【Ⅰ】-2 光明
けたたましい音が鳴って、ランテははっと顔を上げた。牢の中が少し明るい。視線を上げれば、燭台と食事を手にナバが立っていた。
「やーっと気付いたか? せっかく奇跡的に生きて戻ったのに、しけた面してんなあ」
牢の鍵を開けて、ナバが中へ入ってくる。食事がぐいと差し出された。
「……いらない」
「おいおい、餓死する気かよ?」
「違うけどいらない」
「セト副長たちも命懸けで帰したお前がそんな廃人みたいにしてるんじゃ、浮かばれねーな」
「そんな簡単に割り切れないんだ」
ナバの言うことが理解できない訳ではない。しかし素直に受け容れるには、ランテの中で三人の存在が、そしてその喪失感が大きすぎた。今でも信じられないし、信じたくない。永遠に目を背けていたいと思う。
「……オレ、いいもの持ってんだよな」
ナバは真剣な顔になると、牢の出口付近に腰を下ろして、懐から何かを取り出した。紙のようだ。綺麗に折り畳まれている。
「何それ」
「お前宛の指令書」
「指令書? 誰から?」
「誰だと思う?」
少しだけ笑って、ナバは紙を開いてみせた。並んでいた字にひどく見覚えがあって、ランテは勢いよく息を呑んだ。
「この筆跡、さて誰からの指令書でしょーか」
「……セトだ」
「正解」
聞くなりランテはその指令書を引ったくろうとしたが、ナバは許さなかった。素早く身体の後ろへ隠してしまう。
「オレ宛だって言わなかったっけ」
「そうなんだけどな」
「皆、生きて戻ってたんだ……」
「そうじゃねーよ」
淡い期待は一瞬にして否定された。しかし、ならば、なぜ殉職したとされるセトからの指令書が今ここにある? ナバはすぐに答えをくれた。
「ケルムで受け取ってたんだ。お前が一人で戻ってきたら渡すように、ってな。さすがはセト副長、東が情報を求めて生還者を連れ帰るつもりだったのも、お前が一人で戻ってきたらそんな風になることも……それから自分たちが戻れないだろうことも、全部お見通しだったらしいぜ」
読むか、と真剣な顔に戻ったナバに問われる。
「読む」
「お前、分かって言ってんだろうな?」
「何が?」
「『指令書』だぜ、ランテ。ちゃんと果たせるのか?」
指令書なんて初めて目にするが、ナバがこう断るということは、読むには相応の覚悟がいるのだろう。尻込みしなかったと言えば嘘になるが、ランテはしっかりと頷いた。
「……それをセトたちが望むなら」
口にしてから、ランテは今し方自分が述べたことを頭できちんと理解した。そうだ、いつまでもこうしていても始まらない。結果がどうであっても、嘆いて立ち止まっている暇など始めからなかったのだ。セトからの、支部副長からの指令。ランテには果たす義務がある。
「じゃあ読め。ただし、飯食ってからな」
「読んでから食べる」
「先輩の言うことはちゃんと聞け」
「……分かった。ならそうする」
置きっぱなしになっていたトレーに手を伸ばす。パンを一口含むと、ランテは自分がどれだけ空腹だったかに気づいた。身体が求めるままに食べて、食べて、食べる。衝動に駆られるままに食事を終えると、身体の内側からほんのりと温かくなって、生き返ったような心地がした。
「腹減ってたんじゃねーか」
「そうだったみたいだ。ナバ、指令書読みたい」
「そんなら、読め」
差し出された一枚の紙を、ランテは両手で大事に受け取った。開いてみると、あのときエルティでもらった地図や推薦状と同じ、整ってはいるがやや右上がりで縦に長い文字が連なっている。確かに、間違いなく、セトの筆跡だった。
一字も読み逃すものかと、ランテは目をしかと見開いて読み始めた。
『これがランテの手に渡っているということは、お前は一人で帰ってきたんだろうな。そうなればオレたちは生きていないだろうが、気に病むなよ。三人とも覚悟の上だった。お前だけでも生きていてよかったと思う。よく戻ってくれた。
行く前からオレたちが戻らなかったときのことを話しても、お前はきっと聞く耳を持たなかっただろうから、手紙にしておいた。指令書みたいなものだと思ってくれればいい。多分ランテは責任を感じて凹んでいるんだろうな。そんな暇はないからな。オレたちが出来なかったことを、全部お前に任せることになる。忙しくなるから覚悟するように。
東の協力を取りつけるのは、あらかじめ話を通してあるが、どうやら難しそうだ。まずは北を動かすのが一番だと思う。支部長が戻っているなら支部長に、戻っていないならアージェに協力を仰ぐこと。ケルムまでのことは文面で伝えてあるが、補足と激戦地でのことはお前の口から伝えてくれ。落ち着いて正確にな。
