【Ⅳ】   動揺

 名を呼ぶ声を聞いた気がした。


 覚束ない意識を気力で引き上げる。ゆっくり瞼を開くと、霞がかった視界に真っ白な天井が映った。ここは、どこだろうか。脳の働きは焦れるほどに遅く、答えが見つからない。記憶をゆっくり紐解き、ようやく辿り着いて、跳ね起きた。否、跳ね起きようとした。


 身体が動かない。


 死ぬはずだったのだ、当然のことと言えばそうに違いなかった。むしろ疑問なのは、なぜ生きているのかということであって、少しも想定していなかった現実はセトの思考を容赦なく狂わせた。


 あれこれ入り乱れて絡まり切ってしまった頭の中を、呼吸を意識することでどうにか落ち着ける。とにかく、今最も優先すべきは状況確認だ。もう一度身体を動かそうとする。腕を突いて——呪封じがつけられている——セトはおもむろに上半身を起こした。なるべく身体に負担をかけないように気を遣ったつもりだったが、強い痛みが疾走して全身が軋む。痛みの出所を探って、身体の内側、それも複数らしいことを悟った。死を呼ぶ猛毒は、決して浅くはない爪跡を至るところに残していた。


 呪封じに呪力を乱されてはいても、治療の痕跡を辿ることくらいは造作ない。誰による治療かを知ってもセトは驚かなかった。あれを治せる人物がいるとしたら、ただ一人をおいて他には存在しない。胸の奥を苛んだのは、毒による痛みではなかっただろう。


「罪悪の念、ですね。今になって背教の愚を悔いているのですか?」


 唐突に響いた声に、セトは身体を固くする。人の気配に気づけなかった。扉の傍に目をやって、そこに女性と男性が一人ずつ佇んでいるのを知る。話しかけてきたのは女性のほうで、彼女が上級司令官であるのは一目で分かった。


「警戒。お若いのに、とても落ち着いているんですね。もっとも目覚めて間もない頃は、ひどく混乱なさっていたようですけど」


 心中を、手に取るように正確に読み取られている。セトは焦る自分を鎮めんとしたが、それが無駄な努力であることはすぐに知らされた。


「駄目ですよ。いくら平静を装おうとしても、呪力の揺らぎは正直です。私の呪封じをつけている限り、あなたの心の動きは余すところなく伝わってきます。どんな小さな揺らぎも逃しません」


 思わずセトは両手首に目を落とした。銀の輪が嵌められている。そこから感じる呪力は確かに、今目の前に立つ上級司令官が放つものと同じだった。


「焦っていますね。無理もありません。感情を読み取られては、秘め事はできませんもの。もちろん、全部話していただきますよ」


「オレは何も話しません。どんな手を使われても」


 声を出すだけでもあちこち痛んだ。この身体はどこまで使えるだろうかと考える。


「そうですか」


「話を聞き出すためだけに、極刑確定の重罪人を治療までして生かしたんですか?」


「そのようですね」


「……随分お暇なことで」


 本当にそれだけだろうか。自問するが、悩むまでもなく答えは出た。否だ。調べればいずれ分かることのために、しかも喋るかどうかも定かではないのに、死にかけていた人間をわざわざ蘇生させるのでは割に合わない。


「疑念、ですか。思慮深い方なのですね。白軍北支部副長セト殿、でしたか? 母君がこちらにおいでで幸いでしたね」


「……ここは中央本部ですか」


「お察しの通りです。ああ、申し遅れました、私は上級司令官をしております、シュアと申します。ここに控えておりますのは副官のキーダ。準司令官です」


 シュアと名乗った上級司令官は、胸に手を当てると優雅に膝を折った。その仕草で貴族であるのは分かったが、それにしては珍しく、呪を扱う能力にはかなり恵まれているらしかった。彼女の呪封じはただ感情を探るだけに留まらず、完全にセトの呪力を封じ込めている。少なくとも呪の実力ではシュアの方が数段上手だろう。


