【Ⅱ】ー1 本名
ただいまの声で玄関まで迎えに来たランテの母は、ルノアの姿を見つけるなり、こぼれんばかりに目を見開くと、急ぎ居間まで駆け戻った。
「ちょっと、あなた、あなた! ランテが女の子連れてきたのよ。しかもとてもかわいい子! ほら、来て」
会話が丸聞こえで、ランテは思わず頬を掻いた。ルノアに苦笑してみると、彼女も笑っている。
母は、父を半ば強引に引っ張りながら玄関まで戻ってきた。
「まさかランテが女の子を連れてくるなんて……それならそうと早く言っておきなさい。いい? 母さんにも準備があるの。本当にもう、あなたはいつまで経ってもマイペースなんだから」
母の声はいつもよりだいぶ上ずっていて、その上慌てていた。ルノアの前で叱られるのはなんだか困る。ランテも釣られるように慌てた。
「ごめん。でもオレ、ちゃんと友達連れてくるって言った気がするけど」
「友達は友達でも女の子は別なのよ」
「しかもこんな別嬪さんをね。お前も隅に置けないな」
父は、何が面白いのか、ほのかに愉快げな笑みを浮かべていた。予想外の展開に戸惑って、ランテはどうにか話を変えようと苦心する。
「父さんまでそんなこと言って。だから、そんなんじゃないんだよ。ほら、ルノアも困って——」
「ふふっ、私は困ってなんかいないわ」
ルノアは楽しそうだ。それならいいかとランテも肩を下ろす。ルノアはひとしきり笑うと、すっと姿勢を正した。
「お城で、ランテさんにお世話になっているんです。それでいつも、ランテさんがとても幸せそうにご両親の話をされるものですから、私、どうしてもお二人にお会いしたくなって。その……普段はお仕事があって、こんな時間にお邪魔することになってしまって、本当にごめんなさい。ご迷惑でしたでしょう?」
頭を下げる仕草がとても洗練されている。両親に彼女の身分がばれやしないかとランテは内心焦ったが、母はこれまでと変わらぬ笑顔のままで応じた。
「構わないのよ。こちらこそ、いつもランテがお世話になっています。ルノアちゃんだったわね。さ、上がって」
母はルノアを居間へ通し、簡単な菓子と飲み物でもてなした。母手製の焼き菓子を興味深そうに眺め、一つ口にして、ルノアはすぐに顔を綻ばせた。
「とても美味しいです」
母も嬉しそうに微笑んで、ランテの頭を軽く小突く。
「ごめんなさいね、こんなものしか出せなくて。このおばかさんがちゃんと前もって教えてくれていたら、もう少しましなものが作れたんだけど」
「いいえ、本当にとても美味しいです。お料理お上手なんですね」
「ルノアちゃんはお料理は?」
「私は……あまりしたことがなくて」
「よかったらうちで挑戦してみる? 今度来たときにでもどうかしら。材料の準備はしておくわ。一緒にやらない?」
ルノアもだが、気が合うのか、母の方も楽しんでいるようだ。会話が止まらない。父が、横からこっそりランテに話しかけてきた。
「母さんな、娘も欲しかったらしいんだ。また連れてきてやれ。喜ぶぞ」
「うん。どっちも楽しそうで安心した」
父はランテに頷くと、ルノアと母の方へ視線を移し、大仰な動作で腕を組んで、うーんとわざとらしい声を上げた。
「やっぱりかわいい女の子がいると違うものだな。うちの
母もだが、どうしてそう短所ばかりを挙げるのだろう。少しくらい褒めてくれてもとランテが口先を少しばかり尖らしたとき、母がしたり顔で父を見た。
「あらあなた、城で働く倅を持つなんてこの上ない誉れだとかいつも言ってるのに、素直じゃないんだから」
「おいお前、そういうことは普通本人には黙ってるものだろう」
「ふふふっ」
ルノアが笑い声を上げたのをきっかけに、全員で笑った。その後も、さまざまなことを皆で話した。ずっとルノアは楽しげで、次々質問を——ランテの生い立ちを聞くものには少々困ったが——したり、先を促したりし、そして一瞬も笑みを絶やさない。連れてきてよかったと、ランテは心から思った。
そうして、どれだけ経っただろう。初めて会話が止まったとき、ルノアが笑みにわずかに悲しさをにじませた。
「……少し、ランテ——ランテさんが羨ましいです。こんなに素敵なご両親の元で育てられて」
ランテの両親は互いに顔を見合わせた。先に母がルノアを見て、優しく尋ねる。
「ルノアちゃんのご両親は?」
「母は生きています。でも……その、忙しい人で」
ずっとランテも聞きたかったことだった。なるほど、ルノアの母は当然王族だ、多忙なのだろう。父親は亡くなっているのだろうか。ルノアの事情を考えずに、自分の家のことを何の遠慮もなく話してしまったのを、ランテは今さらながら後悔した。
「そうか。寂しい思いをしてきたんだね。だけど、そうだな、たとえばうちの倅と結婚でもしたら、俺やこいつも君の父さん母さんになるんだ」
突拍子もない発言に、ランテは度肝を抜かれた。思わず椅子から立ち上がってしまう。
「父さん!」
「照れるなよランテ。あのな、こんな別嬪さんでしかもいい子には、一生にそう何度も会えるものじゃない。ここで捕まえとかないとお前、一生後悔するぞ」
「ちょ……」
すっかり返すべき言葉を見失ってしまったランテをよそにして、会話はどんどん進められていく。
