【Ⅰ】-3 出立

 ランテが待ちくたびれてきたとき、ようやくナバが戻ってきた。大きな荷物を提げている。


「必要経費は、副長たちが東で仕事したときの給金使ったぜ。悪いけどオレには金がねーから」


 何のことか分からないランテの前に、どさりと荷物が下ろされる。中を開けてみて驚いた。着替え、食糧、水、包帯、そしてランテの剣と呪封じを外す鍵。旅に必要そうなものが全部揃ってある。動き回れないランテのために、あちこち回って揃えてくれたのだろう。


「ナバ……」


「何だよ」


「ありがとう。東にナバがいてくれて、本当によかった」


 ナバがいなければ、こうして再び立ち上がることができていたか分からない。おそらくできていなかっただろう。感謝してもしきれなかった。心を込めて何度目かの礼を言うと、ナバは今度は軽く笑った。


「礼なら金か女で頼むぜ。そのルノアって子、今度紹介しろよ」


「うん、紹介する。恩人だって」


 もっと気の利いた言葉はねーのかよ、とふざけた返事を寄越した直後、ナバは真顔になって声を低めた。


「町を出るまで兵に見つかるな、つーのは無理な話だ。隠れるな。お前はそう顔を知られてる訳でもないし、堂々と横切りゃいい。ついでに今は明け方で、まだ暗いしな。ここは入るのに審査が厳しい分、町中の兵は意外と警戒心が低い。北門の兵には話を通しておいたから、そこから出ろ」


 頷きかけて、ランテは躊躇った。考えてみれば、ナバには東の人間を裏切るような真似をさせることになっている。


「ナバ、これ、フィレネ副長にばれたら」


 ナバは苦笑で答えた。


「すぐばれるだろうよ。さすがに減給じゃ済まねーな」


 何と言うべきか困って、それでも言葉は見つからず、ランテはただ謝った。


「……ごめん」


「首にゃならねーよ。ま、もしそうなったら、セト副長に北に入れてもらえるよう頼んどいてくれ」


 ナバはここでも軽く言ってのける。明るい顔と声にいくらか救われた。


「分かった……本当にありがとう」


「分かったんならとっとと着替えて行け。あんまり長いこと人払いしてたんじゃ、出発前にフィレネ副長にばれちまう」


 傷みきった、しかも北の制服を着たままでは、確かにいくらなんでも目立つだろう。ありがたく新品の服に袖を通す。腰に剣を挿して、用意してくれた物品を詰め込み、準備は整った。


「またこっちから北へ遣いをやる。無事に帰れよ」


「うん。ありがとう」


 ナバに見送られながら、牢を出て、階段を上る。突き当たりの扉を開けば、冴えた空気がランテを包み込んだ。深呼吸して、新鮮な空気を胸一杯に取り込んだ。東の空がかすかに白んできている。一つ頷いて、ランテは力強く一歩踏み出した、その瞬間だった。


「どちらへ行かれますの?」


 突如響いた声に、つまずかされた。危ういところで転倒を免れたランテがばっと顔を上げると、フィレネが腕を組んで立っていた。


「ナバの仕業ですわね」


「えっと」


「返事は必要ありませんわ。分かりきったことですもの」


 無表情で、フィレネは続ける。


「牢にお戻りになって」


「できません」


「あなたが戻らないと、ナバを罰さなくてはなりませんわ」


「それは」


 言葉に詰まったとき、後ろで物音がした。開け放したままの扉からナバが顔を出す。彼はフィレネ副長を見つけるなり言った。


「あー、なんてこった」


「『なんてこった』じゃありませんわ。ナバ、あなた、覚悟はできていますのね?」


「そう睨まないでくださいって。フィレネ副長だって、北の面々が心配なくせに。よかったっすね、全員生存の線が濃厚ですよ?」


「寝言は寝て言いなさいな。遺体はどう説明しますの?」


 ナバの口から、ランテが話した情報が手短に説明される。全て聞き終えると、フィレネは表情を留めたままで頷いた。


「事情は分かりましたわ。でもそれとランテ様を解放することとは別の話ですわね。今のわたくしは、中央に行かれているオルジェ支部長に代わって、支部を任されている身。決して承知するわけには参りません」


「相変わらず頭堅いぜ」


「あなたは黙ってなさいな」


 ぴしゃりと言って、フィレネはランテに向き直った。


「どうしても牢にお戻りにはなりませんの?」


 声に脅すような強さが混じったのには気付いたが、ランテは負けじと答えた。


「オレは北に戻りたい、です」


「分かりましたわ」


 一瞬フィレネが納得してくれたのだと思ったが、そんなに甘くはなかった。東の副長はユウラそっくりの所作で背中に腕を回して、大きな鎌を手に取る。


「では、納得していただくしかありませんわね。力ずくで」


「うへっ」


 ランテよりも先に、ナバが反応した。裏返ったような変な声が出ている。


「あらナバ、あなたが代わりに受けて立っても構いませんのよ?」


「冗談じゃねーよ。おいランテ」


 ランテへ向けられたナバの顔には、恐怖がありありと認められた。


「やめとけ。本気で打撲やかすり傷じゃ済まねーよ。今はすぐ治してくれるセト副長もいねーんだ。別の手を探そうぜ」


 ユウラから、フィレネは彼女の姉弟子であることを聞いていた。同じ副長として、セトと競うほどの腕を持っていることもだ。また、エルティでランテ自らが手合わせをしたときのこともよく覚えている。歯が立たなかった。


