【Ⅵ】-1 歪み
牢の中は暗く冷たく、重い静けさだけが蔓延していた。
どこで間違ったのだろうかと、そればかりが延々と繰り返されるだけで、何も、本当に、何一つとして考えられなかった。時間だけが無為に流れていく。しかしそれも、恐ろしいほどに鈍かった。
あれからどれだけ経ったのだろうか。死んだように動かなかった空気が、そのとき、唐突に揺らいだ。人の気配だ。すぐに足音も聞こえてきた。震える灯が近づいてくる。シュアだった。
「何の用ですか? 知っていることは全て話しました」
「今回は話を聞きに来たわけではありません」
尋問を終えた後、部屋を先に出されたのはセトの方だった。倒れたままだったテイトも、あの後、牢に運ばれたのだろうか。彼が意識を取り戻す前に去れたことで、ほんの少し安堵した自分がいた。合わせる顔がなかった。
「……テイトは目覚めましたか」
「少し前に。あなたに謝りたいと」
セトは視線を落とした。テイトの心中を思うとやりきれなかった。
どうして話してしまったのか、いや、後悔すべきはそこではない。始めから間違っていた。やはり、一人で行くべきだったのだ。連れて来るべきでは、巻き込むべきではなかったのだ。
覚悟を決めたつもりで、一番覚悟を決めきれていなかったのは自分だった、とセトは思う。死ぬ覚悟はできていても、死なせる覚悟がちっともできていなかった。心のどこかに驕りがあったのだろう。守り切れると。あるいは、そう信じていなければ進めなかったのかもしれない。
「複雑な心境ですね。一番強いのは、自責……でしょうか。なぜですか?」
「お話しした通り、今回のことは全てオレが指示してやらせたことです。あいつらは何も知らずに従っていた。処罰を受けるのはオレ一人で十分です。二人を解放してください」
「それができるはずがないのは、お分かりでしょう」
分かってはいても、簡単に諦めることはできなかった。このまま二人を大人しく殺させる訳にはいかない。しかし、今の自分に何ができるだろう。ここにいては、何もできない。焦りだけが何の意味もなく募っていく。
「今からあなたを、牢から出します」
ふいに、シュアが言った。
「あなたに準司令官の地位を与えます。これからは中央の人間として仕えてください」
頭の中を、シュアの言葉の断片が何度も何度も巡る。全く訳が分からなかった。
「どういうつもりですか」
「私はただクレイド様のご命令に従ったまで。この先の部屋に、新しい制服と腕章、それから剣を用意してあります。身を清めてから袖を通してください」
セトはシュアを見据えた。真意は読めない。
「拒否は……無意味なんでしょうね」
「お分かりでしょう」
「それほど癒し手が貴重ですか?」
「あなたは聖女の血を引き、そしてお若い。御し易くもある。それゆえでしょう」
中央は一体何を企んでいるのか。全く見当がつかなかった。しかし、いつまでもここでこうしていても、ユウラとテイトを救い出すことはできない。何のつもりかは知らないが、牢から出られるのならば、その方が事態の好転が見込めるに違いなかった。
「オレのことを御し易いと考えているのなら、それは大きな間違いです……が、その命令には従います。ここを出なくては、二人を自由にはしてやれないですから」
壁に身体を預けながら、セトはゆっくりと立ち上がった。身体の内側から痛みが滲んでくる。耐えられないほどの痛みではなかったが、気にしないでいられる痛みでもなかった。
「呪力は全てを映し出します。そんな、立つことも難しいような身体で、何をしようと言うのです」
「これくらいのことには慣れています」
口ではそう言ったが、今のセトの身体は、確かにこれまで経験したことがないほど不自由だった。身体中のすべての関節に添え木でもされているようで、また全身に無数の針を突き立てられているようでもあった。治療によってほんの少し延命されただけで、もしかしたら、この身体は今すぐにでも動かなくなるかもしれない。だが、どうあっても今は死ねなかった。二人を救い出すまでは、無理にでも生き長らえなければならない。
「先ほどの動揺が嘘のようですね。まるで人が変わったよう。随分と強気ではないですか。状況は分かっていらっしゃる? それとも正気を失ってしまったのかしら」
「何とでもご自由に」
