【Ⅰ】ー2 時間

 目が覚めたとき、ランテは人で溢れた部屋の中にいた。手が背中の後ろで縛られている。まだ痛む腹に力を入れて起き上がれば、傍にいた痩せた男性が話しかけてきた。


「大丈夫か、兄ちゃん」


「はい、平気です」


「そりゃよかった」


 見渡せば、老若男女、あらゆる人間が狭い空間——宿の一室だろう——に集められていた。二十数名になるだろうか、全員縄で縛られている。


「人質の皆さんですか?」


「ああそうだ、あんたもだろう」


「皆さんはいつからここに?」


「昨日の晩からだな。俺らはいいが、女子供と年寄りはそろそろ限界だ」


 男性が向いた方にはベッドがあり、そこにはまだ年端もいかない子どもが五人、青白い顔をして腰かけていた。その脇では母親らしい女性が三人、子に寄り添うようにして床に座っている。さらに部屋の奥では、老夫婦がお互いを支え合うようにしてうずくまっていた。


「皆、ここの宿に泊まってた人たちですか?」


「ああ、あとは従業員と宿主な」


「そうですか……」


「兄ちゃん、あんた戦えるだろ?」


 出し抜けに言われて、ランテは瞬いた。


「一応、剣と呪は少しですけど使えます。何でですか?」


 笑って、男性は「腕。呪封じだろ、それ」と答えた。確認してみると、手首に何か腕輪のようなものがつけられている。どうにも落ち着かないと思っていたが、これが原因だったらしい。


「俺とあともう一人、戦いに心得のある人間がいる。女子供と、あそこの爺さん婆さんだけでも逃がしてやろうって話になってるんだ。俺たち三人が中心になって、あとは残りの男たち全員で盾になりゃ、それくらいの時間は稼げるだろう。どうだ?」


「それは……」


 ランテは戸惑った。女性や子供、老人は優先的に逃がすべきだろうが、そのために他の誰かが犠牲になるのでは、と思う。


「なんだい兄ちゃん。怖いのか?」


「そうじゃなくて——」


 言いかけたとき、ふと見た窓の外が暗くなっていて、ランテは目を見張った。デリヤの声が耳に蘇る。


 ——夜半まで待つ。それ以上かかるようなら僕は動き出す。


「夜半」


「は?」


「夜半まで、あとどれくらいですか」


「もう間もなくだろうよ。それがどうしたんだ?」


「時間がない」


 自分に言い聞かせるように呟いて、ランテは足を立てた。


「おいおい兄ちゃん、落ち着けよ」


 どうすればよいのか、分からない。皆ならどうしただろうと考えてみるが、妙案は一つも浮かばなかった。しかし、ここで迷って何もしないでいるわけにもいかない。あのとき、岩壁の向こうに消えていったユウラとテイトを、その後のルノアの言葉を思い出した。あんな思いをするのは、もうたくさんだ。


 部屋の中をもう一度見渡した。今ここに居られない皆に代わって、ランテが戦えない彼らを守らねばならない。覚悟を決めて、すっと、大きく息を吸った。


「オレは、支部の人間です」


 部屋全体に聞こえるように言う。しばらく待つと、全員分の視線が集まった。両腕を縛られた状態では恰好がつかないが、ランテは精一杯胸を張る。とにかく、彼らを安心させるのだ。


「必ずオレが皆さんを助けます。だから心配しないでください」


 一呼吸の後、少しばかり、部屋の空気が安らいだのを感じた。


「支部は、私たちを見捨てたわけではないんですね」


 十ばかりの少女の母親らしき女性が、震える声で言う。次にはその夫と思しき男性が口を開いた。


「あんたも縛られてるが、何か作戦でもあるのかい?」


「ここにいるメイラという女性が、黒軍のリーダーで、強力な呪使いです。あの人がいる限り、町のどこに居ても危険なんです」


「人質になることでその女に近づこうとしたのか?」


「……そうです」


 事実とは多少異なっていたが、ランテは頷いた。メイラを説得しなければ、どうにもならないことは変わらない。


 もう時間はいくらも残っていない。急がなければならなかった。ランテは肩越しに縛られた腕を見た。縄は何重にも巻かれており、力技で解くのは不可能だろう。ならばと、呪封じの方に目を遣る。テイトによると、呪封じをつけられると呪力がかき乱されて制御不可能に陥り、呪は全く使えないらしい。しかし今のランテはというと、少々違和感を覚えるくらいで、呪を使えそうにないというほどではなかった。


