【Ⅱ】ー3 七日

 ノタナの足音が救護室を過ぎ去ったとき、アージェがランテの背を軽く叩いた。直後にリイザも続く。


「ランテ、黒軍との一件は助かったぜ。俺は正直、おめえは頼りねぇ奴だと思ってたが、今回のことで見直した。やってくれたな」


「ほんとにびっくりよ。たった一人で黒軍追い出しちゃうんだから」


「オレ一人じゃなかったんだ。デリヤが助けてくれて……あ、そうだ、デリヤはここにいる?」


 支部には行かないと言っていたが、ならば、あの後彼はどうしたのだろうか。リイザはアージェと目を見合わせて、たいそう意外そうに答える。


「デリヤってあのデリヤ? ううん、見てないわよ」


「どこに行ったんだろう……」


 なぜデリヤの名が出てきたのか、二人にはそれすら分からないようだ。先に中央に行った、なんてことはないだろうが、デリヤもどこかで休められているだろうか。探しに行きたかったが、今は二人に話をするのが先だと決める。


 ランテは、激戦区で起こった全てのことを、アージェとリイザに語った。兵舎の様子、戦った敵、現れた王都、そして三人との別れ、後から知ったこと。ランテが話す間、アージェとリイザは一度も口を挟まず、ただ静かに耳を傾けてくれていた。


「やっぱりな。あの三人が大人しくくたばるわけがねぇ」


 最後まで聞き終えると、アージェは満足げな笑みを浮かべた。隣でリイザも一度綻んだが、すぐに不安げな顔に戻る。


「でも多分中央に捕まってるんでしょ? きっつーい拷問にかけられたりしてないか心配よ」


「あいつらが喋るわけねぇだろうが」


「馬鹿ねー、だから心配なのよ。勢い余って殺されちゃったりしたら」


 最悪の状況が目の前に浮かんできそうになって、ランテは急いで頭を伏せた。代わりに膝の上で握った両の拳を見つめる。


「アージェ、リイザ。そんなことになる前に、オレは何とか皆を助け出したいんだ。だから、他のことは二人に頼みたくて」


「おいおい、水くせぇな。俺らも一緒に乗り込むぜ」


「ちょっとアージェ。ダーフが持ち帰った手紙読んだでしょー? 私たちが無謀な行動に走らないよう、副長さまに釘刺されてるじゃない」


「んなことは知らねぇ」


「セトからの手紙が支部にも?」


 そう言えば、セトはナバにダーフ宛の手紙を託していた。あれのことだろう。


「そうなの。相変わらず用意周到なのよ、我らが副長は。ランテちゃんが中央から言いがかりつけられても乗せられるなってこととか、さっきも言ったように私たちに冷静に動くようにとか、あとはランテちゃんが暴走しないよう見張ってるよう、とかね。ケルムまでのいきさつと、だいたいそんな感じのことが書いてあったわねー」


 そこで一度切って、リイザはランテから視線を外した。指を組んでつま先立ちになり、伸びをする。


「だけどそっかー、黒軍と停戦を考えるなんてびっくりよね」


「リイザは嫌?」


 返事はアージェからだった。


「こいつの親父は激戦地で戦死してんだ」


 言葉が一斉に喉元から逃げていった。口を開いたまま何も言えなくなったランテの前で、リイザは頭の上の一番高いところでぱっと指を外し、軽く笑い声を立てる。


「あらー? アージェが気を利かすなんて珍しいこともあるものねー?」


「うるせぇ」


「そうだったんだ……ごめん、リイザ」


 アージェとリイザが中央本部出身であること、そして中央のやり方が受け入れられずに北支部の扉を叩いたことは、以前に三人から聞いて知っていた。リイザの父親は中央軍として激戦地へ送り出されたのだろう。中央は、兵を消耗品として扱っていると、これも三人が教えてくれていた。


