【Ⅵ】-2 沈黙
着慣れない中央の制服は身に重く、落ち着かない。セトは血染めになった北の制服を見下ろして、またこれを着ることができるだろうかと考える。
シュアの尋問は覚悟していたものよりも甘く、北についての重大な機密は、今のところ洩らさずに済んでいた。今は中央の関心が北にはないらしい。支部長が上手く動いたのか、それとも、他に中央の気を引くものがあるのか——おそらくは両方だ。しかしいつか、北か人質二人かを選ばされるときが来るだろう。その前に、二人を救い出しておかなければならない。
ランテは無事に北に戻れただろうか。どう伝わっているかは分からないが、中央はランテをここへおびき寄せようとするだろう。焦って無謀な行動に走らなければよいが。どうにかして連絡を取りたかったが、この状況では不可能だ。彼と彼の周囲の人物を信じて、今は任せるしかなかった。
剣を帯びて——新しい物だったが、重さも、長さも、これまで使ってきた物と全く同じだった——セトは部屋を後にした。次に行く場所はシュアに指示されていた。総会で何度か訪れたことはあったが、本部の構造には詳しくない。この階だけでも先に頭に入れておこうと、進むべき方向とは逆へ足を踏み出したときだった。
「どこへ行く」
間近で声がして、反射的にセトは剣の柄を握って身を引いた。全く気配を感じさせずに、その男は、クレイドは、セトの背後に立っていた。
「鈍いな。リエタの毒が効いているらしい」
ここが敵地でなければ、そして人質がいなかったなら。できないと頭では分かってはいても、自制にはかなりの努力を要する。
「いつまでそうしているつもりだ。抜く度胸があるならさっさと抜け」
容易く呪封じを外し、剣まで用意したということは、こちらが行動に移したところで少しも問題にはならない、そう考えているということだ。その通りだから悔しかった。彼我の実力差は痛いほどに知っている。返り討ちに遭って、罰を受けるのが自分だけならそれでもよいが。セトは構えを解いて、柄から指を離した。やはり、できない。己の無力をこれほどまでに呪わしいと思ったことはなかった。
「証持ちの指揮の経験は」
「……ありません」
「だろうな」
クレイドの声には一切の抑揚がない。
「お前程度に戦力は期待しない。前線で証持ちの指揮を執り、負傷者を治療しろ」
答えずにいると、クレイドはわずかに目を細めた。冷ややかな緑の双眸では、蔑みと嘲りと、そして楽しむような光が混じり合っている。間近で見て思う。同じ色だった。自分のそれが母親とは違うのは知っていたから、そうだろうとは思っていたが、改めて見せつけられるとすさまじい嫌悪感が身体中を駆け巡った。自分の両目を切り裂いてしまいたい衝動に駆られる。
「上官の指示が聞こえないのか。返事はどうした」
湧き上がる感情を抑え込むために、歯噛みする。一度剣を見下ろしてから、セトは敵の目を再び睨めつけた。
「……分かりました」
「補佐の兵を一人つけてやろう。ついて来い」
クレイドは背中を見せ、歩き始める。ユウラとテイトの居場所だけでも突き止めておきたかったが、今は従うしかなかった。
一つ階を上がり、長い廊下を進んでいく。奇妙なくらいに静かで、どういうわけか、一度も他の兵とはすれ違わなかった。
「ここだ」
突き当たりまで進んだところで、クレイドは足を止めた。扉の奥には人の気配がひとつ。シュアの副官が目付け役であるように、この扉の奥にいる人物も、おそらくはそういう役目を命じられていることだろう。
「先に入れ」
薄い嘲笑を浮かべたクレイドの脇を通り過ぎて、セトはノブを握った。不自然なほどに冷えていて、胸が騒ぐ。扉を少し開くと灯が漏れ出てきた。中を確認して、息を呑む。安堵が一気に何もかもを飲み込んだ。
「ユウラ」
思わず呼んで、扉を開け放った。明かりの真下に立ったユウラは、光の加減か、普段よりもずっと白く見える。
「怪我は——」
輪郭をなぞるように流れた血の跡を発見して、セトは彼女に寄ろうとしたが、二歩歩いたところで異変に気づいた。
「……ユウラ?」
虚のような瞳が、セトを映していた。射竦められたように動けなくなる。何も残さないで、綺麗に空っぽになってしまった瞳だった。見るに耐えないのに、縛られたように目を放せない。安堵が不安に急変して、心臓が大きく鳴った。
脳裏を掠めた予感を全力で否定する。それでも胸騒ぎは止まらない。
「ユウラ」
振り払うように、再三、セトはユウラを呼んだ。返事は待てども待てども返って来ない。恐ろしい沈黙に、己の心音ばかりが耳に障る。
「副官を返してやったんだ。喜んだらどうだ」
クレイドの声は笑み混じりだった。
「ユウラに……何をした?」
声が、思うように出てこない。掠れて、今にも消えそうだ。
「左肩を見せてやれ」
クレイドの指示に従って、ユウラが両手を静かに襟元まで持ち上げた。ネクタイを外し、ボタンを上から順に外していく。一つ、二つ、三つ。そうして左手を下げて、残した右手で片襟を掴み、ぐいと引っ張った。布がするりと滑って、首から肩にかけて白い肌が露になる。向けられた肩に刻まれていたのは——
瞬間、世界が反転した。
「どうした。洗礼の証を見るのは初めてか?」
