【Ⅲ】   元に

 牢の隅で、テイトは小さくうずくまっていた。


「テイト」


「……セト?」


 ゆっくり面を上げたテイトの顔色は、まだ常より幾分か白かった。ローブに広く染みた血が痛々しい。


「痛みは?」


「ありがとう、もう大丈夫。……ごめん、僕は、あんなことを言ってしまって」


「謝るのはこっちだ。ごめんな」


 テイトは返事代わりに首を振ったきり、俯いてしまう。右の手が長い裾を強く握りつぶすのが見えた。


 テイトは、死なせて欲しかっただろう。彼を苦しめることになったのは、そうさせてやれず、死なせるわけにはいかない——死なせたくないとの私情を優先させた、自分のせいだとセトは自覚していた。テイトの意志を尊重し、見届け、そして彼の死を背負うことこそが、上官として選ぶべき覚悟だったと分かってはいる。うけがえなかっただけで。


「気に病むなよ。お前のせいじゃない」


 だが、何を言っても、テイトは自分を責めるだろう。分かっていたから、セトは多くを語らなかった。


「セトのせいでもないよ」


 互いに、しばし、沈黙する。再び顔を上げたテイトの視線が、セトの左腕で留まった。銀色の腕章だ。それは本部の準司令官が身につけるものだと、テイトはむろん、知っている。


「セト、その制服」


「ああ」


 それだけで、テイトは全て理解したようだった。こもった声に自責がにじむ。


「僕らが捕まっていなければ」


「だから、お前のせいじゃないし、ユウラのせいでもない」


「セト、ユウラは?」


「……無事だ」


 セトのほんの一瞬の狼狽を、テイトは見逃さなかった。


「本当に?」


「ああ」


 納得したわけではないようだが、テイトはそれ以上の追及は控えた。ありがたかった。彼の上にし掛かるようにして落ちる鉄格子の影に目を移し、セトは言う。


「テイト、必ずそこから出す。もう少し待ってくれ」


 テイトはまたも、首を振った。


「駄目だ。僕のことを気にしていたら、何もできなくなる。今だって、僕に会ってていいの?」


「監視つきだ。無事を確かめさせろって言ったら、案外簡単に通してもらえた」


「……僕は、たとえば僕のせいで他の誰かに危険が及んだり、セトが意にそぐわないことをさせられたりするくらいなら」


「そんなに心配するなよ。上手くやるさ」


 あの場面で死なせてやれなかったなら、可能な限り彼に生きていることを後悔させぬようにしなければならない。セトは、かすかに笑った。テイトを安心させるための笑みだったが、それが逆に彼を不安にさせるのをセトは知らない。何かを隠すとき、あるいは何か無茶をするとき、セトはこういう笑みをして煙に巻くのにテイトは気づいていた。


「もういいだろう」


 牢の入り口から声がかかる。監視役を担うキーダの声だ。


「セト、無茶は駄目だよ。本当に、今度こそ——」


「大丈夫だ」


 テイトが言い終える前に、セトは応じた。


「……死ねなくなったからな」


 テイトの位置からでは、入り口付近で待たせているユウラを視認することはできない。ゆえに、ほとんど独り言のように呟いたセトが何を——誰を見ていたのか、テイトには分からない。しかし、言葉に潜んだ不穏な何かを、彼は鋭敏に感じ取っていた。


「セト、一体何が——待って」


「また来るよ」


 ユウラのことを知れば、テイトはますます自責の念を募らせるに違いない。声は何度も追ってきたが、セトは振り返ることも、足を止めることもしなかった。


 ユウラを連れてそのまま牢を出る。他より何倍も頑丈そうな扉を閉めてから、キーダが口を開いた。


「総会が終わるまでは、飼い殺しにしておけとのご命令だ。妙な動きをされては困る」


「……噂通り、本部の白軍はお暇なようで」


「部屋を一つ与える。着替えた部屋をそのまま使え。新たに指示を出すまで、そこで待機していろ。時間は全て癒しの呪の永続呪の会得にあてるように。聖女と同等かそれ以上のものが扱えるようになれば、あの呪使いは解放してやってもいい、だそうだ」


