哀の章

1:無力の代償

【Ⅰ】-1 報せ

 夜、隠れて鍛錬を積むのが日課になっていた頃だった。その日も建物と建物の間のわずかな隙間に潜んで——ここなら衛兵が巡回に来ても見咎められない——剣を振るっていたら、突然何かが後ろからランテを包み込んだ。


「うわっ」


 驚いて、剣を取り落としてしまった。慌てて背中に手をやって、その何かを掴み取る。淡い紫の紗だった。風に乗ってここまできたのだろう。羽織物のようで、直前に誰かが纏っていたらしく、まだ温かい。ほんのりと香の匂いがするところから察するに、高貴な人の持ち物だろう。バルコニーへ出たときに落としてしまったのかもしれない。困っているはずだ。そっと、ランテは秘密の特訓場所から抜け出た。城を仰ぎ見て、人の姿がないかを確かめる。すると三階の端から二番目のバルコニーに、女性が一人佇んでいるのを発見した。生地の薄そうな白い夜着一枚でいる。きっと彼女の物だ。紗を頭の上に掲げて、大きく振ってみる。気づいてくれるだろうか。


 女性は、ランテを見つけると片手を口元に当てた。驚いたらしい。その後ちょっと腰を折る。礼のつもりだろう。持って行きましょうか、と声には出さずに口を大きく動かして問うたが、女性はふるふると首を振った。左右を見渡し何かを注意深く窺って、それから両手を胸の前で組む。


 その瞬間、光が弾けて、すうっと尾を引いた。バルコニーから走った光の筋は一直線にランテの元まで下りてくる、が、そこで止まりきらずに胸にぶつかった。反動で後ろへ倒れたかけた華奢な身体を支える。紗と同じ香の匂いが漂い、揺れた長い髪が腕をくすぐった。


「あ、ごめんなさい。まだ慣れなくて」


 清い光の中から現れた艶やかな紫の瞳に、ランテはしばし目を奪われた。紗よりもなお、滑らかで美しい色をしていた。ふっと吸い込まれそうになる。


「……あの?」


 その瞳がわずかに細められて、ランテは己の粗相に気づいた。急いで腕を放すと同時に目を逸らす。あの部屋があったのは、確か王族の個室が並ぶ一角だ。彼女は王に連なる身分のお方なのだろう。新米の、しかも見習い兵のランテだったが、少しは礼を知っている。すぐさまひざまずこうとしたが、その前に止められてしまった。


「どうかそのままで。羽織を、ありがとうございました」


 そう言って微笑んだその人は、予想していたよりもずっと若かった。否、いっそ幼い。少女と呼んでも差し支えないほどの年と思われた。年上ではあろうが、ランテとそう大差ないだろう。白と銀の間のような髪が、月の光を纏って優しくも眩い。それで納得した。


「ルテルアーノ」


「え?」


「ルテルアーノ様でしょう?」


 王妹ルテルアーノは滅多に民の前に姿を見せることはなかったが、その神々しさはランテも伝え聞いている。光り輝くような美しさをお持ちだと、もっぱらの噂だ。その通りだと思った。


 彼女は少し返事を躊躇ったようだった。


「どうして、そう思われたのですか?」


「御名の通りのお方だと思って。確か、神聖語で光という意味だったはずです」


「……ありがとうございます」


 戸惑いながらも緩やかに微笑んで——笑むといっそう美しい——それから彼女は、ランテが腰に提げている剣を見た。


「あなたはどうしてここに?」


 そう言えばランテは今、兵の証である鎧を着ていない。怪しい者と思われてしまってはいけないと急いて答えた。


「オレ……じゃなかった、ええと、そうだった、私は——」


「オレ、でいいですよ」


「でも」


「いいんです」


 彼女はふわりと花が開くような微笑み方をする。それだけで優しいお方なのだろうな、と思わせた。


「じゃあ、オレで。オレ、新米の見習い兵なんです。毎日そこで剣の練習をしてるんですけど、その布が降ってきて」


「ふふっ」


 優美に口元に手を当てて、彼女は楽しげに笑う。


「ルテルアーノ様?」


「いえ、その場所、私も昔よく使ってたんです。あなたと同じように、秘密の特訓場所として」


「特訓? 何か練習してたんですか?」


「ええ、呪を」


「呪を? そういえばさっきも、光の呪を使ってましたね」


 王族はかの始まりの女神ラフェンティアルンの血を引く。呪の才能があっても何ら不思議ではないのだが、この平和な時代に、それも王族が呪を学ぶのは不思議だった。


「はい。秘密ですよ」


 美しい姫は紅色の唇の前に白く細い指を立てて、無邪気そうに言った。そして。


「ときどき、私も来てもいいですか?」


「えっ」


「ご迷惑でしょうか?」


「いえ、そんなことは。でも危険で」


「あなたのお話をお聞きしたら、私もまた光呪の特訓がしたくなってしまって。一人でするよりも、あなたがいてくださった方が楽しいですし。ご迷惑でないのなら、ぜひご一緒させてください」