王国記を広めるためには、どうしてもフィレネ副長を説得する必要がある。直接本人に訴えるよりも、ナバを使うこと。あいつはあれで有能だし、東では一番北の人間に好意的だ。力になってくれることと思う。
王国記の流布に成功したら、次は黒軍との戦争を停戦へ運ぶことを考えるように。いきなり中央に喧嘩を売るような真似はするなよ。東を説得するのは、南や西をまとめてからがいいだろうな。オルジェ支部長が頷かざるを得ない状況を作るように。信頼の置ける人間とよく相談すること。南へ話を持ちかけるなら、これもナバに力添えを頼むといい。西はサード副長なら話が通るはずだ。
全支部の説得が済んだら、お前の出番だ。前にも話したように、ランテは白の民とも黒の民ともつかない特別な気配を持ってる。生粋の白の民が停戦を申し出るよりも、お前の口からの方が、向こうも少しは受け入れる気になると思う。大役だ。上手くやれよ。
中央と正面衝突する前に、せめてこれだけは出来ていればと思う。一つの案として覚えておいてくれたらいい。もちろん中央が静観しているはずはないから、気は抜くなよ。黒軍の動向も気になる。とにかく何があっても一人で早まった行動は取るな。何度も言うが、お前が中央に捕まったら終わりだ。出来る限り多くの協力者を募ること。くれぐれも慎重に動けよ。特に、これまでみたいに怪我は治してやれない。一つの怪我が命取りになることもある。癒し手が付近にいないときは、負傷には十分注意しろ。お前は死ぬなよ。
全部任せることになってごめんな。だけど、ランテならやり切ってくれると信じてる。
武運を』
読み終えると、また泣きそうになった。セトたちと初めて会ったときのことを思い出す。あのときも皆は、右も左も分からないランテに道しるべをくれた。今度もだ。真っ暗闇だった視界に、ぽつぽつと光が射してくる。優しく背中を押された気がする。確かに励まされた。
泣いている場合ではない。すべきことは分かった。ならば、一刻も早くここを出なくてはならない。
ナバが苦笑を寄越してきた。
「副長も人が悪いよな。それ、
「ナバの性格もお見通しだったんだろうな、セトは」
「うるせー。……惜しい人だったな」
一瞬だけ暗い顔と声をして、ナバが呟いた。引きずられて、ランテも視線を下げた。
「……やっぱり、皆もう」
「詳しい情報知りたくねーか?」
腕を組んでそう言ったナバに、急いで頷き返す。そう言えば、フィレネは中央の発表をランテに伝えただけだ。あの嘘ばかりの中央からの情報だ、信用するべきではなかった。真の情報には、皆が生きている希望が残されているかもしれない。
「うん、知りたい」
「なら、お前も知ってること洗いざらい話せよ」
「分かった。ナバも」
「いいぜ。……けど、フィレネ副長には黙っとけよ」
「了解」
「じゃ、お前からな」
「何で?」
「何でって……そうだな、後輩だからだ」
「先に話してくれないなら話さない」
「子供かよ!」
「ナバより年下らしいし」
疑う訳ではなかったが、皆が命懸けで——命と引き替えに託してくれた情報だ、無闇には話せない。ランテの強情な目に負けたか、ナバは溜息と一緒に敗北宣言を吐き出した。
「へいへい。分かったよ。面倒くせー奴だな」
ナバが改めて語り始める。
「中央がなんて発表したかは知ってんのか?」
「フィレネ副長が教えてくれた。三人とも殉職だ、遺体も見つかったって……」
「まあ、フィレネ副長はお前をここから出したくねーからな……そのことだけど、正しくはユウラ先輩とテイト教官は行方不明だ」
言葉の意味を捉えかねて、ランテは二、三度瞬いた。
「行方不明? どういうこと?」
「分からねーが、遺体は見つかってねえ、って話だ」
「生きてるかもしれない?」
「まあ、そうなるな」
大きく息を吐いた。急に現れた希望が眩いほどに輝いて、ランテの胸の内を染み渡るように広がっていく。それだけで一気に視界が開けた気がして、知らない間に頷きを落としていた。きっと、大丈夫だ。後はと、祈りながらもう一つ質問を重ねる。
「……セトは?」
「残念だが、副長の遺体は中央軍に収容されて、ケルムに運ばれたらしい」
わずかでもいい。どんな小さな可能性でも構わないから見出だしたいと、ランテはナバをさらに問い詰めていく。
「生きてる可能性は絶対にない?」
「ケルムに数人だけ残っていた北の兵が、もう身元確認を終えた。……ただ」
