【Ⅴ】-1 馬鹿

 先に城壁を自力で上ったランテが、片端を木の幹にくくりつけた縄を城壁の内側へ下ろす。ルノアはそれを手に取って、一度、高くそびえる城壁を見上げた。ほんの少しの躊躇いが瞳にちらつく。


「上れる?」


「ええ、大丈夫……」


 おずおずと縄に手を伸ばす。両手でぎゅっと握り締めると、ルノアは城壁に足をかけたが、侍女から借りたらしい靴は踵が高くなっていて、かなり滑るようだ。数回上ろうとしたが、全て失敗に終わる。


「オレが引き上げようか?」


「自分で上りたいの」


 ランテを仰いでルノアはふるふると首を振った。もう一度試すが、やはりうまく上れない。彼女は足元を見下ろし、思案して、そしておもむろに靴を脱ぎ始めた。


「ルノア?」


 答えず、脱いだ靴を両手で持ち上げると、ルノアは笑みを湛えた顔を上げた。


「動かないでね」


 城壁の上にいたランテに指示すると、彼女は靴をふわりと投げ上げる。靴は二つ一緒に綺麗な放物線を描いて城壁を越えた。


「たぶん、これで上れるわ」


 裸足になったルノアはにっこりと微笑み、縄を伝い今度こそ壁へ足をかける。不安定に左右に揺れたり足を滑らせかけたりと、たいそう拙く危なっかしい様子ではあったが、ルノアは少しずつながら一心に壁を登ってくる。ランテは手を貸したいのを堪えて、そんな彼女をただ見守っていた。


「どうして町へ?」


「陛下は私を城から出してくださらないの。一度でいいから、城の外を見てみたくて」


 無事城壁を乗り越え、いよいよ城下町へ向けて丘を下りながら、ランテとルノアは語らっていた。ルノアは足取り軽やかに、長い髪とワンピースの裾を翻しながら歩く。いかにも楽しげな様子だ。


「それから、やっぱりランテのご両親にお会いしてみたかったの。あなたの話を聞いていると、とても優しい方たちなんだろうなと思って」


「ルノアの両親は?」


 ランテの質問に、ルノアは影の落ちた微笑みで応じた。そう言えば毎晩のように——雨の日以外は、だが——話しているのに、彼女から両親の話を聞くことはない。それどころか、考えてみれば、ルノアはたいていランテの話を聞いているだけで、質問をしたりすれば答えはするが、進んで自分の話をしようとはしなかった。


「ごめん」


「どうして謝るの?」


「えーと……とにかく、ごめん」


「おかしな人」


 今度は明るく笑う。事情は分からないが、城での生活が楽しくないのならば、せめて自分といる間だけでも楽しんでもらいたいと、ランテは思った。


「私ね」


 風に遊んだ髪を撫ぜるようにして耳にかけて、ルノアがそっと切り出した。


「身体が強くなかったの。ランテと会うまで、元気に過ごせていた日の方が少なかったくらい。きっと、元気でも、そうでなくても、あまり変わらない生活をしていたからね」


 線が細く肌も白いルノアは、いつ見てもどこか儚げで、確かにあまり丈夫そうには見えない。肌寒い日はよく咳をしたりして、ランテが上着を貸すことも多かった。


「今は……身体を悪くしたら、ランテに会えなくなるわ。不思議よね。そう思うと、全然調子を崩さなくなったの」


 隣を歩いていたルノアが、足を速めてランテを追い抜いて、くるりと振り返る。月の光を背に受けつつ、彼女は言葉を一つ一つ刻みつけるように言った。


「私と会ってくれて、ありがとう」


 澄んだ紫の瞳が、すうっと細められて、ランテを見つめた。その瞳も、少しだけ色づいた頬も、緩められた唇も、全てがあまりに綺麗で、胸の奥がひとりでに、とくりと高鳴った。


 ルノアは、昔は、こんな風に自然に笑っていた。いつから彼女は、悲しさや寂しさを隠すために笑うようになったのだろう。




 デリヤはランテよりもずっと、北についての詳しい情報を持っていた。


「黒軍は西門を破って侵入し、今は裏町一帯を占拠してるらしい。数は多くないが、強力な呪使いがいること、それから裏町の住民が軒並み人質に取られてることで、支部の連中は手出しできないようだね。馬鹿ばかりだ」


「デリヤには、何か策が?」


 口を挟んだランテを完全に無視して続ける。


「黒軍は支部を明け渡すことを要求してる。支部側はもちろん、一切受け入れるつもりはない。ただ、内部でも意見が割れてるらしいね。人命最優先の慎重派と、迅速解決の強行突破派。どちらにせよ、黒軍と市街戦になるのは時間の問題だと思うけど。そしたらある程度の被害は出るはずだ。高度の呪に対応できる呪使いを、今は欠いてるからね。……だから編成が偏ってるって僕は昔から」


