【Ⅲ】-1 加勢
「じゃあ、姫様は生まれてからずっとこの城にいるんですね」
剣を振りつつ確認を取ったランテに、姫は頬を膨らませて応じた。
「また敬語使ってるわ」
あ、と思ってランテは頬を掻く。姫から敬語はやめるよう言われて久しいが、そう簡単にはいかなかった。
「だけど、王族の人相手に敬語なしだなんて」
「ランテと私はもう友だちなんでしょ? 敬語はおかしいわ」
このやり取りも何度交わしたかしれない。姫は王族に生まれたことを喜んではいないらしかった。ランテに会いに来るのも、敬語を嫌がるのも、密かに呪の鍛練に励むのも、きっとそういう理由からで、いつも何か王族らしからぬことをしていたいのだろう。
「……城の外に出てみたいの」
俯いてこぼす姫の横顔は、とても寂しかった。城は空間的には広いとはいえ、そこだけで生きていくにはあまりに何もなかった。さぞ退屈なことだろう。
「行ってみる?」
「え?」
「城下町」
思わず言ってしまってから、ランテは気づいた。
「あ、でもこの時間には、店とかもほとんど閉まっちゃってるな」
ラフェンティアルンの城下町はいつも活気に溢れている。さらに町人たちも旅人たちもよい人ばかりで、犯罪などはほとんど起きない平和な町だった。姫を連れて行っても危険はないだろうが、夜にはさすがに人通りも途絶えてしまう。ひっそり静まり返った町を歩くだけでは、特に楽しいことは何もないだろう。
「連れていってくれるの?」
それでも期待に満ちた顔で、姫はランテの腕を取った。また羽織が肩から滑り落ちるが、そんなことは気にも止めないで、夢中でランテを見上げてくる。
「それなら私、あなたの家に行ってみたいわ」
今度はランテが「え?」と声を上げる番になった。そのまましばらく固まってしまうほど、予想外の要望だった。
「オレの家?」
「ええ、城下町にあるんでしょう?」
「そうだけど」
「お父さまとお母さまもいらっしゃるのよね? 私、お会いしてみたい」
「でもオレの家なんて——」
「行きたいの」
最初に会ってからじき一年になろうとしていたが、こんなに必死になった姫は見たことがない。しかしランテの家は、何の変哲もないただの家でしかなかった。城や、夜の町以上に何もないだろう。きっと姫を落胆させるだけになる。
「でも、王様にばれたら怒られるんじゃ?」
「ばれないわ。そっと抜け出せば大丈夫」
姫は無邪気に唇の前に指を立てる。ランテは頭を悩ませてさらに説得を続けたが、姫は一向に折れようとしなかった。とうとう断りの言葉を失くしてしまう。
「何もないけど、それでもいいなら」
姫は喜びを弾けさせた。一杯に笑って、小さく跳んで、今度は顔の前で指を組む。
「本当に? なら、明日お邪魔しても大丈夫かしら。あ、でも、こんな時間にお邪魔したんじゃご迷惑よね」
「それは平気だと思う。オレが家に帰るときはたいていこの時間だけど、二人とも起きてるから」
「よかった。じゃあ明日、ここでいつもの時間に待ち合わせね……あっ」
姫は落ちていた羽織——以前ランテが拾ったものだ——に目を留め、次に自分がまとっていた白い夜着を見下ろした。裾を少し持ち上げる。滑らかそうな生地は、月明かりを含んでほのかに光り輝いていた。
「こんな服じゃ失礼だわ。それに、城の人間だってばれてしまう」
暗い顔になってしまった姫を見ていると、ランテまで悲しい気持ちになってくる。正直に白状するなら、姫を家へ招くのは乗り気ではなかったのだが、つい提案してしまった。
「それなら、よく話に出てくる侍女の……なんて名前だっけ、その人に何か借りたら?」
ぱちぱちと瞬いて、姫はやおら微笑んだ。
「そうね、そうする。ありがとう。それから、ランテ」