「ただ?」
「損傷が激しくて、顔なんかは確認できなかったらしいな。背格好と身につけてたもので、副長と判断したんだと」
「身につけてたものって?」
「北の制服と剣の鞘、あと、決め手になったのは腕章だな。北支部に副長は一人しかいない」
「そっか、腕章を……」
沈みきった声でそこまで言ったその刹那、ランテの頭の中に閃光が走った。最後の最後で、彼がユウラに残した言葉が耳に蘇る。
——お前にだから預けるんだ。無事戻れたら、そのとき返してくれたらいい。
手渡された腕章を、大事に両手で受け取ったユウラの姿も思い出す。目を一杯に見開いていた。ランテはぐいと身を乗り出して、ほとんど叫ぶように呼んだ。
「ナバ!」
「な、何だよ」
「その遺体、間違いなく腕章をつけてた?」
「だからそう言ったろ。それで副長ってことに——」
「ナバ、セトは腕章つけてなかったんだ!」
「は?」
「持ってすらいなかった。別れ際に、ユウラに預けたんだよ!」
ナバは言葉を飲み込んで、目を丸くした。そのままでしばらく思考の時間を取る。
「……それマジな話か?」
「マジだよ! 間違いない」
ランテの興奮した返事を聞き届けると、彼は腕を組んで、壁にもたれかかる。
「わざわざ遺体に腕章つけ直したりはしねーよなあ。つーことは」
「替え玉だ」
「そうとも言い切れねぇけど、ま、可能性としてはあり得るな」
身体の奥からみるみる力が
「みんな生きてるんだ! でも、じゃあ、どこに」
「わざわざ替え玉まで用意して死んだことにしたかった中央が、そりゃ一番怪しいだろうよ。中央は元々副長欲しがってたしな」
「みんな中央に捕まってるのかな?」
「生きているとしたら、な」
すくっと立ち上がったランテを見て、ナバが片眉を上げた。
「おい、どこ行こうとしてんだ?」
「中央だ! 皆を助けに行かないと」
意気込んで答えるランテに、ナバは両肩を
「待て待て。まずはちゃんと約束守れ。全部話すつったろ?」
「そんな暇ない」
「今さらちょっと話すくらい変わらねーよ。ほら、副長にも言われてただろ。慎重になれってよ。頭冷やすついでに話しとけ」
確かに、これから中央に行くのなら命の保障はない。誰かに話しておくことは必要なことだろう。ランテは渋々ながらも、もう一度腰を下ろした。
「分かった」
時折ナバからの質問も挟みつつ、激戦地での一応の経緯を語り終えると——要領を得ない説明になってしまったが——ナバは納得したように「なるほどな」と頷いた。
「ユウラ先輩とテイト教官はその叛く者とやらに勝って、どこかに潜伏してる可能性もあるんじゃねーの?」
「ナバ、オレが皆と別れてから何日経ったかな?」
「四日だろうな。アノレカが落ちた日と一緒だろ」
「四日も食糧持ってなかったし……」
ケルムから物資補給は一切していない。食糧は各自二日分かそこらしか残っていなかったはずだ。
「ま、二人も捕まってる可能性が高いか。野放しになってんなら、適当に理由つけて捜し回るだろうし。お前をそうしてるみたいにな」
最後の一言が鼓膜に引っ掛かった。ランテは率直に首を傾げる。
「え? どういうこと?」
「昨日、お前は【背教者】だって発表されたんだよ。『北支部所属の新人兵ランテは黒軍に情報を流し、アノレカ攻略に手を貸した』だとさ。北や東ならともかく、他の支部や中央の白軍に見つかったら即行で捕まるぜ。一般市民も敵に回ったと思ってた方がいい」
寝耳に水の話だった。怒りを感じるよりも、ただ呆然としてしまう。思考が再機能し始めてからは、中央はいつでも手段を選ばないんだなとひどく冷静に思った。
「分かった」
「じきに似顔絵なんかもばら撒かれると思うぜ? 人気者になるな」
軽やかに笑い飛ばすナバを見ていると、深刻な話もそうは思えない。ランテも釣られて少し笑った。
「嬉しくない……けど、ナバや、それからフィレネ副長も、オレが皆を裏切ったんじゃないって信じてくれたってことは嬉しいな」
「そりゃ、あんだけぼろぼろ泣いてるの見たら疑う気も失せるぜ。それに、お前にそんな——セト副長たちを騙せるような器用さがあるとは思えねー」
ナバは憎まれ口を叩くが、ランテの方はただ感謝で一杯だった。頭を下げて丁寧に謝意を述べると、ナバはどぎまぎと返答に窮し、視線を逸らす。「どーいたしまして」と小声で返してきた後、少々強引に話を戻した。
「そんで、セト副長とリエタ聖者が相討ちだって? こりゃますます怪しくなってきたな。相討ちで、片方の遺体がそんなに破壊されてるなんてよ」