「……オレが勝てたら、北へ戻ってもいいんですか?」


「記憶喪失以前のあなたならさておき、今のあなたがわたくしに勝てるとは到底思えませんわね」


「勝てたら帰してください」


 自信なんて微塵もない。けれども勝たねばならないのだと、ランテは強く思った。ならば、怯むわけにはいかない。ランテは意識して顎を上げる。


「そこまで仰るなら、分かりました。そうしましょう」


「帰っていいんですね?」


「ええ。わたくしに勝てれば」


 フィレネの構えには少しの隙もない。ランテは剣を引き抜きながら、ごくりと生唾を飲み下した。ナバと目を合わせると、彼は呆れたように口にした。


「知らねーからな」


「ナバ、ごめん」


「……こっぴどくやられたら、教会から癒し手くらいは連れてきてやる」


「ありがとう」


 これで思う存分戦える。ナバに感謝しつつ、ランテは剣を構えて深呼吸した。いくばくかの緊張はあったかもしれない。しかし、驚くほどに気持ちは凪いでいた。


「どうぞ、そちらから」


 フィレネは余裕の表情でランテを待っている。剣の柄をぎゅっと握り締めた。駆け出す。


 待ち構えていたように振り薙がれた鎌を、身を低くしてやり過ごす。続けざまに低い位置を狙って柄の部分が迫ってきた。見える、反応できる。ランテは後ろへ跳びすさった。着地と同時に地面を蹴り出す。間を詰め切ったが、フィレネの対応は冷静だった。身体の前に斜めに構えられた大鎌の柄に、剣ごと押し返される。後ろへ倒れかけたランテへ、背後から少しの遠慮もなく刃が迫った。


「あー」


 ナバがこぼした溜息のような落胆の声と、それから鎌の唸る音とを聞いた。刃に先んじて身に食い込んでくる風を感じることもできた。身体は自由に動かない、そういう体勢にあることを確認もした。何もかも、恐ろしいほどに冷静だった。


 何をすればよいのかは、身体が全て知っていた。足を踏張って身体を支えつつ、光を纏う。溢れ出した白色を目に焼きつけながら、ランテは剣をますます強く握った。背中が押される。宙を動きながら、身体をよじって半回転させた。剣が閃く。それはランテ意のままに、一切の躊躇いもなく動いて。


「なっ……」


 絶句したフィレネの喉元には、後ろからぴたりとランテの剣が添えられていた。遊んでいた長い巻き髪がふわりと戻って、優しく銀を撫ぜる。空を斬ることになった鎌が、ゆっくり沈んで頭を垂れた。


「おい、何だよ今の」


 唖然とした表情で、ナバが言う。


「油断してたにしても、フィレネ副長の後ろを取るなんざ」


「油断はしていませんわ。一切」


 ランテが剣をどけると、フィレネはくるりと身体ごと振り返った。信じられないと言いたげな顔でランテを凝視している。


「ならいっそうすげーよ。今の、オレの目にゃ何も見えなかったぜ?」


「わたくしも……わたくしの目でも、何も」


 ランテは自分の右手の平を眺めた。どうしてあんなことができたのか分からない。だがそんなこと、今はどうでもよかった。


「フィレネ副長、オレ、勝ちました」


「……そうですわね」


「北に戻っていいですか」


「そういう約束でしたものね」


 フィレネは悔しそうな瞳を瞼で隠して、一度頷いた。


「約束は約束ですわ。もちろん守ります。けれど、ランテ様」


「フィレネ副長!」


 叫び声がして、すぐに騒々しい足音が続いた。


「何ですの?」


「北から伝令です」


 駆け込んできた兵は、ランテをちらりと見た。フィレネもランテを一瞥したが、兵に続けるよう促す。


「救援要請です。黒軍の急襲があったとか」


「どなたの要請ですの?」


「レクシス指揮官です。ハリアル支部長、セト副長に代わって彼が支部を統括しているようです」


「支部長と副長の不在を狙っての襲撃ですのね。北はそれしきで落ちるほど甘くはありませんし、レクシス指揮官の指揮なら問題はありませんでしょうけれど——」


「北は無事なんですか!」


 ランテが遮ると、兵は困ったようにフィレネを見たが、彼女から頷きが返るのを見て返答をくれる。


「今のところは膠着状態が続いていて、大事ないらしいが」


「ランテ様。北が心配なら、先に伝令と戻ったらどうですの? きっとダーフさんがいらしてると思いますわよ」


「今どこに?」


 兵は北側を指差した。


「彼は北門の兵に書面を預けるなり、取って返した。今はもう——」


「追いかけます!」


 名を呼ぶフィレネの声が追いかけてきたが、ランテは振り返らなかった。今は戻れない皆に代わって、エルティを守らなければならない。自分ひとりの力でどこまでできるか、果たして力になるのか。そんなことは思慮の外だった。


 身体の全ての力を足に集めて、ランテは明け方のレベリアを風の如く走り抜けた。

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