 【光線】であれば、縄を焼き切ることができるはずだ。目を閉じて、ランテは集中する。頭に一直線に走る光を思い浮かべ、強く念じようとした、そのときだった。


「あ」


 思わず声に出す。扉のすぐ向こうに、人が迫る気配がしたのだ。肌を何か冷たいものが這う。それは殺気というものなのだと、以前ユウラが教えてくれていた。


「出来る限り下がってください!」


 人質らに向かって声を張り、ランテは扉を塞ごうとしたが、間に合わなかった。開け放たれた扉の向こうには、イッチェと、もう一人の黒軍の兵が武装して立っていた。


「支部は兵の準備を進めている。お前たちは見捨てられた。悪いがここで全員死んでもらう」


 イッチェの宣告を受けて、女性の悲鳴がいくつか重なった。子供たちが泣き始めたのも聞こえてくる。ランテは人質を守るように、黒軍二人の正面に立った。


「お前から死ぬか?」


「まずオレの首を刎ねるって、イッチェはそう言ったはずだ」


「支部が明日までに要求に応じなかったときは、とも言ったはずだが、望むならそうしてやろう。どのみち全員殺すがな」


「戦えない——白軍ですらない一般人を殺して、それで本当にカイザさんの復讐になる?」


「メイラの目的は白の民の殲滅だ。もはやそうすることでしか戦争は止められん。お前たちが死ねば、白軍は民の不信を買う。メイラは始めからそうするつもりでいた。まずは白軍を滅ぼし、次に民を殺す、そのためにな」


「呪使いなら、何もここにいる人質を殺さなくても、裏町中の人間に簡単に危害を加えられるはずだ。そうしないってことは、きっとメイラも、どこかでまだ迷って——」


「抜かすな」


 廊下の奥から、メイラがゆっくりと歩んできた。


「必要以上に殺さないのは、民と白軍との同士討ちを誘うため。それ以上の意味などない」


 やれ、と冷たい声が続いた。イッチェともう一人が動き始める。子供の泣き声が大きくなった。何があっても、守らなくては。それ以外にランテは何も考えなかった。ただ身体が動くままに任せる。


 振り下ろされるイッチェの短剣の軌道を見切り、合わせるように身体を反転させて、縄を断たせる。次いで隣からの剣を躱し、自由になった腕で、敵のその伸び切った剣腕を強引に動かした。イッチェの第二撃をそれで防ぐ。生まれた一瞬の隙をついて、ランテは【閃光】を使った。呻いた敵から剣を奪い取る。意味を成さなかった呪封じが、手首から外れて落ちていった。


 一息ついて、ランテはイッチェに向き直った。彼は、もう片方のように【閃光】を直に目に受けることは避けたらしいが、剣を握り直したランテを見るとわずかに下がる。


「私の呪封じを外したのか」


 信じられない、と言いたげにメイラがこぼした。


「今の動きといい、お前はやはりここで消しておくべきか」


 イッチェがもう一人を連れてさらに下がる。直後、ランテの足元に闇を秘めた円が現れた。溢れ出た煙のような黒が、蛇のようにランテの身体を這い登っていく。何の呪か分からない、が、ここを動くわけにはいかなかった。急ごしらえの【加護】で自身を覆う。


「光呪とはいえ、そんな拙い中級呪で私の呪を防げると思うな」


 メイラの声を聞き届けたその瞬間、ランテは闇に飲み込まれた。破られた【加護】の最後のきらめきが、目の端で散っていく。途端に呼吸ができなくなって、それでこの呪が【黒煙】であることを悟った。


 あまりの苦しさに喉を押さえ、ランテは片膝をついた。闇が揺らいで、薄く笑みを刷いたメイラが見えた。


「殺せ」


 従い、イッチェが短剣を振るう。最初に狙われた首をランテはどうにか庇ったが、次は防げなかった。身体の真ん中に、短剣が深々と突き刺さる。


 身体から力が一斉に逃げていく。かくんと頭を落としたのと同時に、一杯に溢れた血が、唇の端から音を立てて滴った。


 短剣が抜き取られる。傷口から、血がどくどくと溢れ出した。痛いというより苦しかった。もがきたいのに身体は動かない。


「死んだか」


 イッチェに蹴倒されるが、ランテはまだ生きていた。他の人質の元へ向かおうとするイッチェに、精一杯の力で手を延べる。


「行か……せ……ない」


「邪魔だ」


 足首を握ったランテを、イッチェは強引に振りほどこうとしたが叶わなかった。激しく振り回されながらも、ランテは決して指を離さなかったのだ。


「————」


 扉で頭を打ちつける。意識がふっと遠のいたその瞬間、また例の声が囁いた。ランテは強く頭を振った。ここで、あの訳の分からない何かに意識を奪われるわけにはいかない。自分の血溜まりの中に手を突いて、ふらりと立ち上がる。


