【Ⅱ】-1 二択

 重い瞼をこじ開ける。途端に入り込んできた光が目を刺した。瞬きを繰り返しながら身体を起こそうとして、ユウラは両の腕が縛られているのに気づく。


「目覚めたようだね」


 耳にねっとりとこびりつくような、嫌な声がした。上半身を起こしつつ声主を探す。細身で五十ほどの男が部屋の隅に座していた。中級司令官の装いをしている。


「若い娘が連行されたと聞いてね。尋問役を買って出たんだよ。君みたいな娘を冷たい鉄格子の中に閉じ込めるわけにはいかないだろう。感謝するといい」


 牢の広さとさほど変わらないような小さな部屋だった。扉がある他には、中級司令官の座る椅子があるだけだ。両手首には呪封じを兼ねた手枷がつけられていた。無論槍は取り上げられていたが、随分不用心だとユウラは思う。


「ここはどこ……ですか?」


「中央本部だ」


「中央?」


「不思議かね」


 鳩尾みぞおちに食い込んだ剣の柄を見たのが、ユウラの最後の記憶だった。クレイドの圧倒的な強さの前に出来たことといえば、テイトが一度呪を使う間を身を挺して稼ぐことだけだ。あの後どうなったのかは分からないが、おそらく二人して捕まり連行されたのだろう。殺されなかっただけでも不思議だが、連行先がティッキンケムの大監獄でなく中央だというのも不可解だった。敵は一体何を企んでいるのだろうか。


「あたしの他に……一緒に連行された者はいませんでしたか」


「男が一人、牢に繋がれているようだね。しかし、じきに君には関係のないことになる」


「どういう意味ですか?」


「私の質問に全て答えれば、君を中央に迎えてあげよう。私の部下としてね」


 司令官はおもむろに腰を上げると、ユウラの傍まで歩み寄った。膝をつくと視線の高さがそろう。伸びてきた腕が顎に触れた。生温くて湿気た指に、顔をくいと持ち上げられる。


「なかなかに美人だ。腕も立つらしいね。護衛兼秘書として、私の傍に置いてあげよう」


 身体中を虫が這いずり回るような悪寒が走った。鋭く顎を引いて、ユウラは不快極まりない指から離れる。


「触らないで」


「勝気な娘だ。悪くないよ」


 丸腰の中級司令官一人なら、武器がなく両手を縛られているこの状態でも簡単に無力化することができるだろう。しかし、ユウラは中央本部内の構造には詳しくない。行動に移すなら、可能な限り情報を引き出してからでなければならない。


「尋問のために、あたしは生かされてるんですか」


「そのようだったね」


「テイトも——牢に連行された方も同じですか?」


「おそらくは」


「ここは本部内のどの辺りに位置しますか」


「尋問室の一つだ。地下にある」


 尋問室なら牢は近いはずだ。抜け出せればきっと、さほど迷わずとも救出に向かえる。しかし見張りは多いに決まっていた。手枷を外し、武器を得てからでなくては——いや、それでも厳しい。それに。


「副長は連行されていませんか?」


 そっと上衣の左裾に触れる。そこに預かった腕章がしっかりと残っているのを確かめて、ユウラは密かに安堵した。返事を聞くのに恐れはなかった。どんな結果も受け入れて、そして動くしかない。心が震えたのには気づかない振りをする。恐れは、ない。あってはならない。


「北の副長か。君は彼の副官だったね。同じ年の頃だったか。恋人かね?」


「……副官として、安否が気掛かりなのは当然です」


 司令官は唇を歪ませて品のない笑みを浮かべた。


「会わせてあげようか」


 動揺を悟られないよう、ユウラは深く息を吸った。身体から一斉に力が抜けていき、それで自分がひどく張り詰めていたことを知った。良かった、と言いかけたのをすんでのところで飲み込んで、別の言葉を用意する。