 ちらりとランテを見やると、デリヤは気まずそうに途中で言葉を切った。それで今度はランテから話し出す。


「デリヤは王国説のこと、どこまで知ってる?」


「……王国記は読んだ。君たちと同じだけの知識は持ってるはずだ」


「じゃあ、もしかしてあのベラーラとかいう人と会ったりした?」


 無言の頷きがひとつ返ってくる。


「それじゃあ、今回の騒動について詳しいのも」


「悪いかい?」


「別にそんな風には思ってないけど、高かっただろうなと思って」


 デリヤは答えないで、視線をどこか遠くへ遊ばせた。何かあったのか、少しだけ寂しい目をしていた。


「このまま黒軍と戦っていいのかな」


 ランテはぽつりと呟いた。町を守らねばと思いながらも、ずっと心に引っ掛かっていた疑問だった。


「君は何のためにここに来たんだい?」


「町を守るために」


「だったら他のことまでやろうとしないことだね」


 言ってから、デリヤは腕をすっと伸ばした。見えるものの中で最も広い道が指差される。


「真っすぐ行けば支部が見える」


「え? デリヤは来ないの?」


「支部には用がない。僕は僕の好きなようにする。君も君の好きなようにやりなよ」


 背中を向けたデリヤの腕を、ランテはほとんど反射的に掴み取った。すぐに強く振りほどかれる。


「触るな」


「オレもデリヤも目的は同じなんだし、だったら別々に行くより一緒の方がいいと思う」


「中央のことは手を貸すと言った。だけど今回の件は別だ。そもそも、君と僕の目的は違うじゃないか。君は支部に行くんだろう?」


「オレも支部に行くのはやめようと思って」


 デリヤは眉を上げた。


「支部に伝えることがある、って言っていたように聞こえたのは、僕の聞き違いかい」


「正確には、後で行く。支部が黒軍と戦うつもりなら、オレとは目的が違うんだ」


 言葉にしてから、ランテは自分が本当にやりたかったことに気がついた。見つけた答えを確かめるように、ぎゅっと両の拳を握る。


「戦わないならどうするつもりだい?」


「協力してもらいたいんだ、黒軍に」


 ランテははっきりと言い切ったが、デリヤはしばらくの間、今しがたの言葉が意味するところを理解しかねていたようだ。それを把握したらしい後も、何を言っているのかとでも言いたげな様子で、ただの一言こう言った。


「は?」


「中央打倒のために、一緒に戦えないかと思って」


 この上なく呆れた溜息が返される。


「君は本当に馬鹿なんだね」


「デリヤも同じ考えなのかと思ったんだけど、違う?」


 たった一人で正面衝突を選ぼうとするほど無謀ではないだろうし、何よりデリヤは王国説を、そしてそれが真実であることも知っている。同じ結論に辿り着いたのではないかと、ランテは期待をかけて聞いてみたが、デリヤは軽い嘲笑で応じた。


「何の根拠があってそんな考えに至るんだい。悪いけど、僕は君みたいな——いや、君たちみたいなお人好しとは違う。もっと現実的な手段を使うつもりだ」


「現実的な、って?」


「黒軍を取りまとめている女をさらう」


 ランテは目を大きく瞠った。


「攫うって、何でそんなことを」


「その女がどうも厄介な呪使いらしいからね。そいつさえ押さえてしまえば、後はそう難しい話じゃなくなるだろう」


 なるほど、頭を押さえてしまえば、その後戦うにしても、取引を求めるにしても、有利に事を運べるだろう。けれどもそれでは、平和的解決とは到底言えない。協力を要請するのもほとんど不可能になるはずだ。


 今こそ互いに憎しみあって刃を交えているとはいえ、白の民と黒の民は、元々は一つの国の民だったのだ。時間は掛かるかもしれない。だが、必ず分かり合えるはずだと思う。無意味に争いを選び、殺しあいたくはなかった。しかし、失敗して町の人間たちを危険に晒すこともできない。


 少しの間考えて、結局、ランテは首を縦に振った。


「……分かった。じゃあ、デリヤはちょっと待ってて」


「君に指図されるいわれはない」


「でも、オレが失敗してからだって、遅くはない」


「君はまだ黒軍に協力を請うつもりなのか? そんな馬鹿なことを本気で——」


「やってみないと分からない」


 最初から諦めていては、何事も上手くいくはずがない。強く言い切ったランテを、デリヤは横目で見る。また溜息が続いた。


「好きにしなよ。夜半まで待つ。それ以上かかるようなら僕は動き出す。それまでに失敗しても同じだ。いいかい?」


 デリヤはやはり呆れていたが、半日の時間をランテにくれた。ありがたい。ランテは急いで頷いた。


「分かった。ありがとう」


「……ほんとに、馬鹿ばかりだ」


 彼はどうにか聞き取れるくらいの小声で、囁くようにこぼした。

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