「あなたの評判は、かねてから耳にしていました。ぜひお会いしたいと思っていたのですが、このような形で実現されるとは残念です。白女神もさぞお悲しみのことでしょう」


「シュア様、そろそろ我々も尋問を始めませんと」


 キーダが遠慮しがちに言った、その中のたった一文字が強くセトの耳を突いた。我々、も。ということは、他にも尋問を受けている者がいるのだろうか。あの後三人のうちの誰かが中央の手に落ちた? 脳裏をかすめた恐ろしい予感を振り切る。そんなことあるはずがないと、自分に言い聞かせた。


「そうですね。では……あら、強い不安感。どうしました?」


 シュアがセトのほうを向いて、小首を傾げた。耳の下で切り揃えられた髪が、彼女の動きに合わせて波打つように揺れる。


「先ほど話さないと仰ったとき、あなたの精神に迷いはありませんでした。つい感心してしまったほどです。今さら気持ちが揺れたということもないでしょう。あなたは今、何に不安を感じたのですか?」


 もう一度、セトは呪封じを見下ろした。厄介なものをつけられてしまったと思う。無遠慮に心中を覗かれる不快感もあったが、それよりもごまかしが効かないことへの危機感の方が大分強かった。呪力の制御を試みるが、やはり呪封じを外さねば話にならない。乱された呪力は、些細な心の動きにも過敏なほどに反応する。


 落ち着けと、自身に語りかける。読まれるのは感情だけだ。思考までは読まれない。だから、なるべく心を波立たせないようにしなくては。


「焦燥に変わりましたね。まあいいです。キーダ」


「はい」


 頷いて、キーダは提げていた剣を抜きながら進み出た。


「あなたはケルムで、中級司令官相手に面白い尋問をなさったようですね。同じ尋問を受けてみませんか?」


 シュアの言葉を受けて、刃が首に添えられる。無反応でいるとそれがわずかに動かされて、滲んだ血が淵をなぞって流れた。


「ワグレで聞いた話、それから激戦地で起こったこと、逃げた者の行方、他の協力者の名。どれからでも構いません。喋ってくだされば、手荒な真似はしませんよ」


「……呪力の揺らぎで感情を読み取るなら、オレに話す気がないことは、言うまでもなく伝わっているはずです」


「そのようですね。なぜ話していただけないのです?」


「こんなやり方で口を割るのは、自分の保身しか頭にない中央の人間くらいです」


 答えながら、ちらりと、セトは剣を握る手を見た。そう力は入っていないらしい。剣を奪い取って、自決するのはきっと容易い。捕虜になるくらいなら、というのは始めから決めていた覚悟だが、どうして生かされているのか、それがまだ分からない。自分の死が敵にとって痛手になるのならそれを選ぶことに迷いはないが、やはり、セトは先の予感がまだ気になっていた。他に虜となった者がいるのだとしたら、ここで自分だけ易々と死ぬわけにはいかない。