「連行されているんですね?」


「もう死んでいるかもしれんがね」


「怪我をしているんですか?」


「怪我よりも毒が問題なんだよ。【聖女】が治療をしているようだが、芳しくないようだ」


 安心は束の間だった。今度は動揺が顔に出てしまったのが、ユウラ自身にも分かった。司令官の笑みが深くなる。


「会いたくないかね?」


「……どこにいるんですか」


「会わせてあげるよ。君が私の部下になるならね」


 どうするべきだろうか。一時的にでもこの司令官の部下になることで本部内を自由に動き回れるのなら、頷くべきかもしれない。二人を助け出すには必要なことだ。しかし、とユウラは思う。あれだけ中央に逆らい、果ては知ってはならないことを知ってしまった重罪人を、こんなに容易たやすく許すことがあるのだろうか? どうにも腑に落ちない——そこまで考えて、ユウラは気づいた。中央の兵の大半は証持ちだ。なるほど洗礼を受けさせるのならば、罪人であろうとなかろうと関係ない。


「やはり赤い髪の女は良いな。華やかだ。私の館にも一人いたがね、あれは病弱でいけない。君くらい健康的な方が——」


 そのとき飛び込んできた言葉が、ユウラの思考をぷつりと寸断した。まさかと思って、次の瞬間には枷のはめられたままの両手で司令官の胸元を掴んでいた。


「その子の名前!」


「な、何だね?」


「あたしと同じ赤髪で、身体の弱いその子の名前は!」


 頭の中一杯に、四年前別れたときのままの妹の姿が蘇っていた。ユウラよりほんの少し色の薄い赤髪で、色白ではかなげで、でも瞳は大きい。あのとき十二だったユイカも、今はもう十六になっているはずだ。たとえどんなに変わっていたとしても、ユウラには必ず妹を見分けられる自信があった。もっとも妹の方は、四年間も救い出せなかった姉のことを、姉と思ってくれているかは分からない。


「何と言ったかね。ああ、そうだ、確かユイカと」


 すさまじい衝撃が、ユウラの頭の天辺から爪先までを刺し貫いた。身体の中がすっかり空になってしまって、何も声が出てこない。司令官の服を掴んでいた手から力が抜けて、身体の前にだらりと垂れた。


 四年間一度も会えなかったのに、何もかも残らず覚えている。一杯に笑ったり、眉間に皺を寄せて怒ったり、顔をくしゃくしゃにして泣いたり。表情の豊かな、そして心のきれいな子だった。寂しがりやで人見知りで、いつもユウラの一歩半ほど後ろを歩く。たった一人の、血の繋がった妹。最後の家族。


 両親が死んだ日、何があってもこの子だけは守りきろうと決めていたのに、守れなかった。けれどもあの日何も起こっていなかったなら、今だってユイカは傍にいたはずで。


 ——お姉ちゃん! お姉ちゃん! 助けて! お姉ちゃん!


 目の前で連れ去られていった妹の姿を、泣き叫びながらありったけの声で自分を呼ぶあの子の姿を、何度夢で見たか知れない。


「あんたが……」


 妹のことを思うたび、何も出来なかった自分を憎み、それ以上に妹を奪っていった敵を憎んだ。そして攫った後にそいつが妹に何をしたのかを考えると、憎いや許せないや、そんな言葉で表しきれるような生温いものではなくて、ただもう殺してやると思った。四年の間にその感情は積もりに積もって、ユウラ自身の制御をも許さない域に達していた。


「……あんたがユイカを攫ったの?」


「なんだ、知り合いだったかね。そう言えばよく似て」


「あんたがあの子を攫ったのかって聞いてるのよ!」


「わ、私ではない。息子が」


「そいつの名前を教えて」


「ソニモという。我がデワーヌ家の跡取り息子で、今回誇らしくも聖者の位に」


「そいつは、ユイカを攫って、あの子に何をしたの?」


「十五に満たぬ年頃の娘が好きでな。平民などやめろというのに妾に」


「あんたは止めなかったの? 十二の子どもが連れ去られてきて……あんたの息子に好きなようにされて、それをただ見ていたっていうの?」


「私は関係ない。息子が勝手に——」


 鈍い音がした。司令官が倒れてはじめて、ユウラは今しがた自分が枷で目の前の人間を殴ったことを悟った。自覚しても、詫びる気持ちは一片も湧いてこない。このまま殴り殺してやろうかとすら考えた。