 話が思わぬ方向に進んでいる。驚いたが、ランテとしても一人よりはという思いはあった。また、やはりなぜ王族が呪を磨きたがるのかにも、興味があった。それから——


「オレは構いません」


「ありがとうございます。あなたのお名前は?」


「ランテと言います」


「よろしくお願いしますね、ランテさん」


 そうやって笑った姫は、これまで見たことがないほどに美しかった。


 以来、ほとんど毎夜のようにその姫はランテに会いに来て、月が一番高いところを過ぎるまで一緒にいた。訓練もしたが、それよりも、お互いの境遇や生活について語らう時間の方が長かった。それはとても楽しくて、いつの間にかランテは夜になるたび一人剣を振りながら、姫が来るのを心待ちにするようになっていた。




 気付いたとき、ランテは鉄格子に囲われた、薄暗くて小さな部屋に——おそらくは牢の中にいた。なかなか覚醒しきらない脳を強引に動かして、今、自分がどうしてこんなところにいるのかを考える。記憶は闇に支配された洞窟を彷徨さまよっていたところで、何かに断ち切られたようにぷつりと途切れていた。その間見ていたのは、夢なのか記憶なのか定かではないが、おそらくは後者だったのだろう。一応洞窟は脱出できていたようだ。


 ここは、どこなのだろう。何も覚えていなかった。しかし、こうしてはいられないのは分かる。皆は無事に激戦区を脱することができたのだろうか。不安で不安で仕方ない。


「あの、すみません」


 鉄格子の向こうに兵を見つけた。声をかけられたことに驚いたらしいその兵は、一度ランテを見たが、返事をしてくれない。すぐにどこか別の方向を見てしまった。


「おい、副長を呼んでこい」


 副長という言葉に希望が差した。セトのことだろうか。ところが、兵の制服を観察して落胆する。制服の二枚襟の下側は緑色をしていた。東の支部色だ。ここはどうやらレベリアか、あるいはどこか別の東の領地なのだろう。ということは、副長というのはおそらく。


「お目覚めですのね」


 見計らったようなタイミングで、フィレネが現れた。無表情だった。


「オレ、なんでこんなところにいるんですか?」


「不思議な質問ですわね。覚えていらっしゃいませんの?」


 ランテは首を振った。


「何も」


「やはり、黒の使徒から闇呪を受けていらっしゃいましたのね」


 違うと、ランテは思った。ルノアはランテに呪を用いなかった。記憶がないのは、ランテがあちら側——己の内側を見ていたからだ。


「ここはレベリアですわ。ベラーラから抜け道の到着地点を聞き出して、待ち伏せさせていただきましたの。何を聞いてもお答えになりませんでしたから、闇呪をかけられているものと判断し、連行後、安全を期して牢に繋がせていただきました。ごめんあそばせ」


「皆は?」


「皆、とおっしゃいますと?」


「セトとユウラとテイト。きっと皆も無事に脱出して」


 フィレネの表情は一切変わらなかった。躊躇う間もなく、これまでと同じ淡々とした口調で、恐ろしいことを述べる。


「その三名については、殉職のしらせがありましたわ」


「……え?」


 言葉はランテの耳を通ったが、理解されることを拒んだ。ワグレですくった白砂のように、さらさらと流れて抜けていく。


「ですから、殉職なさったようです」


「じゅん……しょく……?」


「中央の発表によると、黒女神が自らアノレカへ出陣。圧倒的な戦力差を目の当たりにして、リエタ聖者とセト北支部副長はアノレカ放棄を決定。両名は兵を敗走させる時間を稼ぐため寡兵で戦線に残り、散華された、とのことですわ」


 三度頭の中で繰り返してようやく、意味を読み取ることができた。ランテは激しく首を振る。


「そんなの、でたらめだ」


「ええ、わたくしたちも中央の発表を鵜呑みにするつもりはありません。ですけど」


 フィレネは冷静だった。声の調子も一分すら乱れない。死に慣れ切った軍人の姿が、そこにはあった。


「あなたが妙な期待をお持ちにならないよう、先に言っておきます。三人が生きている、という可能性は万に一つもありませんわ。残念ですけれど」


 残酷な宣告がもたらした衝撃は、ランテの思考を完全に無にしてしまった。魂が抜け落ちてしまったように茫然と座り込むランテに、続いたフィレネの説明が追撃を与える。


「遺体が収容されておりますの。状況はともかく、三人が亡くなったという事実は揺らぎませんわ」


「そんな……」


「詳しくお話を伺いたいのですけど、今のあなたを問い詰めるのは酷というものですわね。また明日参りますわ」


 あなたは東で保護します。事務的なフィレネの口調はここでも変わらない。


「申し訳ありませんが、しばらく牢にいていただきますわね。呪封じもつけたままにさせていただきます。あなたの安全のためですのよ。悪く思われないで」


 フィレネが言ったことは、ほとんどランテの耳には入っていなかった。彼の中ではずっと、仲間との別れの瞬間が繰り返されていた。


 ——ランテ、頼むな。


 ——ちゃんと生き延びるのよ。


 ——ランテなら一人でも大丈夫だよ。


 後悔と自責が大波のように押し寄せてきて、ランテを飲み込んだ。とても息苦しい。そのまま一筋の光さえ射すことのない闇の底に引きずりこまれて、やがて何も分からなくなる。


 励ましてくれる人も、叱咤してくれる人も、慰めてくれる人も、今はもう、ない。


 そうしてランテは空っぽになった。空っぽのまま、静かに泣いた。泣いていることに気付かないまま、延々と涙を流し続けた。


 ずっと、独りで。

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