【Ⅱ】ー2 目覚め

「目が覚めたかい」


 ぼやけた視界の中に、人の姿を一つ数えた。ランテは霞む目をこすった。徐々に顔かたちがはっきりしてくる。


「ノタナさん?」


「ああ、そうだよ。……大変な目に遭ったね。身体は大丈夫かい?」


「はい。もう大丈——痛っ」


 心配顔のノタナを安心させようと急いで起き上がろうとしたのが失敗だった。腹部に痛みが走って、あえなく布団の上に戻ることになる。痛みは長く尾を引いた。


「急に動くんじゃないよ! まだ治りきってないんだからね。しばらくは安静にしてるようマーイも言っていたよ。腹は空いてないかい? 何か作るよ」


 ランテを叱る口調はいつもとなんら変わらなかったが、ノタナは少し憔悴しているように見えた。きっと、エルティにももう情報は伝わっているのだろう。ずっと心配していたに違いない。


「あ、えっと、今はいいです。ここは支部ですか?」


「そうだよ。救護室さ」


「ノタナさん、あの……」


「どうしたんだい」


 何と続けようか迷って、ランテはしばらく黙っていた。ノタナを元気づけたかったのだが、結局ふさわしい言葉が浮かばなくて、一番言っておかなければならないことだけ口にした。


「皆で帰って来れなくて、ごめんなさい」


 ノタナはランテを見つめてから、二、三度、首を横に振った。伸びてきた腕が労わるようにランテの頭を撫でる。


「あんたが謝ることでもないだろう。辛かったろうね。あんただけでも戻ってきてよかったよ……本当に」


 刹那、あの暗い洞窟の中での感情が蘇って、ランテを襲った。苦しくて、辛くて、悲しかった。その一瞬だけ泣きそうになったが、ランテはぐっと堪える。泣いている場合でもないし、泣いて何かが変わるわけでもない。それに、今一番辛いのはランテではないはずだ。


「ここには、皆のことはどんな風に伝わっているんですか?」


 聞いてみると、どうやら北が掴んでいるのは東と同じ情報までらしかった。つまり、ユウラとテイトの生存の可能性は伝わっているが、セトのことは知らない。一通りランテが説明を終えると、ノタナは強張っていた身体からほんの少し力を抜いて、ふっと息を吐いた。


「そうかい……あの子も生きてるかもしれないんだね。本当に心配ばかりかけて」


 おおよそノタナらしくない、か細い声だった。安堵はあったかもしれないが、それでも不安の方がかなり勝っているらしかった。ランテはゆっくり起き上がった。一塊の空気を飲み込んで、顎を上げる。


「ノタナさん、オレ、皆を助けにいきます。絶対連れて帰りますから」


 ランテの言葉を聞いて、ノタナは血相を変えた。ばっと向き直り、腰を曲げて視線の高さを合わせ、ランテの両肩を掴む。


「無茶なことを言うんじゃないよ。敵は中央じゃないか。あんたまで捕まっちまったら……いや、それで済めばまだいい方だよ。死にたいのかい?」


「死にたいわけじゃないんです。でもオレ、皆には本当にいつも助けられてばっかりだったから、今度はオレが助けたいと思って」


 ノタナはランテの目を見据えると、また息をついた。あの子たちが絶対に聞かないときと同じ目をしてるよ、と呟いて、けれども、彼女は譲らなかった。


「あんたの気持ちは分かるけど、ランテ、馬鹿なことを考えるんじゃあないよ。中央には今ハリアルもいる。ハリアルはこうなったときのために、総会に出席したんだよ。任せておけばいいのさ。あんたはそんな身体なんだし、くれぐれも無謀な真似はしない。いいね?」


「でも、ノタナさん」


「アージェやリイザがあんたの話を聞きたがっていたよ。だけど、まずは食事だ。ここまで持ってくるから、じっとしてな」


 もしどこかへ行こうとするなら、ベッドに縛りつけてでも止めるからね。最後に強い口調でそう言ったノタナの目には、何かに喘ぐような苦しさが棲んでいて、ランテはそれ以上何も言えなかった。


 ノタナが去ってすぐあと、また救護室の扉が開かれた。裾の長い僧服を着て、痩せた人物がぬっと現れる。


「あ、マーイ、久しぶり。傷、治してくれてありがとう」


 いきなり声をかけられてマーイは驚いたらしいが、すぐに平静を取り戻し、細々とした声でランテに応じた。


「目が覚めたようで何より……ああ、助からなかったらどうしようかと。あんなにひどい怪我を一人で治したのは初めてだった……おれもやればできるのか……」


 最初の一言以外はどうやら独り言だったらしい。思い人が絡んでおらずとも後ろ向きであるのは変わりないようで、顔を伏せ気味にして、それ以降も何かを呟き続けている。どうしたものかとランテが悩み始めると、マーイは突如ばっと顔を上げた。今度はランテが驚かされる。