「あなた、さすがに気が早いわ。ランテはまだ十五になったばかりじゃないの。それにルノアちゃんだって、まだそんな年でもないでしょう。そういえばおいくつ?」
「十七です」
「ほらみなさい」
「あの、でも」
遠慮しがちに、ルノアが口を挟んだ。その後も少しの間躊躇って、言葉を探すように視線をあちこちにやる。最後には頬をほんのり赤らめた。
「もしお二人が私の両親になってくださるなら、それはとても素敵だなって思います」
「……ルノア」
驚いて名を呼んだランテと、まだ頬が赤いルノアを交互に見つめて、母が優しげに目を細めた。
「あらあら」
「さすがにこれ以上遅くなってしまってはご迷惑なので、今日はこれで失礼します。本当にありがとうございました。とても楽しかったです」
月がかなり高くなってきた頃、ルノアが立ち上がって言った。また綺麗に腰を折る。
「ルノアちゃん、本当にいつでもいらっしゃいね」
「今度は晩飯も食べていくといい。こいつの料理はなかなかでね」
「はい。ありがとうございます。ぜひ」
玄関まで見送りにきた母が、ルノアが帰り支度を終えるのを待って切り出した。
「ああ、そういえば、ランテ。もうすぐミゼリローザ姫のご生誕のお祭りがあるじゃない。お城のお仕事は休みをいただいて、ルノアちゃんと二人で行ってみたらどう?」
「ミゼリローザ姫? っていうと、ええと……」
王族の名前はどれも長くて覚えにくい。ランテが入り混じった知識の中から答えを引き出すよりも早く、母が言った。
「いやね、王妹ルテルアーノ姫の娘さんよ」
「えっ?」
知らず、ランテはルノアの方を見た。どうしたって娘がいるようには見えない。そもそも、先ほど年を聞いたばかりだ。
「え、じゃないわよ。どうしたの、そんなに目を丸くして」
「ルテルアーノ姫って、今いくつだっけ」
「確か今年で御年三十五になられるんじゃなかったかしら」
ランテは閉口した。いったいどうなっているのだろうか。混乱してきた頭を一時機能停止させて、もう一つ尋ねる。
「そんな……じゃあ、そのミゼリローザ姫は?」
「たぶん十七歳になられるんじゃなかったかしら。ルノアちゃんと同い年ね。一度もお姿をお見せにならないから、はっきりとは分からないけど、きっとそうよ。最近はだいぶお加減もいいみたいで、今度のお祭りではもしかしたらお城のバルコニーに出られるかもって話になってるみたいね」
「え……え?」
いよいよ分からない。
「ちょっとランテ、しっかりなさい。ちゃんと教えたでしょう」
そう言えば、そのようなことを聞かされた覚えがあった。戸惑いの視線を向けたランテを、ルノアは一度脅えたように見て、ちょっと首を振った。勢いをなくした声が続く。
「ランテ、私、もう戻らなくちゃいけないわ。……あの、本当に今日はありがとうございました。失礼します」
丁寧な挨拶を終えるや否や、ルノアはくるりと振り返って一人で家を出て行った。
「あっ……ルノア、待って! ごめん母さん、ルノア送ってくる」
ルノアが閉めた扉を開けながら、ランテは母を振り返った。返事を聞くより早く、顔を正面に戻してルノアの姿を探す。彼女は通りを速足で歩いていく。高い靴音が夜の町に響いていた。
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけてね」
母の声を背に聞きながら、ランテは慌ててルノアを追いかけた。
「ルノア、待って」
ランテはルノアを追い越して、前に立ちはだかることで彼女を止めた。目が合うと、ルノアはゆるゆると視線を下げる。
「ランテ……ごめんなさい」
「何で?」
「私、あなたを騙していたの」
先ほどの会話のことだろう。内容を思い出しながら、ランテは聞いた。
「えっと、年齢のこと?」
「違うわ。名前の方よ。私の名前は、ルテルアーノではなくてミゼリローザなの。神聖語では闇という意味。私、この名前が嫌いで……ランテは、私を光みたいだと言ってくれたでしょう。それが嬉しくて、今まで黙っていたの。ごめんなさい」
ルノアは、今までとは一転して、とても寂しそうな顔をしていた。心が痛む。どうにかしてさっきみたいに笑って欲しいと思って、ランテは静かに問うた。
「何で嫌いなの?」
「だって、闇は暗いし、不気味だし、なんだか怖いでしょう」
「でもそれなら光だって、あんまりあると眩しいし、目だって痛くなるし、何か落ち着かなくなるし……似たようなものだと思うけど。闇はほら、たくさんあると確かに怖いかもしれないけど、少しなら落ち着くし……あ、そうだ。オレたちが他の衛兵の人に見つからないでいられるのも、闇のお陰じゃないかな」
ルノアは、一瞬きょとんとして、それから小さく笑い声を上げた。ほっとして、ランテも少し笑う。
「ランテは、私の気づかないことにたくさん気づくのね。少し、この名前が好きになれそうだわ」
「じゃあ、ミゼかな」
ふいに言うと、ルノアはゆっくり小首を傾げた。
「え?」
「呼び名。それでいい?」
「……ええ。ありがとう、ランテ」
誰からのものより、ルノアからの——ミゼからのありがとうが、一番嬉しかった。
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