「お前、なぜ、その傷で」


「……行かせ、ない」


 短剣を持つイッチェの手首を、利き腕で掴み取った。ありったけの力で握り締める。イッチェが低く呻いて、短剣を取り落とした。


「どけ、イッチェ」


 身を翻したイッチェの後ろから、黒い波が押し寄せてくる。ランテは手をかざした。何かに操られているような、妙な感覚がした。曙色の光が迸って、メイラの闇がかき消されていく。


「何だ、その呪は。この光の色と感覚は——」


 ランテの傷口の血はいつしか止まっていた。力の入らない身体を叱咤して、どうにか剣を持ち上げる。


「兄ちゃん、もうやめろ。死んじまうぞ」


 もう今すぐにでも倒れてしまいそうなのに、ランテの身体は不思議とよく動いた。なおも立ち塞がるランテを見て、メイラが一歩足を引く。


「お前は何者だ? 女神の遣いなのか」


「女神の……遣い?」


「私は知っている。今のは女神の呪だ。それにお前のその腹、なぜ血が止まっている? お前、女神の加護を受けているのだろう」


 傷口に手を当てた。痛みはある。傷が塞がったわけではないらしい。しかし、やはり新たな血は流れてこない。この状態も、メイラが言うことも、ランテには何のことやらさっぱり理解できなかった。


「加護? 光呪の【加護】のことじゃなくて? それに女神って、一体どの女神のことを言って」


「私たちが女神と呼ぶのは、始まりの女神だけだ」


 言い切ってから、メイラはランテを見る目を細めた。


「やはり、女神はまだ」


 そのときだった。彼女の細い首へ、緩やかに反った銀色の刃が宛がわれる。メイラの瞳が、ランテからその剣へと動かされた。人影の存在に気づいて、ランテは目を見張る。


「油断したね。中々隙を見せないから、女にしてはよくやると見直していたのに」


 その台詞だけで、人影の正体が分かった。


「デリヤ」


 デリヤは無表情で、ランテの顔と腹の傷とをちらと見た。わざとらしい溜息を添えた呆れ声が続く。


「だから僕は言ったんだ。君のことだから、どうせ忘れてるんだろう。もう一度言ってあげるよ。君は馬鹿だ」


「どうしてここが?」


「あれだけ派手に呪を使えば、嫌でも分かる」


 会話の途中でメイラが無理に抜け出そうとしたが、デリヤは許さなかった。剣の腹を押し当てることで、メイラの身体を引き寄せる。


「僕はそこの馬鹿とは違う。次に妙な真似をしたら殺す。そっちの二人が動いてもだ」


 メイラと、それからイッチェらに向けて、デリヤは淡々と告げた。誰も動かなくなる。ランテ一人が焦っていた。


「待って、デリヤ」


「何を待つ必要があるんだい」


「まだ説得できるかもしれな——」


「夜半までという約束だった。君の時間はもう終わってる」


 正論に、ランテは口を噤んだ。言葉を探し直す。


「……デリヤはどうするつもりでいる?」


「君は黙って見てなよ」


 デリヤにはそう言われたが、ランテは頷けずにいた。最初から、自分のやろうとしていることが困難であるのは見当がついていた。しかし、いや、だからこそ、まだ諦めたくはなかったのだ。この程度で折れてしまっては、やろうとしなかったのと同じことだ。


 デリヤは捕らえたメイラを見下ろして、感情を感じさせない声で述べる。


「支部が動き始めた。呪使いが——君がいなければ、すぐに勝負はつくだろうね。もっとも君がいたところで、少し被害が増えるだけで君たちの負けになるのは変わりない。君たちは頃合を見て逃げるつもりだったんじゃないかい? 人質を殺して民衆の支部に対する不信を煽るのが目的、そんなところだと読んだけど」


 他人に命を握られていても、メイラは毛ほどもうろたえていなかった。静かに問う。


「何を望む?」


「黒軍を一人残らず連れて、ここを出て行くといい。もちろん、全員出て行くまで君にはこのままでいてもらうよ」


 予想外の寛容な要求に、ランテは目を丸くした。和解や協力とまではいかずとも、デリヤも比較的平和な解決を望んでいたことを知る。小さく名を呼んだが、彼はランテには見向きもしない。