「な、何?」


「副長は、君の怪我を治したことがあるか?」


「何回も治してもらったけど、何で?」


「そのとき副長は何か言っていなかったか?」


「特に何も言ってなかったと思う」


「それじゃ、やっぱりおれが腕を上げたのか……いや、まさかそんなことがあるはずがない」


「マーイ?」


 マーイは、さっぱり飲み込めないで首を傾げたランテの腹を指差した。


「君のその怪我。本当ならおれが一人で治しきれる傷ではないはずなんだ。それなのに治せた。まるで癒し手を治療しているかのようで、信じられないほど癒しの呪がよく効いたんだ。ああ、そうか、君は癒し手だったのか! なるほど、それなら納得できる」


 ランテを置いてけぼりにして、マーイは一人で話を進めていく。思わず止めに入った。


「ちょっと待って、マーイ。オレは癒し手じゃないよ。癒しの呪なんて使えたことがないし、そもそもどうやって使ったらいいかも分からない」


「いいや、君は癒し手に違いない。聞いたところ、記憶を失っているようじゃないか。君は以前癒しの呪を使っていたんだ。間違いない……それか、まだ癒し手ではないのだとしても、君はきっと癒し手になれる素質を秘めている」


「ごめんマーイ。ちょっとついていけないんだけど」


 ランテはついに言ったが、マーイはわずかも気に留めなかった。それどころか、何度も頷いて、自分が正しいと確信を深めたようですらある。どこからどんな風に訂正すればよいのやら、ランテが困っていると、マーイが先に口を開いた。


「傷の調子は?」


 服の上から、もう一度怪我をした部分に触れてみる。強く押せば痛むが、血が附着したりはしなかった。


「まだちょっと痛いけど、傷口は塞がってるし、大丈夫みたい」


「やっぱりそうだ……君!」


「わっ」


 急に両肩に手が載せられて、ランテは跳ね上がりそうになった。マーイは真剣な——必死にも見える——まなざしでランテを見つめている。


「体力が回復したら、こっそり大聖堂に忍び込んで神光に触れてみるといい。そうすれば君はきっと癒し手になれる。副長がいなくなった今、癒し手がおれだけでは、絶対死人が増えるんだ……ああ副長、なんで……」


 まるで萎れていくように、マーイはみるみる首と背を屈めて落ち込んでいく。見ていて気の毒なほどだった。


「マーイ、セトは」


「こうしちゃいられない。他にも怪我人はいるんだ。君、傷がおかしいとか、また何かあれば声をかけてくれ」


「ちょっ、待——」


 真相を伝えようとしたランテだったが、今のマーイには何も耳に入らないようだ。少々ふらつきながらも、早足で救護室を出て行ってしまう。黒軍が裏町を占領した際に、いくらか怪我人が出ているのだろう。それを彼が一人で癒そうとしているのだとしたら、負担は大きいだろうし、気も休まらないはずだ。


 マーイの言ったことを改めて考えてみたが、やはり訳が分からない。ランテが癒しの呪を使えるなどあるはずがない、そう結論づけようとした瞬間だった。ふいに、ある場面が蘇る。


「あ」


 ——お前が自分で治したんだ。


 ランテはまた自らの腹部に触れた。あれも同じ、ここの傷だった。ベイデルハルクに貫かれた、あのときのことだ。意識を失ったランテが目覚めたとき、完治していたあの深手。セトはあれを、ランテが治したと言っていた。


 ランテは両の手のひらを見下ろした。もしかして、本当に、マーイが言うようにランテには癒しの呪を扱う素質があるのだろうか。試してみようかと片手を翳して集中し始めたそのとき、またも扉が開け放たれた。


「ランテちゃん!」


「リイザ、アージェ、まだ駄目だって言っただろう! ランテはさっき起きたばかりなんだよ。身体に障るじゃないか」


 廊下の涼しい空気を引き連れ、リイザとアージェは賑やかに入ってきた。彼女らを追って後から来たノタナは、片手に調理器具を持っている。食堂にいた二人がランテに会いに行くことを知り、止めようと慌てて追いかけてきた、そんなところだろうか。心配はありがたかったが、ランテも、特にこの二人には事の次第を早く話しておきたかった。


「ノタナさん、大丈夫です。オレもう元気です」


「ランテ、あんたの傷はね、決して軽い傷じゃ——」


「ノタナさん、平気ですから」


「……まったく」


 ノタナは一つ息を吐き出して、諦めたように言う。食事ができたらすぐ食べてもらうからね。そう言い残して部屋を後にした。その背中は、前に見たときよりも一回りは小さくなっていた。途端に申し訳なくなったが、時間も惜しい。ランテは、黙って見送ることにした。

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