【Ⅲ】-1 庇護

 ランテは二度、立て続けに光速を使った。自分に可能な最大限の距離を飛ぶ。距離も速さもまだまだセトの疾風の足元にすら及ばないが、それでもずいぶん上達した。たどり着いたのは切り立った崖の前だ。この岩壁に沿って歩けば、洞窟の入り口を見つけることができるはずだった。


「気のせいかしら」


 濡れた髪を払って、ユウラが周囲を見渡す。


「何が?」


「今、人の気配を感じた気がしたのよ。でも、ここは中央担当区域とはいえ、指定戦闘区からはかなり外れてるわ。人なんているはずが」


「呪力は感じないけど、注意しておいたほうがよさそうだね。行こう」


 入り口を見逃さないため、ここからは歩いて進むことにする。やはり気になるのか、ユウラが何度か振り返っては変事がないのを念入りに確認してした。


 ちょうど入り口らしき裂け目を見つけたときだ。一番先を歩いていたテイトが、ふいに立ち止まる。


「テイト?」


 ランテが呼び掛けると、テイトはこちらへ背を見せたままで応じた。普段の彼は、いつだって相手の目を見て話す。違和感を覚えずにはいられない。


「ごめん、なんでもないよ。……雨が、止んだなと思って」


「ほんとだ、陽が射してきた」


 確かに、いつの間にか顔を打つ雨粒が去っている。仰げば薄い光が天から幾筋も注いでいて、ひどく美しい。思わず見とれそうになった。


「テイト、話して」


 唐突なユウラの言葉に、ランテは一人首をひねった。一体何の話だろうか。共に過ごした時間の差か、それとも単に鈍いだけなのか、彼女らはランテには分からぬところで会話を交わすことが間々ままある。勝手ではあるが、それを寂しいと感じる。


「本当に、何でもないよ。何でもないんだ」


 テイトはなおも振り向かない。一語一語をしっかりと刻みつけるようにして答えた。その返事を聞いた刹那、泥水が滲み出すように嫌な予感が湧き出てランテを襲った。嫌がる頭を無理に動かしてその不安を言葉に換えて、まさかと首を振る。誰かに確かめようとするが、喉元で声がつかえて出てこない。


 テイトの二度目の拒否にも、ユウラは引かなかった。さらに追及する。


「酷なことを頼んでるわ。でも、知っておく必要があるのよ。結果によっては聖者が追いかけてくるかもしれない。……そしたら今度は」


「聖者は追って来ない」


 テイトは急いて返事して、ユウラを遮った。朗報であるはずなのに声が明らかに陰っていて、ランテの不安は募る一方だ。


「……そう」


 全て察してだろう、ユウラは一瞬だけ苦しげな表情をしたが、瞼を閉じて小さく首を振った。再び目を開いてからは、何も聞かなかったような顔をして、声色すら変えずに言う。


「なら、行きましょ」


 進行方向に身体を戻して、二人は揃って歩みを再開する。ランテ一人が取り残された。うずたかく積もった不安が重く圧し掛かって、どうしても足を踏み出せない。


「……セトは?」


 堪え切れず、ぽつりと聞いた。最初にユウラ、次にテイトが足を止めたが二人とも答えない。絡みつくように暗くて重みのある沈黙だけが流れる。


「戻ろう。ひどい怪我をしてるかもしれない。オレ、もう一度光速を」


 元の道へ戻ろうとしたランテを引き止めたのは、ユウラだ。


「ランテ、行くわよ」


「でも!」


 ランテを掴んだ腕に、その瞬間だけ力が入った。痛みが走るほどの強さだった。ユウラが俯くと、濡れた髪が肩から滑り落ちる。引き結ばれた唇が、耐え切れずに震えたのが見えた。


「……あたしだって」


 正確には聞き取れなかったが、か細い声はたぶんそう言ったのだと思う。その声に、頬を強かに打たれた気がした。彼女の方がもっとずっと、辛いに決まっていた。


「行きましょ。あんたを生きて帰さないといけないのよ。何に代えたって」


 こんな言葉を言わせることになったのは、ランテのせいだった。自覚して、深く反省する。ユウラの声には強さが戻り、感情は一分も滲まない。だからこそ悲壮だった。腕章の入る左のポケットに、小さな皺がいくつも寄っているのを見る。何度も何度も握り締めたのだろう。居た堪れなくなった。