「うん」
「しっかし、それじゃ兄貴の仇を討ってくれたのは副長か。ますますお前に協力してやんねーと」
ナバもなかなかに義理堅い。ランテは第一印象は当てにならないことを——彼を軽そうな人間だと思った——今さらながら、そして少しばかり失礼ながら実感した。それから心の中で謝っておくことも忘れない。
「何だよ?」
「何でもない。協力してくれるんだったらここから出して欲しいな。今すぐ」
ランテは語気を強めて言ったが、対してナバは冷静だ。
「中央に行くのか?」
「決まってる。皆を助けに行くんだ」
「一人でか?」
「ナバも来てくれるって?」
聞き返してやると、ナバは困り顔で後頭部を掻いた。すぐに弱気な発言が続く。
「そりゃお前……無謀にもほどがあんだろ。言っとくけどオレは、これまでユウラ先輩に一勝七敗だ。戦力としてはその程度なんだぜ」
「一勝してるじゃん。オレはユウラと十戦以上してるけど、一回も勝ったことない」
「何堂々と言ってんだよ」
「ユウラ強いし」
「そりゃ認めるが、そのユウラ先輩だって副長にゃ敵わねー。そんで副長が勝てねぇような敵が、中央には掃いて捨てるほどいるんだぜ? 無謀ったらねーよ」
「無謀でも皆を助けるにはやるしかない。オレは一人でも行く」
「お前なあ。何のために副長たちがお前を死ぬ気で守ったと思ってる」
「だったら今度はオレが皆を死ぬ気で助ける番だ」
何を言われようと、意志は揺らがない。必ず助け出して見せる。熱を増した血が、ランテの中を忙しく巡っていた。動きたくて仕方がない。
「おいおい……」
ナバは説得の手段を失くしたらしく、代わりに盛大な溜息をこぼした。
「馬鹿につける薬はねーとは、うまく言ったもんだぜ」
「皆が助けられるなら、馬鹿でもいい」
「分かったよ。お前頑固だったんだな。意外だぜ」
「協力してくれる?」
「いいぜ。だが、下準備してからな」
「下準備?」
ランテがずっと握っていたものが指し示された。
「副長が中央攻略のすすめ残してってくれただろ」
「え? これ全部やるつもり?」
「お前な、ユウラ先輩に余裕でボコられるオレら二人が、中央に真っ正面から喧嘩売ってどうにかなると思ってんのか? 断言してやるよ。不可能だ。絶対犬死にで終わる。百パーセント。骨一本残らねー。……おい、いい加減分かれ」
「そうかな」
「そこに少しでも疑問を持つお前が謎なくらいだぜ。言っとくが、オレがヘタレな訳じゃねぇからな。客観的に見てそうなんだよ。疑いようもなく」
ランテは中央がいかに強大なのか、いまだに理解しかねているところがあった。無知ゆえに勇敢で、どれだけ言葉を重ねられようと実感が湧かない。その上焦りが、ただでさえ狭いランテの視野をいっそう狭めていた。
「でも、早く助けないと」
「安心しろ。殺したきゃ最初に殺してる。無謀に突っ込んで助けられずに死んだんじゃ、何にもならないだろ。ともかく、お前は北に向かえ。誰でもいいから……いや、よくねーな。少なくともオレよりは強ぇ奴に声かけるのと、もう一つ。北の意見をまとめて来い。もちろん停戦の方向でだ」
確かに、助けられなくては意味がない。味方は一人でも多い方がいいのだろう。考えていると、ランテの頭も少しばかり冷えてきた。
「ナバは?」
「フィレネ副長の説得と、南への橋渡し、あとは……西か。西に伝手は?」
「ないけど」
「だろうな。つーことは、これもオレか……はあ」
肩を落とすナバを見て、ランテはふと閃いた。
「あ」
「何だ?」
「セトが、西を救ったのはルノアだって言ってた」
「ルノア? 女の名前だな。美人か?」
「美人だけど、今はそれ関係ない」
「うるせーな。で、その美人なら西にパイプがあるってか。聞かねー名前だが、北の新人か何かか?」
「違うけど、すごい強い。少なくともあと三日は動けないって言ってたけど、一緒に戦おうって約束してくれた」
彼女はきっと、約束は
「そいじゃ、西は任せたぜ」
「うん。なら急がないと。こっから出してよ、ナバ」
「だから慌てんな。ちょっと待ってろ。こっちにも段取りがあんだよ」
空の皿を載せたトレーを引き取ると、ナバは足早に出て行った。ランテは再び鍵のかけられた牢の中に一人になったが、もう暗い気持ちに支配されることはなかった。それどころか、ナバが戻ってくるまで、逸る気を鎮めるのに苦心することになった。
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