてくれた。


 二人でバルコニーに出て、風を浴びながら語らう。城下町、山々、川、平原、そして空。どこを見ても、美しく色づいた穏やかな景色が広がっていた。


「ありがとう。きっと、例の特訓のお陰だよ」


「ふふっ。私もずいぶん光呪を使うのがうまくなったわ」


 言いながら、ミゼは自らが作り出した光の球体を両手ですくうようにしてみせた。彼女の光呪の腕も、王国の正規軍に入っても遜色ないほどに成長している。ランテは剣、ミゼは光呪。最初に会ってからもうすぐ三年が経つが、今では互いが互いへ教えるようにまでなっていた。


「これでもっとミゼの役に立てるかな」


「私の?」


「うん。もちろん国のためにも働きたいし、父さんや母さんを喜ばせたかったって理由もあるけど、でもオレは一番にミゼの力になりたいから騎士を目指していたんだ。まだ見習いだけど、これからは表立っての頼みごとだって聞ける」


 一介の兵士では、城の中の決まった場所にしか立ち入れない。ミゼたち王族が普段過ごす場所の警備は、軒並み騎士が担っている。城での暮らしが楽しくないと言ったミゼの助けになろうと思えば、ランテが城の中に行くしかなかった。


「でも、ランテ」


 ミゼは、少しの間うろたえた視線を彷徨さまよわせた。最後には辛そうに瞳を伏せて、消え入りそうな声で言う。


「現国王陛下に——伯父様にお子はいない。伯父様のご兄弟は、私の母ただ一人。そして私の母に子は私だけよ。女では国王になれないのは知っているでしょう? 伯父様がご病気になった今、正式な王位継承者が存在しないこの国は……きっと、荒れていくわ。内乱だって起こるかもしれない。そういうとき、騎士は、一番に戦地へ行かなければならないのよ」


「正直、そういうのは怖い……けど、それがミゼやこの国のためになるなら、オレだって戦う。戦えるよ」


 決意を表すように提げた剣を握り締めたランテの手を、ミゼは両手でそっと包み込んだ。


「私は嫌」


「ミゼ」


「ごめんなさい、ランテ。私、あなたが騎士見習いになったの、半分は嬉しいけれど半分は悲しいわ」


 ランテを見上げて、ミゼはとても悲しそうに笑った。少し強まった風が、彼女の背中から吹きつけてきて、長い髪が宙で頼りなげに踊る。


「ランテの剣は、正規の騎士にすら負けないくらいのものだって、剣術には詳しくない私にも分かるわ。騎士見習いとしても——騎士になったとしても、十分役目を果たせるとは思うの。でも忙しくなるし、さっきも言ったように、戦争にだって行くことになるかもしれない。例の特訓も、今までみたいに一緒にはできなくなるし」


「夜には会えなくなっても、ほら、これからはこうやって日の高いときにだって会える。きっと今までよりたくさん——」


 ミゼは首を振ることで、ランテの言葉を遮った。ランテの右手に触れていた細い指の一本一本に、少しずつ力が加わる。


「ごめんなさい、私」


「ミゼ、何かあった?」


 ミゼの涙をランテはまだ一度も目にしたことがなかったが、そのとき、ランテはミゼが泣くのではと思った。そう思わせるほど声はか細く震えて、苦しげだった。


「……何もないわ」


「オレ、騙されやすいってよく言われるけど、ミゼの嘘だけは分かるよ」


 ミゼの両手の上に、ランテは空いていた片手を重ねた。ミゼはランテと一度目を合わせ、すぐに逸らし、顔を俯ける。辛うじて見えていた唇が、わななきながら今にも壊れそうな声を作った。


「婚姻が決まったの」


「え?」


「相手は、シュレムザード家の嫡男らしいわ。次期王候補として、私と婚姻するのだそうよ」


 自分が何を聞いたのか、ランテはしばらくの間理解できないでいた。五回繰り返してやっと意味が分かったが、それでも整理はつかなかった。混乱したままで返事する。


「そんな、いきなり」


「王位継承争いが起きる前に、それが陛下のご意向なの」


 暗い声でこぼして、ミゼは今にも泣き出しそうな顔を必死に歪ませて微笑んだ。


「……どうして女では王になれないのかしらね」


 入り混じっていた感情が、そのとき、一つの答えを出した。


 嫌だ。


 このまま黙ってミゼが嫁ぐのを見ているなど、到底できそうにはない。


「ミゼ」


 告げようとした瞬間、ミゼの手がランテから離れる。間を逃したランテの代わりに、ミゼが口を開いた。


「私が男だったら、こんな、世継ぎの問題なんて出てこなかった。私が結婚しても、問題の根本的な解決にはならない……ただの時間稼ぎにしか。もしかしたら、それすら——」


 ほんの一瞬だけ、紫の瞳に薄っすらと涙が浮かんだ。胸の前に引き寄せた手をぎゅっと握ると同時に、瞼も落とす。しばらくして面を上げたミゼはもう、泣きそうな気配を少しも見せなかった。


「でも、これが王族に生まれた者の務めよね。身体が弱くて、部屋から出ることすら難しかった私が、こうして少しでも役目を果たせるようになったのだもの。喜ばないといけないわ」


「ミゼ」


 もう一度と名を呼んだランテだったが、その先に言おうとしていることを察してか否か、ミゼは許さない。


「ねえ、ランテ」


 ミゼの双眸がゆるりとランテに戻される。脆い強さの膜の下に、諦めと苦しみと、そして何か懐かしさのようなものが混在していた。


「また、あなたのお家に連れて行ってくれる?」


 思い返せば、この言葉には、ミゼの真意が——本人も打ち消そうとしていた本当の願いが——わずかだけ潜んでいたような気がする。しかしこのときのランテは、それを汲むことができなかった。