「ランテちゃんは真面目よねー。気にしないで。もうずいぶん昔のことだもの。……それに、こだわってずるずる引きずっても、いいことにはならないって分かってるから、大丈夫大丈夫。こう見えて私、ランテちゃんよりだいぶお姉さんなのよ? 平気よー」


 何のわだかまりもなく、というわけには当然いかないだろうに、リイザは普段となんら変わらない口調と表情でこう言ってみせた。ランテとアージェには何も言わせないように、すぐに二の句を次ぐ。


「でも、たぶん、レクシス指揮官とかはなかなか賛成してくれないんじゃないかしら。あの人たち、頭かちかちだしー」


「そうとも言えねぇぜ。レクシスの奴、昔に比べるとずいぶん人の話を聞くようになった」


 アージェとリイザが語り始めたのを見て、ランテはベッドから降りた。傍に立てかけてあった剣を取ると、アージェが眉を上げる。


「どこか行くのか?」


「アージェ、リイザ。やっぱり、ここでのことは任せてもいいかな」


「どういうこと?」


 剣を腰に挿す。いつの間にか、この重みに安心するようになっていた。最初は剣を見るだけで不安で仕方なかったのにと苦笑すれば、リイザがいっそう訝しげな顔をしてランテを覗き込んできた。急いで答える。


「オレ、まだ支部の内部状況とかには詳しくないし、全部伝えた今、ここにいてももう何もできない。何もしないでじっと待っているなんてできないし、そうしてる時間がもったいない。皆が支部の意見をまとめてくれている間に、オレは別のことをしていた方がいいと思うんだ」


「どうすんだ」


「三人を助けに行く」


「ちょっと、ランテちゃん——」


 何を言われても、どんなことがあっても、自分の気持ちが変わるとは到底思えない。ランテはリイザを遮った。


「皆には今ここでやるべきことがあるけど、オレにはない。正面から戦うわけじゃなくて、忍び込んで、助け出すことを目標にしてやってみる。オレが何もしていない間に、セトやユウラやテイトが苦しめられていたり、もしかして殺されていたりしたら、オレは一生このことを後悔するし、自分が許せなくなると思うんだ。だから」


 今、ここでこうしている時間すら惜しかった。動きたくてたまらない。一刻でも、一瞬でも、とにかくできる限り早く、皆のために何かがしたかった。


「ランテちゃん、いくらなんでも無茶よ。それに私たちは、ランテちゃんを死なせないようにって、三人から——」


 今度はアージェがリイザを止める。彼はランテをまっすぐ見据え、静かに問うた。


「おめえの気持ちは分かった。身体は動くんだな?」


「うん、動く」


 ランテの即答を聞くと、アージェはにやりと笑んだ。


「なら行け」


「アージェ! 三人は命懸けでランテちゃんを守ったのよ。なのに、私たちがみすみす死なせたりしたら」


「おめえとは気が合いそうだな、ランテ。俺がおめえでも、同じことをしたぜ」


 アージェはリイザの言葉を意に介さないで、「ただし」とさらに続けた。


「死んじまったら意味がねえ。おめえは先に中央に行って、情報を集める。あいつら三人が今どういう状況にあって、本部内のどこに捕まってんのか。そんで、どういう経路でどう忍び込んで、どういう風に助けるのかを決める。忍び込むとしたらそれからだ。いいか、早まんじゃねえぞ。悔しいが、気合だけじゃどうにもなんねえことが、世の中にはたくさんあるもんだ」


 リイザは不貞腐ふてくされたようにアージェを横目で睨んでいたが、ついに反対することは諦めたようだ。渋々言う。


「……アージェがどう頑張っても呪が使えないみたいにね」


「うるせえよ。おめえも似たようなもんじゃねえか。でな、ランテ。おめえが準備を整えた頃に、こっちの準備も全部済ませてやるよ。中央で合流だ。俺ら各支部連合軍が、外から本部を攻める。おめえはその混乱に乗じて中央本部に潜りこみ、三人を救出する」