答えて、セトは再びシュアを見た。ここから出られるならば、できることはいくらでもある。何もできなくなる前に、打てる手は全て打っておくべきだろう。
「今は副官は連れていないんですね」
「外で待機させています」
「なぜです?」
「ここは狭いですから」
シュアは顔色一つ変えずに応じたが、セトは怯まなかった。重ねて言う。
「あの副官、目付け役でしょう」
「仰る意味がよく分かりませんが」
「人の感情を汲み取るほどの呪力の読み手は、利用価値が高い上に稀少です。そんな人間を野放しにしておくはずがない。人質を取り、傍には目付け役を置く。それが中央の常套手段らしいですね。よりにもよって、あなたが例外であるわけがない」
確証はなかったが、それなりの根拠はあった。挑むように言ったセトの前で、一瞬だけ、シュアは迷った。
「……キーダはよく尽くしてくれています」
「否定しないんですね」
シュアはしばらく黙ってセトを見つめ、それから、言葉を探すように視線を
「やけに饒舌ですね。人質の命が惜しくはないんですか?」
「惜しいからこそです。このまま平伏しては、いつまで経っても二人は救えない。あなたこそ、人質を救いたいとは思わないんですか?」
「それは」
「尋問の際、あなたは三度嘘を見逃しました。オレは感情を読んだりはできませんが、あなたがあのとき、オレに同情していたことは分かります。それはあなたも同じような境遇にあるから。違いますか?」
シュアの瞳に戸惑いが差した。セトはさらに続ける。
「今、副官を外に待機させているのも、本当はこういう話をする機会を欲したからじゃないですか」
沈黙の
「……あなたの感情は、とても綺麗で、羨ましいです」
震えた声がこぼれた。
「いつでも、一点の曇りもなく、人のことだけ——部下のためだけを思っている。私は違います。あなたは言いましたね。中央の人間は自分の保身しか頭にないと。それは正しいのかもしれません」
「本当に自分の保身しか頭にない人間は、オレの話に耳を傾けたりはしないはずです」
「……ふふっ」
呪力を精密に読み取ることはできずとも、心を腐らせた人間と、そうでない人間を見分ける目には自信があった。やはり誤ってはいなかったと確信する。悲しげに笑ったシュアと目を合わせて、セトは言った。
「手を組みませんか」
「何を企んでいらっしゃるの?」
「中央を内部から瓦解させることを。あなたと同じような思いを抱えている人間が、ここには溢れているはずです」
「恐ろしいことを仰るのね」
もう一度、シュアは悲しそうに笑った。
「あなたが私をそのように——手を組むに値する人間だと判断してくださったこと、嬉しく思います。あれだけの自責と後悔を胸に秘めていながら、再び立ち上がろうとする心の強さと、このような状況でそんな話を持ちかける勇敢さも認めましょう」
けれど、あなたが思うほど、中央は甘くはないんです。彼女は寂しい目をしてそう言った。
「ここは、あなたのような方が生きていくには、歪みすぎている場所です。自分で心を曲げるか、それとも誰かに折られるかのどちらかになるでしょう。事実私自身もそうでしたし、そうなった人を何人も見てきました。この牢よりもさらに地下に、隠された埋葬地があるのをご存知ですか? 自ら首を括る人間も、ここには大勢いるんです。——半ば狂わなければ、生きてなんていけません」
シュアの話は続く。
「上は、あなたに利用価値を見出しました。そういう人間は、どんな手を使っても必ず従わされます。その方法を知りすぎるほど知っているんです。そして、あなたのような方は、やはり最も御し易い」
鍵が取り出さた。悲鳴のような耳障りな音を立てて、牢の戸が開かれる。
「全て知って、それでもあなたがまだ立ち向かおうと言うのなら、そのときは私も心を決めましょう」
闇の底を見つめるような瞳に、なぜか、とても、嫌な予感がした。それは、胸の内でみるみる膨れ上がると、やがて流れ出る。そうしてただでさえ思うようには動かない身体に、ひどく重苦しく纏わりついて、牢を出ようとする歩みをたいそう鈍らせた。
自分を支えている最後の何かが、不安定に軋んだ気がした。
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