【Ⅲ】-2 抜殻
手強い。
少しずつ数を減らしていくことはできている。そろそろ残り半分にはなるだろう。個人の力量ではこちらが確かに上回っている。が。剣士を薙ぎ倒した瞬間、死角から放たれた矢がユウラの左脚を捉えた。これで三度目だ。敵の中に一人、かなり腕の立つ弓使いがいる。いつも的確に避けられない部位を狙ってくるのだ。本当ならば真っ先に仕留めたいのだが、敵の前衛がそれを許さない。テイトは呪使いを相手するのに全力を挙げている。ユウラのところへ一度も呪が飛んでこないのは彼のお陰であり、これ以上を求めるのは酷な話だ。またユウラが無理に弓使いを倒しに行けば、今度はテイトのところへ前衛がなだれ込むことになる。ユウラは素早く矢を引き抜いた。今は捨て置くしかなかった。
仲間に風呪使いがいれば、弓使いを脅威に感じることはない。【風守】一つであらゆる攻撃を完全に防ぐことができるからだ。対処に不慣れであることを実感すると同時に、今ここに彼がいないことを改めて認識せざるを得なかった。
心配ではないのか? 心配に決まっている。また無茶をしているに違いないから。しかしその心配が何になるだろう。心配が助けになるのならいくらでもする。そうではないのだから、今ここで自分に出来ることを全うするしかない。それを自身へ何度も繰り返し言い聞かせながら、ユウラは槍を振るう。きっと、余計なことを考えないためだった。
槍を叩き折ろうとした斧使いに、
続いて襲ってきた長剣使いを翻弄しながら、ユウラは残りの敵を目算した。どうやら非戦闘員らしい老女を含めて、立っている敵は十だ。今は姿を見せない
「テイト」
長剣使いを切り倒して、襲ってきた矢を避けた直後、ユウラはテイトに合図を送った。アノレカの方角を見たことで伝わったのだろう、テイトは首肯を返してきて、しかしすぐに硬直した。彼の緊張した表情で、ユウラは事態の悪化を知る。新手だろうか。
「あっちはまずいよ。南下して東の陣へ——」
テイトが口を噤んだ。すぐ後に、たった今目指そうとした方角で光が照ったのを確認する。【光速】だ。誰かが近づいてくる。足は止めるしかなかった。背中を追いかけてきた剣を振り返って受け止めて、ユウラが再びその方向へ顔を戻せば、長身の男が一人、佇んでいた。
「クレイド聖者」
テイトの呟きを聞く。誰もが動きを止めた。そうさせるほどに凍てついた威圧感を、その男は放っていた。静まった場を見渡して、クレイドは冷笑を浮かべる。
「あの男は逃がした後か」
ランテのことだろう。彼ら中央の人間にとっては不都合な事実であるはずなのに、クレイドの声はさも愉快げだった。
このまま戦って勝ち目がないことは明らかだ。しかし、敵は【光速】を持つ。逃げることも叶わない。背を見せて無様に倒されるよりはと、ユウラは槍を握り直した。そのとき、クレイドの左手に握られていたものを見つける。一振りの剣。背が粟立った。
「……その剣は」
声は、まるで首でも絞められているかのように頼りなくて、今にも途切れそうだった。見覚えがあるのだ。とても。
「リエタを始末に来たのだがな」
ユウラの足元へそれが投げつけられた。何度か揺れて、やがて静かに横たわる。白軍で通常支給されるものよりも長くて少し細い、その剣は、紛れもなく。
「なぜ、これを?」
聞きたくないと思った。剣には柄の方から血が流れた痕があった。鍔でも止まりきらずに、刃まで滴っている。幾筋も、幾筋も。まだ乾いていない新しい血痕だ。敵を屠ったのではなくて、使い手の方の負傷を示す汚れ方だった。何より、この剣を敵であるクレイドが持っているということは。
「答えて!」
ユウラ自身も驚くほどに、大きな声が出た。しかし震えている。構えた槍もまた同じように震えた。心臓が煩くて、痛い。
「死体を持って来てやった方がよかったか? 見られた物じゃなかったがな」
クレイドの冷笑が深まる。地面が大きく揺れているかのような錯覚が、ユウラを襲う。身体に力が入らない。
「嘘よ。……信じないわ」
「支部副長ごときが聖者と相討つなど、俺も信じ難くてな。手間が省けて助かったが。お前たちの隊長は存外やるらしい」
——一度戦った相手だ。無事勝ったらオレも後を追うからさ。
セトは、確かにそう言った。あっさり死んだらただじゃおかないと言ったユウラに、覚えておくとも答えた。セトはこういう嘘はつかない。絶対に、つかない。そう、だから、きっと、これは何かの間違いで。
「ユウラ、うろたえないで。剣なんていくらでも複製できる」
「お前は呪使いだろう。血に宿る呪力で真贋は容易に判別できるはずだが」
テイトが押し黙る。それが答えだった。錯覚が酷くなる。自分はちゃんと立っているのだろうか。
息を吐いた。眼を閉じてユウラは己を叱る。自失してどうする、何の意味がある。俯くな。今自分にできることは何だ? 叱咤の言葉をひたすらに繰り返して心を殺す。悲嘆も茫然も自責も、今は必要ない。だから何もかも忘れるのだ。
「ランテと言ったか。あの男は中か?」
「知らないわ」
「どこに繋がっている?」
「知らないわ」
「ならば聞き出すまでだ」
「無駄よ」
片手で剣を拾い上げた。間違いなくセトの剣だった。預かって、腕章と共に持ち主に返さなくては。抜き身のまま腰のベルトに挿す。嘘でも幻想でもいい、立っていられるならそれを信じよう。ユウラは槍を握り直した。
