【Ⅱ】-2 最後

 倒れていく身体を留めることはできなかった。したたかに床へぶつかる。衝撃が傷口に響いて、二度目の激痛を引き起こした。


「足を」


 動かなければと思うのに、身体は一向にユウラの命令を聞こうとしない。投げ出されたままの無防備な足を、何かが刺し貫く。


「うあっ」


 殺しきれなかった声が、唇の合間からこぼれた。汗が吹き出してじとりと髪を濡らす。一度歪んだ視界が元の形を取り戻したとき、司令官が正面に座ってユウラを見下ろしていた。


「痛いだろう?」


 立ち上がれない。貫かれた腿は、そのまま床に繋ぎ留められているらしかった。兵の中に、おそらく意識を奪い損ねた者がいたのだろう。


「癒し手を呼んできてあげよう。君が全て話すなら」


「誰……が」


 背中の傷が深い。息がうまく続かない。


「君、剣をもう一本」


 神経はもう麻痺しているはずなのに、肉が断たれていく感覚は妙に鮮明だ。叫びは堪えたが、身体中を苛む痛みだけでどうにかなってしまいそうだった。


「話してくれないのかね」


「あんたに……話す……ことなんか」


「ふむ、弱ったね。君、枷を」


 証持ちがユウラのすぐ横を歩いていく。司令官は枷を受け取ると、自らユウラを殴りつけた。


「さあ、話しなさい」


「断る……わ」


「さあ、さあ」


 四度目に振り下ろされた枷を、司令官の腕を掴み取って阻む。司令官はすぐさま振り払おうとしたが、戦いも知らないような貧弱な目の前の男に、腕の力で負けるはずがない。ユウラはそのまま呪力を通わせた。弱い電流ではあったが、司令官は枷を取り落とす。


「どうあっても話さないつもりかね」


「決まって……るでしょ」


 汗と混じった血が頬をどくどくと流れていく。気丈に答えはしたが、ユウラの意識は既に混濁してきていた。


「なるほど、ならば仕方ないね。君、この娘を運びなさい。白女神の大神殿に向かおう」


 乱暴に剣が抜き取られたあと、後頭部の髪がぐいと鷲掴みにされる。ずるずると引きずられていくが、ユウラには抵抗できる力は残っていなかった。まるで夢の中にでもいるかのように、世界が薄っすら遠くに見える。何を考えるのも億劫だった。身体も自分のものとは思えないほどに重くて、それでも痛みだけは引いてくれない。




 しばらくの間、意識が飛んでいたように思う。次にユウラが現実世界へ戻ってきたときには、どこか明るい廊下を進んでいた。仰向けの状態で引きずられていて、背と腰と脚から流れ出した血が、擦れた赤い軌跡を残しているのがぼんやりと見えた。


 このまま洗礼を受けさせられるのだろうか。妹も仲間も救えないままに終わってたまるものかとは思えども、もう指一本さえユウラの思い通りにはならなかった。何も、できない。四年前と何一つ変わっていなかった。


「聖女のところに寄ろうか。思ったより出血が多いようだ」


 聖女とは誰のことだろう。聖女が治療をしていると司令官は言っていた。そこに、セトもいるのだろうか。


「……せて」


「ん、何か言ったかね」


「セトに……会わせて……」


 知らない間に口走っていた。理由は分からない、いや、そんなものなんてきっとなかった。ただ、会いたい。最後になるなら、一目だけでも、どうしても会いたい。


「そんなに会いたいのかね」


「会わ……せて」


「そうだね。心残りがあるせいで、万が一洗礼が失敗でもしたら大変だ。聖女もそこにいるのだろうし、会わせてあげよう」


 司令官の指示により、髪がこれまでとは別の方へと引っ張られた。痛みはいつの間にか失せている。全く言うことを聞かない身体は、ただ引っ張られるがままに動いていく。まるで人形だ。肉体の疲弊は精神の疲弊を引き起こしていて、惨めだとか情けないだとか思える心の強さは、とっくに潰えていた。


 ユウラを引きずる兵の足が止まった。髪が離されて、床に不様に横たわることになる。何本か抜けた赤髪が、ユウラの目の前をひらひら落ちていった。


 司令官が正面の扉を叩くと、すぐさま中から人が一人現れる。クレイドだった。


「何の用だ」


「聖女を少しばかり貸していただきたいと思いまして。捕虜の女を痛めつけすぎたものですから」


「その程度では死なんだろう。その女には洗礼を受けさせろと命じたはずだが?」


「何か聞き出せないかと思いまして、その前に尋問をいたしました。成果はありませんでしたが」


「もういい。女を置いていけ」


「しかし」


「どうやらこの女を利用できそうでな」


「……承知しました」


 足音が遠ざかっていく。ユウラとクレイドだけが残された。


「背教の罪を犯した北支部副長への制裁として、お前には洗礼を受けさせる」


 クレイドはユウラを見下ろして、顔色一つ変えずに言った。


「セトは……無事なの……」


「最も優れた癒し手と血の繋がりがあったのが幸いした。死んだ方が幸福だっただろうがな」


「……会わせて」


 懇願が滲んで、声は頼りなげに揺れた。クレイドは鼻で笑う。


「勝手にしろ。この部屋だ」


 扉を見上げた。白一色の扉だ。この向こうにセトがいる。ユウラは力を振り絞って腕を伸ばしてみるが、ドアノブは高いところにあって、この場所からではとても届かない。


 立ち上がらなくては。それが叶わなくても、せめて上半身を起こさなければ。思うのに、どこもかしこも岩のように重くて、微塵も動かせなかった。会いたい、会いたい、会いたい。気持ちだけが溢れて身体が弾けてしまいそうだった。どんなに願っても動かないのに、止まらない。