 黙って聞いていたリイザだったが、ここですっと背を伸ばすと、右手を腰に当てて、わずかに首を左へ傾けた。


「『ずいぶん雑な作戦ね』」


「なんだおめえ、ユウラみてえな言い方しやがって」


「真似したもの。すごく言いそうでしょー?」


 選んだ言葉もそうだったが、言い方から動作まで、実によく似ている。ランテはすっかり感心してしまった。さすが、何年も同じ支部で働いてきただけはある。


「似てる。一瞬本物のユウラかと思ったくらい」


「でしょでしょ?」


 リイザは得意げだった。少しの間笑い合ってから、ランテはアージェに向き直った。


「アージェ、分かった。そうしたい。だけど、全部決めたときにアージェたちがまだだったら、オレは先に動いててもいい?」


「ああ。こっちも死ぬ気で間に合わせてやるぜ。ただし、今日から十日……いや、七日。七日は待つことだ。いいか?」


「七日……」


「一刻を争う状況だっていうんなら、そこら辺は任せるけどよ。こっちは兵の準備やら各支部との連携やら、やることが多い。どうしたって多少は待たせることになっちまう。そこら辺は分かってくれってこった。で、五日後に中央貧民街で打ち合わせ、七日後に中央攻め決行。一応はこれを目標に動くって今決めた。さっきも言ったが、おめえがそれを待つかどうかは任せる。当然、こっちはそれを待ってもらいてえし、その方が三人を救い出せる率も上がるだろ、たぶん。それだけ覚えてろ」


「……うん、分かった」


 アージェが止めずに送り出そうとしてくれること、できるだけ迅速に動こうとしてくれていること、そうして進んでランテに協力しようとしてくれることが、とても嬉しかった。こんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。もし納得してもらえなかったら、黙って行こうと思っていたが、彼のお陰でそうならずに済んだ。心強い。


「ありがとう」


 ランテは言ったが、アージェは何に対しての礼か分かりかねたらしい。それでもよかった。


 リイザはまたもや不安げな顔をして、一度扉を振り返った。先ほどノタナが出て行った扉だ。


「ねえ、ランテちゃん。出発前にノタナさんのご飯しっかり食べて、行くってことちゃんと伝えてあげて。ノタナさん、ただでさえだいぶ堪えてるから」


 ノタナが抱えている心労は、ランテでは量りきれないほどのものだろう。ランテがエルティを発つと聞けば、ノタナはきっとまた心を痛める。分かっていても、やめるわけにはいかない。


「うん。ありがとうリイザ。そうする」


 それならせめて出発する前に、無謀なことはしないと約束して、少しでもノタナを安心させたい。ランテの返事を聞いて、リイザもほっとしたように頷いた。


 食堂へ入ってきたランテが剣を提げているのを目にしても、ノタナは「じっとしてなって言ったのに、あんたも聞き分けがないねえ」と言ったきりだった。


「ごめんなさい」


「謝ることはないよ。そこに座ってな」


 人の姿はまばらだった。遠くからランテを見て、連れに耳打ちをする者はいたが、直接話しかけてくる者はいない。ランテは目についた席に腰かけてから、ちょうどそこが以前セトやアージェ、リイザと共に食事を採った場所だったことに気がついた。あのときも落ち着いていられる状況ではなかったが、今よりも多少心に余裕があったのは、皆と一緒にいられたからだろう。


「もっと美味しい物を作ってあげられればいいんだけどね。腹を怪我した後だから、これくらいの方がいいだろう」


 ノタナはランテにリゾットを差し出すと、自身も向かいの席に座った。ランテは早速一口すくって、口に運んでみる。温かくて、ノタナはああ言ったが、やはりとても美味しかった。


「行くつもりなんだね?」


 ランテが半分ほど食べたところで、唐突にノタナが言った。躊躇って、しかし、頷いた。


「はい。やっぱりオレが皆を助けたいんです」


 もう一度謝ろうとしたランテを、ノタナは穏やかに止めた。


「分かってたよ。あんたは戦える。なら、じっと待っちゃいられないのは当然さ」


 ノタナの声は優しくて、そして、少し寂しかった。


「長く離れるときはその前に寄って行けっていつも言ってるのに、セトはそういうときに限って顔を出さなくてね。だけど、今回は来たんだよ。それで、謝ったんだ。ごめんってね。そのときから、覚悟はしていたよ」