身体の内側で、あらゆるものが急速に壊れていく。止まらない、止まらない。つと、クレイドに目を移す。その姿を視界に入れた瞬間、全てが弾け飛んだ。気づいたときには、渾身の力で剣を振り切っていた。
刃を沿って流れた血が、柄で止まって溜まっていく。クレイドは右手一本で剣を止めていた。
「どうしてオレじゃない? 何で……何でユウラを」
「お前に制裁を与えた結果だ。二度と中央に盾突くことがないように、こうするのが一番効果的だと考えた。それに、お前を洗礼してどうなる? 癒しの呪が使えなければ、お前には何の価値もない」
「オレを従わせるために? それだけのために——」
「お前の母親と同じ目に遭わせた方がよかったか?」
「……黙れ」
「最後までお前に会いたがっていた。泣いて会わせろと繰り返していたぞ。哀れだな」
「黙れ!」
激情に駆られるがままに、クレイドの腕を払いのけ、再度強引に切りつける。肩が抜けるかと思うほどの力で振り上げたが、今度は空気だけを切った。振り切った剣腕を、後ろから掴まれる。
「残りの一人も同じ目に遭わせたいか? 己の立場を
もう何も耳を通らない。制御を外れた感情に突き動かされる。もう一度振り払おうとしたが、動かない。辛うじて震えるだけだ。無力が、非力が憎い。どうしようもなく憎い。恨めしい、情けない、呪わしい——それでも、動かない。
「あんただけは……あんただけは許さない」
「それで、どうするつもりだ?」
「どんな手段を使っても、必ずオレの手で」
「できるものならやってみろ」
利き腕が容赦なくねじ上げられる。嫌な音が鳴って、激痛が全身を疾走した。剣がセトの指を離れてけたたたましい音を立てる。次は膝が腹に食い込んだ。鋭い痛みと同時に、血がせり上がった。身体が空気を求めるのに、息ができない。視界が黒く霞んで、足が折れる。それでもセトは剣に手を延ばそうとしたが、腕が動かない。肩が外れたらしい。その肩を、上から踏みつけられる。
「あ……ぐっ」
絶叫しそうになるのを、寸でで堪える。遠ざかりかけた意識が途端に引き戻された。痛みが突き上がって頭蓋が割れるようだ。耐えるために握りこんだ左の拳が、ひどく震えた。
「その女で証持ちの扱い方を覚えろ。洗礼の証に触れれば、命令を聞くようになる」
蹴り上げられて、身体が軽々と浮いた。背中から壁に激突する。
「数日ぶりの再会だ。二人にしてやろう。気が済んだらその女を連れて上がって来い。二階だ」
「待て……よ」
黒濁した視界の中、クレイドの背中が扉の向こうに消えていく。あの男が、憎くて憎くて、憎くて憎くて憎くてたまらない。追いたいのに、足が動かなかった。ああ、本当に、なんと無力なのか。握ったきり行き場を失った拳を叩きつける。何も変わらなかった。
静かになった部屋に、ユウラだけが立っている。全身に光を浴びて、ただ立ち尽くしている。
「ユウラ」
近づきたいのに、足が立たない。ユウラはまだこちらへ左肩を見せていた。クレイドの命に従ったままなのだ。洗礼の証が、眩いほどに輝いている。
「ユウラ」
一切の感情がない顔は、まるで精巧に作られた面のようだ。小刻みな震えが全身を駆け抜けた。
「ユウラ!」
信じるものかと繰り返し繰り返し唱えるのに、本当はどこかで分かってしまっている。ユウラは、もう。
左手で壁を支えにしながら、セトはふらりと立ち上がった。よろめきながら、歩きたがらない足を無理に動かして、一歩ずつ、彼女に歩み寄る。
「なあ、ユウラ……答えろよ……」
いつも必ず返ってくるはずの返事がない。いくら待ってもない。何も映さない目で、ユウラはセトをずっと見つめ続けている。
「頼むから」
懇願も、ついに叶わなかった。目の前に立ってもユウラは何の反応も示さない。血を流していた額に、癒しの光を灯した指でそっと触れる。目は死んでいるのに、身体も、血も、ちゃんと温かい。
——馬鹿ね、また怪我したの? ほんとにあんたは懲りないわよね。
ふいに、頭の中に、いつも通りのユウラの声が響いた。随分聞き慣れて、もうすっかり耳に馴染んでしまった声だ。
——自分で治せるからって、無茶していいってわけじゃないわ。死んでから気づいたって遅いのよ。ちょっと、聞いてんの?
槍を持ったまま腕を組み、少ししかめた顔でそう言う姿は、あまりに鮮やかに目に浮かぶ。だからこそ残酷だった。今ここに立つユウラは呆れることもなく、叱ることもない。
救い出すために、ここにいるはずだった。ユウラは死んだわけではない。それは分かっている。しかし、こうなってしまっては、もう——
剣を見た。今すぐあれを握って、クレイドを追いかけ、その背中に深々と突き立ててやりたいと思う。未だかつて感じたことのないほどの憎悪と共に、どうして彼女を連れてきたのかとの後悔が、この状況をどうにもできない憤怒が、セトの内側でせめぎ合う。
「……ユウラ」
名を呼ぶこと以外、何も出来なかった。
しかし、何度呼んでも、ユウラが答えることはなかった。残酷な沈黙が、いつまでもいつまでも続くばかりで。
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