 聖女と——母親と同じ水準の癒しの呪を扱うのは、至難を極めることを知っての条件だろう。最初から、そこまで至ることは期待していないに決まっている。仮にそれほどの腕を手にしたとしても、テイトを解放する気は微塵もないはずだ。だが、それを言ったところで、何かが変わるわけでもない。


 キーダは先を歩くようセトに促した。まっすぐ部屋へ戻るか確認する気のようだ。


「ユウラ、こっちへ」


 歩き出したセトのすぐ後ろに、ユウラは従う。足音だけを聞いていれば普段と変わりなく、ともすると彼女が洗礼を受けたことを忘れそうになる。返事が返ってくるのを期待しては名を呼び、そうして落胆することを、もう何度繰り返したか分からない。


 最後の角を折れるとき、中級司令官と鉢合わせした。道を譲り——中央は地位や身分による序列が厳しいと聞いている——セトは脇へどいたが、中級司令官はすれ違った直後に足を止めた。無遠慮な視線でユウラを眺める。


「その女、証持ちか? ちょうどいい、兵が不足していてな」


 ずいと伸びてきた手が触れるより先に、セトがユウラの腕を引いた。


「こいつはオレの部下なので。他を当たっていただけますか」


「部下だと? 証持ちだぞ? ……ああ、なるほど、まあ見られる顔をしているな。慰み者にするにはおあつらえ向きの——」


 下品に歪められた口から吐き出された言葉は、相手にしてはならないと分かってはいても、聞き捨てならなかった。剣呑な気配を纏わせて、凍てた視線を送る。


「それ以上喋って斬られるか、今すぐここから去るか。どちらでもお好きなように」


 身体は重い、だが中級司令官一人の相手くらいならばわけはない。一片だけ残った冷静さがすぐに剣を抜くことを阻んだが、それも次の一言ですっと影を潜めた。


「何を向きになっている。代わりなら他にいくらでも」


 セトが抜いた剣が中級司令官に迫るより前に、横から現れた別の剣に邪魔された。高鳴りが響く。キーダだ。


「ひ、ひっ」


 無様な声を上げ、中級司令官は耳障りな足音を立てて逃げていく。しばらくそれを目で追ってから、セトは剣を引いた。キーダも倣う。


「大したことないな。北支部副長の実力は、この程度か」


「……止めるなら最初から止めたらどうだ?」


「私も準司令官だ。近頃の上官どもの横暴は目に余る。いい気味だ」


 眉一つ動かさずに言い、キーダは次にユウラを見た。


「その女、副官だったそうだな。所詮証持ちと割り切れないなら、せいぜい目を離さないことだ」


 言われなくても。返事を飲み込んで、セトは剣を鞘に収めた。再び歩き始めながら、今しがたの動きだけで身体が悲鳴を上げているのに気づいて、ひとり苛立つ。


 部屋へ戻り扉を閉めてしまうと、痛みと疲労感が一斉に押し寄せてきた。身体がいうことを聞かない。奥の椅子まで歩くことさえできずに、セトはその場に崩れるようにして座り込んだ。


 少しでも痛みを逃がそうとして息をついたそのとき、漂う闇を見る。思わず声に出した。


「ルノアだな」


「はい。無事なようで安心しました。中央ですね?」


「ああ」


 返事が返ってくるとは思っていなかった。呪の一種だろう。ルノアの姿は見えないが、この淡い闇が声を伝えているようだ。


「囚われているようですね。他の二人は?」


「無事だ」


 嘘は、今度は悟られなかった。ルノアの声の緊張がいくらか緩んだのが分かる。


「よかった。それが確認したくて。中央本部は白女神の力が強すぎて、直接そこには現れられませんから……こんな形でしか話せなくて、ごめんなさい。それから、あなたたちが危機に瀕しているとき、私は何もできなかった。本当に……ごめんなさい」


 謝られると、ルノアに責はないことは分かっていても、ユウラやテイトに少しでも手を貸してくれていたらとの思考になってしまう。それ以上不毛なことは考えないために、セトは早々に答えた。


「こうなったのはこっちの力不足が原因だ。それで、王都は?」


「少し前に結界を張り終えました」


「なら、ランテを頼む」


 中央にそれらしい動きがないということは、ランテはまだ、少なくとも中央の手の者にかかってはいないのだろう。ランテを信頼していないわけではないが、一人ではやはり限界がある。また、中央に仲間が囚われていると知れば、ランテがどんな決断をするか。ルノアが傍にいたほうが何かと安心できる。