 セト、そこにいるの? あんたのことだから、また無茶したんでしょ。あんたはどう思うか分からないけど、きっと死に切れなかったことを悔やむんでしょうね。ずっと前から気づいてたわよ、あんたが死に急いでたことには。何も話さないから、理由は知らなかったけど、そんなものあってもなくてもあたしには関係なかったのよ。あんたが勝手に死のうとするなら、あたしが傍にいてあんたを守ろうと思ってたわ。でも結局あたしは守られてばかりで、あんたの仕事を増やしただけだったかもしれない。ほんの少しでも、あたしはあんたの力になれていたかしら。


 再び髪が引っ張られる。クレイドが嘲るのが聞こえてきたが、遠ざかっていく扉へ、ユウラは力の限り手を伸ばし続けた。すると、焦がれた者の姿が、ふいに目の前に現れた。ああ、と思う。幻と分かっていた、けれども、ユウラは一心に語りかけ続けた。そうしないではいられなかった。


 生まれがどうとか、親が誰だとか、そんなことを気にする人間はあんたの周りには一人もいないわ。拘ってるのはあんただけよ、セト。いい加減自分の価値に気づきなさい。どれだけの人間があんたに救われたと思ってるの。何度だって言うわ。あんたが死んだら苦しむ人間が、何人もいるのよ。分からないの? そんなはずはないわよね。知らないふりをしてるだけよ。やっぱり、あんたはずるいわ。


 扉が見えなくなった。代わりに幻に手を伸ばす。届きそうで届かない。いつだってセトは、そんな位置にいた。


 もっとあんたの力になりたかった。せめてあんたの無茶癖が治るまでは、あたしが背中を預かっていたかった。でも、もう傍にはいられそうにないわ。洗礼を受けることは怖くないの。一度は覚悟したから。そういえば、あんたはあのときあたしを止めてくれたわね。戻って来いとも言ってくれた。嬉しかったわ、とても。ありがとう。


 重々しい音がした。何もかもが白い部屋に、強引に引きずり込まれる。少し見渡せば、至るところに白の紋章が刻まれていた。大神殿まで来てしまったのだろう。それでも思い人の幻は消えない。


 洗礼を受けることより、何も分からなくなったあたしが、あんたを傷つけたりしないかの方がずっと怖い。そうなりかけたら、セト、あたしを止めて。殺されても文句は言わないわ。だから、あたしにあんたを殺させるようなことだけはさせないで。お願いだから。


 身体が、嘘みたいに白い階段を上っていく。幻は、まだ傍にいてくれている。


 最後にあんたが生きていたことを知れてよかった。本当によかったわ。せっかく生き延びたんだから、これからは自分の身を大事にしなさいよ。どうか死なないで。あんたが生きていてくれるなら、それだけで、あたしは。


 光に包まれた祭壇に投げ出された。白い紗を重ねた向こうに、一人の女性がいた。眩しい。幻へ伸ばし続けていた腕が、力尽きて沈んだ。この手は、結局、一度も届かずじまいになった。かすかに、ユウラは笑みを刷いた。何のための笑みかはユウラ自身にも分からない。諦めだったかもしれない。


 セト、あたし、あんたに言いたかったことがある。ずっと言いたかったけど、傍にいられなくなったらと思うと、怖くて言えなかったわ。あたしらしくもないわよね。


 白いばかりの指が伸びてきて、ユウラの左肩に触れた。焼けつくように熱い。光が激しく迸った。飲まれて、ついに幻まで見えなくなってしまう。ゆっくり瞼を落とすと、四年間の記憶がユウラの中を駆け巡った。


 ——行く場所がないならさ、来いよ。


 あたしを救ってくれて。


 ——白軍に? いや、駄目ってわけじゃないけど……危険の伴う仕事だし。


 いつも気にかけてくれて。


 ——怪我したらすぐ言えって言ってるだろ?


 人の心配ばかりして。


 ——お前さ、副官やってくれないか?


 誰より認めてくれて。


 ——お前がいて、本当に助かってる。いつも悪いな。


 頼りにもしてくれた。


 ——お前にだから預けるんだ。


 記憶の終わりを迎えると、上衣の左裾がほのかに温かくなった。ああ、腕章を返せないままになってしまった。あんたはどういうつもりで、これをあたしに預けたのかしらね。北を頼む? 生きて帰れ? こういうとき、あんたは決まって言葉不足で、あたしには分からないけれど。


 セト。


 あたしは。


 あんたが。


 あんたが——


 ついに言葉にはなれなかった最後の感情が、ひとしずく、紅の瞳から流れ落ちた。

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