「うん、それはもちろん。言ってくれれば、いつだって連れて行くよ」


 いまだ残る混乱の中、言葉のままに受け取って答えたランテを、ミゼは寂しく笑って見つめた。


「ありがとう」


 礼を言われているのに、ランテの胸はすっと冷えた。心臓の真ん中に、氷塊を埋められたように。


「私、あなたに会えて良かったわ」


 ミゼは言う。孤独の響きを持った声で。


「本当に……本当に、良かった」


 美しい瞳の奥が、何か暗いものに静かに塗りつぶされていくのを見た。






「ここ、ラフェンティア平原って言うんだっけ」


「黙って歩いたらどうだい。声を聞きつけて黒獣が出たら、君一人で退治してもらうよ」


 無事エルティを出発したランテとデリヤは、人通りの絶えない街道を避けつつ、中央を目指して南下を始めていた。優しい日の当たる平原、静かに吹き渡る乾いた風、そして楽しげに歌う小鳥たち。急がなくてはとは分かっていても、ついのどかな気持ちになってしまう。


「広い平原だなあ。確か、中央までずっと続いてたっけ」


「中央どころか、四支部とそれを繋ぐ街道までが全部納まる大きさだ」


「デリヤはこの平原一周したことある?」


「どうして僕がそんなことを」


「オレはやってみたいんだ。いったい何日かかるんだろう? 十日くらいかかるのかな」


「何度も言うけれど、君は馬鹿だね。十日じゃ済まないに決まってる」


「そんなに広いんだ? すごい」


「頭の悪そうな感想だ。君の知能はたぶん五歳児と同じくらいだな」


「そうかな? さすがに五歳ってことはないと思うけど」


「皮肉も通じないなんて、頭が痛くなるよ」


 気のない返事を寄越しながらも、デリヤはランテを無視したりはしない。誰かと話していられるだけで、こんなにも落ち着いていられるなんて、今まで気がつかなかったとランテは思う。一人でなくて心底よかったと改めて感じた。デリヤも同じ気持ちでいてくれればよいのだが。


「うん、皮肉かなとは思った。前にユウラも七歳児呼ばわりされたことがあるって聞いてたし」


「……覚えてないね」


 懐かしげな顔を隠すように、デリヤはランテから目を背けた。その様子を見ていると、自然と尋ねていた。


「デリヤは、北支部にいた頃に戻りたい?」


 わずかながら開いた間を取り繕うように、デリヤは早口で応じる。


「なぜそんなことを聞くんだい」


「館でデリヤと別れた後、セトもユウラもテイトも、ずっと浮かない顔してたんだ。デリヤはああ言ったけど、でも今はオレたちも中央と正面から戦うことになったんだし、戻れない理由はなくなったと思う」


 ——知ってるよ。なぜ僕は死罪にならなかったか。知ってる、だけど、いや、だから一緒には行けない。


 館でデリヤが残していった言葉は、ランテもよく覚えている。きっとあれは、これから自分は中央の手練に追われるから、他の人間を——特に昔の仲間たちを——巻き込むわけにはいかない、だから一緒に行くわけにはいかないとの意味だったのだろう。ランテはそう解釈していた。


「君はつくづく馬鹿なことを言うね。あのとき言っただろう。僕はあの三人のことを許したわけじゃ」


「でも、デリヤは皆のこと今でも好きでしょ?」


 かなり長い間、デリヤはまるで時間を止められてでもいるかのように、目を見開いたまま固まっていた。


「……は?」


 ようやくのことでそれだけ言うが、動揺は隠しきれていない。


「オレにはそう見えたから」


「君の目は腐ってでもいるんじゃないかい」


「えーと、『戻ってきて欲しいね。デリヤには呪の才能も十分ありそうだから、ぜひ僕がって思ってたんだ』」


「何だい急に」


「それから、『そうね。あたし、デリヤにまだ大分負け越してるのよ。取り返さないと。今度はもう負けないわ』」


 ランテが何を言い始めたのか、ここでデリヤははじめて分かったらしい。動揺が戻った瞳を逸らして伏せる。


「あと、『剣術指導任せられるし、あとは酒だな。デリヤはオレより飲めないし、戻ってくれるなら助かる』だって。皆の言葉。たぶんこう言ってたよ」


 ランテが、デリヤが生きていたら北支部に戻れないかと聞いたときのことだった。昔のことを思い出したのか、三人とも楽しげに語っていたのを記憶している。


「セトも変わらないじゃないか」


 ふて腐れたように言ったデリヤは、思いなしか、少し嬉しそうにも見えた。


「そっか、やっぱりデリヤはセトくらいしか飲めないんだ?」


「うるさいな。君たち平民には分からないのかもしれないけど、酒は量じゃないんだ。銘酒を嗜むくらいに飲むのが——」


「お酒の話は今はいいんだ」


「君から振っておいて」


 ランテはちょっと背筋を伸ばした。この先は自分の役目だと、かねてから感じていた。


「とにかく、皆は、今さら自分たちから戻ってきてくれなんて言えないけど、でもデリヤに戻ってきて欲しいって言ってた。伝えといた方がいいと思ったから。あ、もちろんオレも戻って欲しいって思ってる。頼りになるし、デリヤと話してるのは楽しいし」


 戸惑いを、デリヤはもう隠さなかった。


「……どうするかは、僕が決めることだ」


 常より小さい声で言う。


「うん」


 いつか、デリヤを加えた五人で、楽しく笑い合える日が来ればいい。心から願いながら、ランテはしっかり頷いた。

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