姫は少しの間照れくさそうに視線をさまよわせていたが、意を決したように面を上げると、ランテをじっと見つめた。何度見ても、この紫の瞳は見飽きない。宝石よりもずっと綺麗な色だと、ランテは目にするたびに思っていた。
「姫様?」
「その『姫様』っていうのもやめないと、ばれてしまうでしょう」
確かにその通りなのだが、ランテは困ってしまった。
「それなら、なんて呼んだらいい?」
「何でもいいけれど、姫様は駄目よ」
何でもいい、というわけにもいかない。
「……ルテルアーノ様?」
「もっとばれるわ」
それはもっともだが、だからといって他には何も浮かんでこない。ならば、愛称のように名前を省略してみようか。よい考えかもしれない。ルテル? アーノ? どちらもぴんとこないし、何よりばれてしまいそうだ。気落ちした、そのときだった。唐突に閃く。
「ルノア」
「ルノア?」
「ルテルアーノから、ルとアとノを取って、ルノア。どうかな?」
これならばばれないだろうし、響きも悪くないと思う。単なる思いつきではあったが、我ながら良い案ではないかとランテは一人で頷いた。
姫は確かめるように一度ルノアと呟くと、ゆっくりと目を細め、唇を緩めて、きれいな笑みを広げた。
「素敵」
思い出した。ルノアという名は、ランテがつけた名だった。
【光速】の連続使用は、訓練を重ねてはいても身体に堪えた。結局ダーフとは会えないままに——どこかで追い抜いてしまったかもしれない——昼前、ランテがエルティの門前まで辿り着いたときには、全身の筋が悲鳴を上げているようだった。このままばたりと倒れて休みたがる身体に鞭打って、ランテはよろよろと柵に寄る。そう言えばいつから睡眠をとっていないのだろうとちらりと考えたが、今はそんなことにはとても構っていられない。
「あの」
黒軍過激派の襲撃を受けたエルティがどうなっているのか、ランテは何も知らなかった。門を警戒する兵は皆落ち着かない顔をしていたが、今ここで戦闘が起こっているというわけではないようだ。ランテが門へ近づく間、兵はじっと視線を注いできたが、声をかけても無反応でいる。
「通してください。支部に伝えることがあるんです」
ランテが話しかけた兵に、隣の兵が何やら耳打ちした。そうして二人で目を見合わせる。ただでさえ険しかった兵の顔が、ますます険しくなる。
「副長はお前を帰すために……」
小声で述べられた言葉に、ランテは怯んだ。北にも殉職の知らせは届いているのだろう。ランテはセトが生きていると信じていたが、しかし、何も言えなかった。セトが——皆が、ランテを逃がすために無茶な戦いを引き受けたのは事実だったゆえ。
「ユウラ副長副官とテイト教官は中央に囚われている。お前を差し出せば二人を解放する上、援軍を寄越してくれるそうだ」
ユウラとテイト生存の情報にランテは一応の安堵を覚えたが、同時に温度が消えた兵の口調に対して不安も抱いた。以前セトに言われたことを思い出す。
——これから、北は揺れる。
セトの懸念が、現実のものになろうとしているのかもしれない。
「レクシス指揮官もアージェ隊長も、お前が帰ってきたら通せと言った。だが、俺は反対でな。町には妻も子もいる。支部長と副長が不在の中、この戦力で黒軍と戦うなど……正しい判断とは思えない。お前を差し出して、援軍を呼ぶべきだとは思わないか?」
五人いた兵が、一斉に武器を構えた。反射的にランテも剣の柄に手をやったが、駄目だ、北の兵とは戦えない。それでは何のためにここに来たのか分からない。
「待ってください。オレはエルティを守るために来たんです。なんで——」
「お前が町に入れば、中央まで攻めてくるかもしれん」