「何があってもあたしたちは喋らない。殺したいなら殺せばいい。ただし、大人しく殺される気はないわ」
「ワグレで俺とお前たちの力の隔たりは理解しただろう。それでも武器を取るのか?」
「黙って膝をつくほど、賢くもなければ臆病でもないのよ」
テイトと目を見交わす。負けの見えた戦いだった。それでも戦わねばならない。そっと剣に、そして腕章に触れた。生きていると信じてる。だから、あたしたちも生き残らなければ。
遥か遠くで雷鳴が轟いた。
砕けた岩で塞がれた出口は、一切の呪を受けつけなかった。術者の力量に差がありすぎた。素手や剣で岩を一つ一つ動かそうとしても、びくともしない。テイトはまだこの岩壁に呪力を通わせているのだろう。
今この壁の向こうで何が起きてるのか全く分からない。焦っても、ランテには何も出来なかった。こんなときこそあの不思議な力を使えればと思うが、それもできない。
「どうして一番必要なときに使えないんだ!」
岩壁に拳を叩きつけた。もう何度目か分からない。痛みが滲んだ。無力を再認識するだけだった。
「いつまでそうしているつもりですか」
そのとき唐突に、闇の中から声がした。
「ルノア」
光を呼ぼうとしたが、呪が使えない。声は聞こえるのに、いつも分かるはずのルノアの存在は感じなかった。
「ルノア、この壁を何とかしたいんだ。どうやったら」
「その壁すらどうにもできないのに、戻って何をするつもりなのです」
「戻れば、オレだってきっと盾くらいにはなれる。このままここでこうしているなんて耐えられな——」
「あなたが戻れば足手纏いです」
言葉が堰き止められた。見ることを恐れて必死に目を背けていたものを、突然目の前に突きつけられる。頭の中が白一色になった。
「戻りたい、それはそうでしょう。しかしあなたが戻っても何にもなりません。更なる窮地を呼ぶだけです。よく考えてください」
「……このまま一人で逃げるのが一番いいんだって、ルノアはそう言いたいんだ?」
「例えば戻ったあなたが盾になろうとしたとして、彼らがそれを許すと思うのですか?」
「それは」
「彼らは許さないでしょう。それどころか、身を挺してでもあなたを守ろうとするはずです。あなたは彼らにそんなことをさせたいのですか?」
「違う、でも」
「違いません。……私もここにこうして声を届けるのに力を使っています。あなたが戻ろうとするなら止めますが、それにも力が必要です。本当は私も結界を張ることに集中したい」
「……ルノア」
ルノアの言葉は、どれもが事実ゆえに鉛のような重さになってランテに圧し掛かる。吐き出せない言葉と膨れ上がる感情も内側からランテを
戻りたい。戻って、皆の助けになりたい。四人一緒に無事に帰りたい。でも、オレのせいで皆が苦しむことになるのなら、戻れない。
「オレは……」
一体どうすれば。
「帰りなさい、ランテ。帰って、あなたはあなたにできることをするのです」
本当に、それでいいのだろうか。このまま踵を返して、一人戦場を離れることが、本当に、最も正しいのだろうか。
「十数える前にここを動かなければ、【幻惑の呪】をかけます。あなたの意思を奪って、強制的に帰ってもらうことにします。……十、九、八——」
皆の姿が順繰りに蘇っては過ぎった。日にして数えれば、短い時間だったかもしれない。でも、大切だ。彼らを見捨てて一人、逃げろというのか。できない。できないのだけれど。
「七、六、五」
ルノアの言う通りだった。戻ったところで、ランテには何も出来ないことは明らかだ。これまでも、役に立ったことがあるとしたら、あの妙な力がランテを乗っ取ったときだけだ。ランテ自身の力とは言えない。それでも皆の助けになるのならと思うが、あれは自分の意志で操ることは出来ない。できなければ、本当に迷惑をかけるだけだ。
「四、三、二」
ランテは無力だった。どうしようもなく無力だった。どれだけ自分に怒れども、自分を呪えども、変わらない。無力でしかなかった。
「一」
「ルノア」
辛くて苦しくて情けなくて、何より悔しかった。己が腹立たしくて、呪わしくて仕方ない。だけど。
「……帰る」
認めるしかない。
「自分で、帰る」
惨めな言葉が洞窟の中一杯に木霊した。ルノアは少しの間、答えなかった。
「……分かりました」
岩壁に添えていた手を放す。この向こうで皆は戦っている。その皆を残して、ランテは一人、これから逃げ帰るのだ。
「……オレは……」
無力だ。無様だ。愚かだ。薄情で、臆病で、浅はかで、卑怯だ。
共に戦場に向かっていながら、オレは、オレだけが、役立たずだった。足手纏いなだけだった。何もできない。何も、できなかった。そのオレが、真っ先に捨て駒になるべきだったオレが、皆に命懸けで庇われ、逃がされ、生かされて、こうして一人安全なところにいる。怪我らしい怪我もなく、ほとんど命を危ぶめることもなく、のうのうと一人だけ。
「ああああああああっ!」
言葉にならない叫びが響く。息が苦しくなるまで叫び続けても、一つも変わらなかった。自棄になって踏み出した足には、何の感覚もない。
そのまま抜殻のようになって、ランテは独り、黒を固めたような暗闇へ身を投じた。
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