 全身の震えが止まらない。胸の真ん中で何かが急速に熱く増殖していく。


「な……何をするんだ。誰か! 誰か来なさい!」


 血を垂らした額を押さえて司令官が叫ぶと、開いた扉から証持ちの兵たちが雪崩れ込んできた。全員女性であるのが分かると、ユウラの頭にはさらに血が上った。


「ユイカはあたしの妹よ! あの子が今日までどんな思いで」


 ユウラは続きを飲み込んだ。とても言葉で言い表せるとは思えない。そもそもユウラの想像でしかない。実際にあの子が胸に抱えるものは、きっと、もっとずっと。


「ただのみすぼらしい平民の娘が、中央貴族の中でも高名な我がデワーヌ家に取り立てられたのだ。姉として誇りに思え!」


 もう止められなかった。両指を強く握りこむ。この男を黙らせなくては気が済まない。怒りに任せて、ユウラは再び重い枷を振り上げた。




 腕を縛られたままで兵を数人相手にするのは、呪封じのせいで生身の力しか出せないこともあって、さすがに無傷でとはいかなかった。乱れた息をしながら、ユウラは切られた腰に滲んだ血を見た。足元では気絶した兵が何人も横たわっている。


 身体を動かしたためか、それとも怪我による痛みのためか、ユウラを浮かしていた激情はすっと影を潜めていた。だが激しい怒りが収まったというわけではない。この感情はきっと一生、例えばデワーヌ家の人間を皆殺しにしたとしても——それが意味のあることか否かは別として——収まることはないだろう。


「鍵は?」


 辛うじて意識を保っている司令官を見下ろして、ユウラは冷たく聞いた。引き出せる情報はまだまだあるはずで、ゆえに殺すわけにはいかなかった。司令官の輪郭をなぞる血の筋は太くなっていて、三筋に増えている。


「……ここに」


「外して」


 司令官の腕が小刻みに震えているせいで、なかなか鍵穴に鍵が入らない。だいぶ時間がかかって、ようやく手枷が外された。手首に濃い赤い痕がくっきりと残っている。


「ユイカはあんたの屋敷にいるのね」


「今は次男の屋敷にいるはずだがね」


「本部の傍?」


「いや、中流層の西側にある」


 このまま本部を抜けて、妹の救出に向かえるだろうか。分からない。それに一度本部を出てしまえば、容易く戻っては来れまい。中には今、セトとテイトがいる。救い出さねばならない、が、騒ぎを起こさずには不可能だ。そして一度騒ぎを起こしてしまえば、屋敷に寄るのは難しくなる。


 妹か、仲間か。ユウラは最も難しい二者択一を迫られていた。


 前にも一度、こんなことがあった。エルティでジェノに話を持ち出された。あのときは妹を選んだ。しかし今は状況が違いすぎている。仲間はこのまま捕まっていれば命に危険が及ぶのだ。二人を救い出すか? だが、では妹はどうなる? ここで救えなかったら、妹はこの先も地獄のような日々を送らねばならない。


 ——お姉ちゃん、大好き。ずっと一緒にいてね。


 ユイカ。一刻も早く救い出してやりたい。でも。


 ——行く場所がないならさ、ユウラ。来いよ。


 妹を失って抜け殻のようになっていたユウラを救ってくれたのはセトだ。


 ——ユウラ、必ず妹さんを救い出そう。僕も協力するから。


 テイトだって、事あるごとにユウラを励ましてくれた。


 北での生活は、ユウラを確かに癒してくれた。あの二人が同じ隊でユウラの傍に居てくれたからこそ、得られた安らぎだった。救われていた。支えられていた。いつも、何度も。


 選べない。


 どうしたらいいのか、ユウラは分からなくなった。それが一番愚かな選択だと知っていても、少しも動けなかった。もう手枷はない、武器も兵が取り落としたものがある、それなのに何一つできない。ただ呆然と立ち尽くすのみだ。


 どうしても、どうしても選べなかった。


 そして。


「やれ!」


 中級司令官の大声が耳を突いた直後。


「え、あっ」


 背中が斜めに切り裂かれるのが、分かった。


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 設定資料集(紹介文にリンクがあります)の方に、喜の章のあとがき(とても遅くなりましたが)、怒の章のあらすじを掲載しました。よろしければぜひご覧ください。

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