ランテは目を見開いた。その可能性を少しも考えなかった自分を恥じる。考えてみれば、中央が今北を襲えばランテだけではなく、以前から目障りだった北支部、そして厄介な黒軍過激派の始末を一度にできるのだ。敵からすると願ってもいない状態だろう。
「町へ入るのは諦めます。アージェに伝言だけ頼めませんか」
「断る。これ以上厄介事を持ち込むな」
厄介事、それは確かにそうかもしれない。だが、中央に平伏すればどうなるのか。彼だって洗礼を受けさせられたり、望まぬ戦いを強いられたりするかもしれない。
「このままいつまでも中央に怯えて生きていくんですか?」
「力を持つ者には従わねば。白獣が呼び出されたとき、俺は広場にいた。何もできんかった。勝ち目がない」
例えば今ここにセトやユウラやテイトがいれば、この兵は同じことを言っただろうか。そしてもしそれを聞いたなら、皆ならばどうしただろう。ランテは負けじと他にも様々な言葉をぶつけてみたが、兵は頑として頷かなかった。ついに言葉が尽きて、何も言えなくなった自分が歯痒く、ランテは拳を握り締める。だが、このまま引き返すわけには——
「北の兵は、いつからそんなに腰抜けになったんだい?」
ふいに、ランテの背後から声が朗々と響いた。振り返って、ランテは息を呑む。いつの間にか、すぐ後ろに人が立っていた。
「誰だ!」
兵が武器をその人物へ向けた。衣を目深に被っていて顔は分からないが、裾から剣の鞘がちらりと覗いている。しかし謎の人物はその剣に触れようとはしない。見ているランテの方が不安になるくらい、悠然と構えている。
「二年と少ししか経たないのに、もう僕の声を忘れてるなんて、腰抜けなだけじゃなくて頭も弱いみたいだね」
第一声を聞いたときから、もしかしてという予感はあった。どうやら間違ってはいなかったらしい。彼は、生きていたのだ。
「デリヤ!」
デリヤとはあの館で一度まみえただけの関係だ。セトたちのように、彼と共に日々を過ごしたわけではない。けれどもランテの内では、強い喜びが込み上がっていた。訳なんてどうでもいい。とにかく、とてもとても、嬉しかった。
「君は黙っててくれるかい? 馬鹿同士じゃ話が進まない」
無事でよかった、あのときはごめん、どうしてこんなところに、加勢してくれてありがとう——言うべきことがたくさんあったが、ランテはひとまず言葉を飲み込んだ。大人しく従って、数歩下がる。
やはり武器は抜かずに、フードを落として人を食ったような笑みを浮かべると、デリヤはうろたえた兵へ一歩詰め寄った。その瞳には生気が戻っていて、あのときはひどく青白かった肌にも血色が差している。おそらく腕は失くしたままだろうし、まだやつれてはいたが、彼は前に会ったときよりもずっと生きて見えた。
「エルティが襲われたらしいね。中央に」
「中央の密偵が、白々しい。よくこの町に戻ってこれたものだな」
兵が顔を歪めて言い放った皮肉にも、デリヤは表情をちらとも変えなかった。
「僕だってこんな田舎に来るのはごめんだ。だけど、借りがあるんだよ。そこの馬鹿一人と、もっと馬鹿な副長に」
気だるげに言ってから、そっと左肩に手を伸ばす。そこに腕はやはりなかったが、彼は憑き物が落ちたような、とても清らかで穏やかな顔をしていた。
「副長を侮辱するな」
「侮辱じゃない。僕は事実を言っただけだ。本当に中央に、それも正面から刃向かうなんて、ついに気が触れたのか」
「貴様——」
兵が握る武器が動かされる。ランテは青くなったが、デリヤはここにきても冷静で、外套をはだけて提げていた剣を見せつけた。
「かかってくるかい? 僕はそれでもいい。君たち全員束になっても、一瞬で勝負はつくだろうけどね」
誰も何も言わなかった。デリヤの笑みが静かに深まった。
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