「ええ、分かっています。あなた方も、とにかく、これからは命を大切にすることだけを考えてください。いいですね。できる限り早く救い出せるよう、努力します。それまでは何としても生き延びてください」


 生き延びる、か。セトは自らにしか聞こえないような小声で、ルノアの言葉を復唱した。


「ルノア、聞きたいことがある」


「何でしょう」


「誓いの呪の使い方を教えて欲しい」


 ずっと、考えていたことだった。


 力の差は、容易くは埋められない。いや、相手が誓う者である以上、どれほど年月を重ねどれだけの努力を積んでも、この圧倒的な差を埋めることは決してできないと分かっていた。ならば、どうするのか。こちらも同じ存在になるしかない。それで敵うかは定かではない。むしろ、それでも、遥かに敵わないだろうという予感がある。だとしても、しないよりは。


 次の返事までには、かなり長い間があった。


「……どうして?」


「こっちで探そうにも、監視の目が厳しくてさ。なかなか自由には動き回れない」


 今も扉の外には人の気配がある。目を盗んで部屋を出るのは不可能だろう。そして、ユウラをここに一人残しておくわけにもいかない。もしも全て上手くいったとしても、具体的な手段を見つけ出すところまで辿り着けるのかといえば、難しいはずだった。


「そうではなくて、なぜ誓いの呪を?」


「オレは元からそっちに片足突っ込んでる」


 人でも、誓う者でも、どちらでもない。ゆえに惑い、苦しめられたのだろう。本当はもっと早くにこうするべきだったのだと、そうとさえ思った。そして、思うように動かない身体は、セトにとっては煩わしいものでしかない。


「何があったんですか。呪力が乱れているのは、そのせいですね。……探し当てるのに苦労するほどでした」


「身体が動かなくて困ってるんだ。このままじゃ、どの道長くはもたない。それなら」


「あなたがこれ以上無理をする必要はありません。言ったでしょう。命を大切にすることだけを考えて、と」


 正面に待機したままのユウラを、セトはゆるりと見上げた。


「それに、どうしてもやらなければならないことができた。オレじゃ使いこなせないか?」


「……いえ。あなたならきっと使えてしまう。だからこそ教えられません」


 ルノアの返答は苦しみを孕んでいた。気づいても、ここで引き下がるわけにはいかない。


「ルノア、頼む。必要なんだ。あんたが話さなくても、オレは必ず探し当てる。同じことなら早い方がいい」


「レネの林で話したとき、あなたは私を諭しましたね。独りよがりだと。あのときの私は、確かに独りよがりだったと思います。今のあなたと同じように」


「ルノアのときとは状況が違う」


「そうかもしれません。けれど、どんな理由があろうとも、今そこで誓いの呪を使うことは愚でしかありません。中央は、誓う者を脅威に思い、真っ先に排除しようとします。ワグレの誓う者もそうだったでしょう。進んで標的になるつもりですか?」


 そんなことは、分かっている。セトは言葉を次ごうとしたが、ルノアはその間を与えなかった。


「何があったかは分かりませんが、落ち着いてください。今のあなたの状態では、きっと、何をやっても悪いようにしかならない」


 ——ちょっと、落ち着きなさいよ。そんな身体で無茶しても、どうにもならないでしょ。


 唐突に、ユウラの声が蘇った。出かかった言葉が途端に消えていく。


「ごめんなさい。あまり長く話しては、ベイデルハルクに気取られてしまいます。今回はこれで。またあなたの呪力を探して声を送ります。どうか、焦らないで」


 ——焦っても何も解決しないわ。こういうときのためにあたしがいるんだから、何でも一人でしようとするのはいい加減やめなさい。


 遥か遠くを見たセトの前で、刹那、ルノアの闇が色を失う。今に戻ってきたときには既に、ルノアの声は少しも聞こえなくなっていた。


「……焦るなって言われてもな」


 ひとりごちて、セトは再びユウラを見上げた。合わせた目が一点の隙もなく無であることに傷つけられながらも、視線は外さない。


「必ず、元に戻してやるから」


 紅の瞳は、どんなに見つめても、やはり虚ろでしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る