 机の上で腕を重ね、ノタナは静かに語った。堪える声は、かすかに震えている。


「だけど、駄目だねえ……あの子が死んだって……それからあんたや、ユウラやテイトまで行方不明だって聞いたとき、目の前が真っ暗になったよ。昔のことを思い出して、何も手につかなくなってね。あんたが帰ってくるまで、どうやって過ごしていたか思い出せないくらいさ」


「……昔のこと?」


 遠慮がちに尋ねたランテへ、ノタナは無表情で頷いた。


「息子がね、いたんだよ。四つのときに黒獣に襲われて死んじまった。旦那と一緒にね」


「……そうだったんですか」


 言うべき言葉が一つも思いつかなくて、ランテはそんな間抜けな返答しかできなかった。


「夜中になっても戻ってこなくてね、支部でずっと待っていたんだ。結局、二人そろって血まみれの遺体で帰ってきて——本当に気が狂いそうだったよ。ハリアルには、そのとき世話になってね」


 ノタナは淡々と話したが、今でもそのときのことが忘れられないらしいのは、沈痛な表情から分かった。


「もう、あんな思い二度とごめんだって思ったのに……情けないねえ、やっぱり私はまた待っていることしかできないんだよ」


 心からの苦しさが滲み渡った、胸の痛くなる嘆きだった。ノタナの瞳は潤んでいる。何か声をかけたくて、しかし、やはり言葉は見つからない。


「ノタナさん……」


「すまないね、こんな話をして。ほら、食べな。冷めちまうよ」


 促されて、ランテは少しの間食事を進めたが、三口食べてからスプーンを置いた。


「ノタナさん」


「どうしたんだい?」


「オレ、無茶はしません」


 ランテはそっと、剣を撫でた。そうして、顔を上げる。


「オレも、ノタナさんと一緒です。セトもユウラもテイトも、みんな強くて、オレはいつも守ってもらってばかりでした。あのときだってみんなに命懸けで逃がしてもらって……東でみんなが死んだって聞かされて、一人だけ生きてる自分が情けなくて腹立たしくて仕方なかった。とても苦しかったし、辛かった。だから、ノタナさんの気持ちは、オレにも少しなら分かります」


 潤んでいたノタナの両目から、ついに涙が盛り上がる。


「ランテ、ごめんよ。あんたも、いや、あんたの方が辛かったろうに」


 ランテはぶるりと首を振った。直前まで傍にいたランテより、ノタナの方がずっと不安で苦しかったに違いない。


「ノタナさんの気持ちが分かるから、オレ、無茶はしないって約束します。皆と合流したら、皆にももう無茶はしないようにって、ちゃんと言っときます。それで、ノタナさんの代わりに皆の傍にいて、誰かが無茶をしそうになったら、絶対止めます。全員そろって、必ずここに帰ってくる」


 だからノタナさん、今度は安心して待っててください。ランテがそう締めると、ノタナは堪え切れなかった涙を流しながら、何度も頷いた。


「あんたは優しい子だね」


 本当に、あんただけでも帰ってきてくれてよかったよ。そう付け加えて、ノタナはランテの頭を柔らかく撫でた。


「ああそうさ、誰がなんと言おうと、あんたの帰ってくる場所はここだよ。私はずっと待ってるからね。怪我するんじゃないよ。気をつけていっておいで」


「うん、ありがとう、ノタナさん」


「そりゃこっちの台詞だよ。ランテ、ありがとうね」


 ノタナは、ランテが食事を終えると、旅支度まで手伝ってくれた。ノタナと、それからアージェやリイザ、さらにマーイと戻っていたダーフにも優しく送り出され、ランテは、一人でも明るく支部を発つことができた。

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