「殺さないのか」


「君たちと違って、僕は野蛮なことは嫌いだからね」


 デリヤの返答を聞いて、メイラは初めてほんの少し動揺を見せた。彼女は白の民を残虐な悪魔だと言った。そうでない姿を見せつけられて、戸惑ったのかもしれない。


 今だと、そう思った。


「メイラさん」


「……その口で私の名を呼ぶなと言ったはず」


 返す言葉の棘は、目に見えて減っていた。いけるとランテは確信する。すっと、息を吸った。


「中央だけが全て悪いなんてことはないのかもしれない。でも、やっぱり一番悪いのは中央なんです。間違った方に皆を導いてきたから、こうなってしまった。だけど今は、中央を倒すために色んな場所で色んな人が動き始めてます。七百年かかったけど、ようやく自分たちの間違いに気づいて、正そうとしているんだ。だから、オレたちに時間をください。白の民に見切りをつけるのは、それからでも遅くないと思います」


 最後まで聞き届けたが、メイラはしばらく答えなかった。かすかに息を吐いて、これまでより少し小さな声で言う。


「同士討ちが始まるのか。やはり、白の民は愚か」


「でもこのまま何も知らない振りをして従い続けるよりはいいはずです」


 さらにいくばくかの沈黙を置いて、メイラはまず首にぴたりと添う剣を、次いでそれを握る人物を見た。


「隻腕か」


「悪いかい」


 短い問答の直後、メイラの身体が鋭く回転した。首と刀身を押さえた指とを浅く斬られることと引き換えに、彼女は自由になる。同時に蹴りが繰り出され、咄嗟に距離を取ろうとしたデリヤの空いた左側へ——身を守る腕はない——叩き込まれる。鈍い音が響いた。


「デリヤ!」


「……うるさい。いちいち叫ぶな。女の蹴り一つでどうにかなるほどひ弱じゃない」


 デリヤはすぐに体勢を立て直した。時を同じくして、身構えたイッチェらにメイラが首を振る。何かが足りない寂しい目が、緩やかにランテを見た。


「カイザも、そうやって私に平和を説いた。そして死んだ。お前も死んで、思い知るといい」


 指輪に触れようとして、その手が血に汚れているのに気づき、メイラは瞳に影を落とした。一度だけ首を振って、両腕を垂らす。血の雫が一粒、滴った。


「イッチェ、引く。準備しろ」


「メイラさん」


 知らないうちに顔を輝かせていたランテへ、メイラは、しかし、冷えた視線を送る。


「名を呼ぶな。私たちは内乱を呼ぶために動いていた。じき内乱が始まると分かれば、それを待つだけ」


 ランテは一つ頷いた。今は、言葉だけだ。信じろというのが無理な話だろう。動いて示さなければいけない。これからだ。


「時間をくれて、ありがとう。オレたちは必ず中央を倒して、戦争も止めます」


「それは女神の願いか?」


「女神は関係ない。オレの——オレたちの願いだし、願いのままで終わらせる気もない」


 戦争を止めようと願った人間が、たくさんいた。けれどもこれまでは一度も叶わなかった。白一色になってしまったワグレを思い出す。これ以上犠牲を出してはいけないと思う。だから、もう、ランテたちは願いで終わらせるわけにはいかないのだ。


「存分に殺し合えばいい。共倒れになったところを仕留める」


「それもさせない。もしまた何かしようとするなら、そのときも、オレが止めに行きます」


 刹那、薄い色の唇に嘲りが過ぎった。


「あの女と同じことを言う」


「ルノアのこと?」


 メイラは答えずに、ランテの脇を通り過ぎていった。イッチェともう一人を連れて、去っていく。姿が見えなくなるまで、何事も起きなかった。安心すると、一挙に身体の力が抜けた。ランテはその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。


「君は本当に大馬鹿だ。内乱の可能性を敵に教えたりしたら——」


 剣を収めると、デリヤはまたも呆れて言ったが、それを途中で遮って、ランテは笑った。


「黒軍は敵じゃないって、イベットさんも言ってたし。デリヤこそ、あの人たちが町を出るところまで確認しなくていいんだ?」


「下手に手を出せば、中央とぶつかる前に北が自滅しかねない。中央の強さは知っているはずだからね。相当馬鹿でもない限り、手は出さないに決まってる」


「そっか。じゃあ、とりあえずはこれで一安心——」


 その瞬間、急に、身体の重さが増した。腹の激痛が蘇ってランテの身体を貫く。怪我をしていたことを、すっかり忘れていた。視界が黒く濁って、騒がしいのに誰の声も聞こえなくなる。


 そのままランテは、再び気を失った。

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