「どんな責め苦を受けようと、話す気はないと?」


「試してみますか?」


「想像以上に動じませんね。やはりあなたから話を伺うには、心苦しいですが、この手を使うしかないようです」


 剣が引かれていくが、キーダはあえて刃を立ててセトの肩口を切った。血糊の目立つ制服に、また新しい染みが広がっていく。


「シュア様、その前に少し痛めつけてみたらどうです? ご覧になることでお心を痛めなさるのなら、私が」


「いいえ、無駄なことはよしましょう。あなたのその言葉にも、この方は少しも動揺していません。あなたのやり方ではきっと、死ぬまで話してくださらない」


 シュアは髪を耳にかけると、つと目を流して扉を見遣った。


「キーダ、彼を」


「承知しました」


 心臓が騒ぎ始める。靴音を鳴らして歩んだキーダが、立ち止まり、扉を開いていく。そのときにはもう予想がついていた。それでも、目を背けたくなった。


「……テイト」


 半ば投げ込まれるようにして、彼は部屋へ現れた。セトが名前を呼ぶと、血の気の失せた面が上げられる。


「ごめん、セト……ごめん」


 引きずって運ばれたのか、服はひどく汚れ裾が擦り切れていたが、血の跡がどこにも見当たらないのはまだしも幸いだった。しかし。


 もし、自分が逆の立場だったら、この先何をするか。何のためにテイトをここに連れてきたのかを考えると、それは——


「激しい動揺。やはり部下を使うのは効果的なようですね。クレイド様が仰った通り」


 この状況を切り抜けるには、どうしたらいい? 扉は一つ、すぐ外には人の気配が十弱。それ以前に部屋の中の二人は、おそらくかなりの手練で、うち一人は呪使い。武器はない、腕には呪封じと枷、さらには満足に身体を動かせない。これでは部屋を抜け出すことすら。失敗すれば自分だけではなくテイトにも危険が及ぶ。どうすれば。きっと何か。何か——


「ごめん……」


「……謝るなよ。大丈夫か?」


「ユウラも……ユウラも捕まってるんだ。ごめん」


 息を呑んでいた。忙しなかった思考が途端、固まる。


「キーダ。始めましょうか」


 シュアの冷たい声が響き渡った。キーダがテイトに向かって歩き出す。剣を握ったままだ。


「セト、喋っちゃ駄目だよ。僕がどんな目に遭っても絶対に」


 強い覚悟が染み渡った双眸が、射抜くようにセトを見た。全て悟った上での覚悟だった。


「テイ——」


 その瞬間、迸った赤いものが、音を立てながら散り落ちた。


 テイトの身体が傾いで、倒れる。


「テイト!」


 立ち上がりかけたセトに、キーダの血塗れた剣が突きつけられた。テイトは首を切られていて、床には既に血溜まりが広がっている。


 もうとても、冷静になどなれなかった。


「さあ、セト副長、部下の命が惜しければ話してください。そうすれば一時的にあなたの呪封じを外します」


「セト……駄目だよ」


 か細い声が耳に届いた。苦痛を堪えた白い顔が、セトの方へ向けられる。


「話したり……したら、僕は…………セトを、一生……許さない」


 人の身体から命が抜ける、その瞬間を、何度も目にしてきた。力及ばず見取った者が、何人もいるから。


 音はない。苦悶に強ばる身体が急に弛緩して、動かなくなる。それだけだ。それだけで、たった今まで生きてそこにいたはずの人間が、ただの肉塊に成り果てる。願いも祈りも届かない。いつだってあまりにあっけなくて、あまりに強引で、あまりに虚しい。そういうものが死だった。


 驚くほど簡単に、人は死ねる。誰よりも知っているからこそ、セトは、誰よりも恐れていた。自分が、ではなくて、自分ではない誰かが、そうなってしまうことを。


 今すぐに治療しなければ助からない。この量の出血では、もう、一刻の猶予も許されない。


「いいんですか? このままなら彼はじき死にます。あなたは彼を見殺しにするんですか?」


 テイトを見殺しに? 治せる力を持っているのに? このまま目の前でテイトが死んでいくのを、ただ見ている? 死なせるのか?


 できる、はずが。


「セト……」


 覚悟が懇願に変わる。喋らないで。言葉はなくても、分かる。けれども。


 もはや焦点の合っていなかった目が、ゆるりと閉じられた。


「ああ、気を失ってしまいましたね。あとどれだけ持つでしょうか?」


 拳を握る。理解はしていた。ここで話したとしても、散々利用された後に全員まとめて殺されることになるだろうと。そして話してしまえば、どれだけテイトの誇りを傷つけるかも。


 しかし、どうしても、見殺しには、それだけは、できなかった。


「……外してください」


 屈服の言葉は、惨めなほどに響いた。

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