「ユウラ」


「何」


「ごめん」


「……何謝ってんのよ」


 急ごしらえで貼りつけた苦笑いをユウラは寄越した。決して弱さを見せまいと、どうにか強がって取り繕っているのが分かる。


「大丈夫よ。あいつ、こういうときの運だけは強いわ。これまでも、どんなに無茶したって死ななかったんだから。大丈夫」


 たぶん、自分に言い聞かせるための言葉だったと思う。わずかに残った迷いを振り切るように鋭く踵を返して、しかし次の瞬間、ユウラは立ち止まった。


「ランテっ!」


 素早く向き直って、ユウラはランテを思い切り突き飛ばした。身体がひとりでに後ろに飛んでいく。そうしながら、ランテを押し出したユウラの腕に、どこかから急に割り込んできた一矢が深く突き刺さるのを見た。


「テイト、右後方!」


 一切怯まず、ユウラはすぐさまテイトに指示を出すと矢を引き抜いた。血が飛び散ったが眉一つ動かさないで、矢を棄てて背中の槍へ腕を回す。ユウラの示した場所で、テイトの炎呪が炸裂した。敵だ。ランテもいつまでも尻餅をついている場合ではない。立ち上がって剣を抜き放ち、炎が赤く燃え盛る方へ顔を向ける。


「北の兵が、こんなところに何の用か」


 炎の影から杖をついて出てきたのは、背が低く腰の曲がった老女だった。ほつれた長い白髪が風に揺れている。彼女一人ではない。奥には十、いや、もっと。ざっと目算する。どうやら三十は下らない。あの中の誰かが、今しがた矢を放ったのだろう。中央兵かと思ったが違うようだ。彼女らが纏っているのは、淡い橙の衣——以前エルティの教会で会ったシスターと同じ身形をしていた。


「それはこっちの台詞よ。どうして神僕がこんなところにいるの? それも武器なんか持って、何のつもりよ」


「我らは神僕であって神僕ではないのじゃ。我らは【そむく者】と呼ばれている」


 皆、意味を解しかねたようだ。代表してテイトが問う。


「叛く者? 背教者とは違うんですか?」


「違う。我らは選ばれなかった。しかし我らこそ真に命の神を尊ぶ者」


「命の神は戦いを忌むべきものとしていたはずです。武器を取るあなたたちが、その命の神を信仰するとはとても思えませんね」


「白軍は力を持った。神教を存続させるためには、白軍に取り入らねばならぬ。我々はこの手を汚してでも神教を守ることを望む、真の教徒ぞ」


「たいそうに御託を並べてはいるけど、要するに中央に屈したんでしょ? くだらない。それで、その叛く者とやらがあたしたちに何の用?」


 ユウラは毅然として答えた。構えた槍の切っ先は、微動だにしない。


「我々に与えられた役目は、戦の地で背教者を裁くことじゃ。そなたらを捕らえ、中央へ突き出そう」


「完全に中央の犬に成り下がったってわけね」


 最も老女に近い位置に居た者が、急に大きな声を上げる。


「合図を放て!」


「させないわ」


 ユウラの反応は速く、すぐさま右手を掲げた呪使いを阻もうと駆け出したが、そこへ矢が五本、タイミングと狙いを少しずつ上手くずらして放たれた。ユウラは身体の前に槍を立てて、三度回転させることで全て防いだが、足は止めることになってしまう。ランテとテイトが動き始めたときにはもう、合図の閃光が高々と上がった後だった。援軍を呼んだのだろう。


「……そこそこできそうね」


 武器を持った叛く者たちが、老女の前へ次々と出てくる。構えは様になっていて、ユウラの言うようにかなり戦闘経験があるように見えた。老女の説明が真実なら、彼女らはここで命令に背いた白軍たちを裁いてきたことになる。裁かれる者以上の実力を持たないと、それは不可能であるはずだ。強敵かもしれない。


「ユウラ、どうする?」


「時間がかかりそうだわ」


 ユウラとテイト、二者の間で沈黙の会話が交わされる。何を確かめ合ったのかはランテにはさっぱり分からないが、テイトは納得したらしく、重々しい頷きを一つ返した。


 一歩、ユウラが間を詰めたときだった。突如老女が耳が痛むほどの金切り声を上げた。


「寄るでない!」


「何?」


 老女の顔は真っ赤に上気している。息を切らして興奮した様子で手にしていた杖を持ち上げて、まるで貫かんとでもするように勢いよくユウラを指し示した。


「そなたらは穢れている。あの下劣な者の呪によって。近づくな! 我らまで穢れてしまう」


 目を一杯に見開いて唇を激しく震わせた異様な形相に、ユウラの動きも止まる。構えた槍はそのままに、静かに問うた。


「……下劣な者?」


「尊き癒しの力を宿しておきながら身篭ったあの売女の息子じゃ。あのような者が存在するだけでおぞましいというのに、あまつさえその身で癒しの呪を行使しようとは……おお、汚らわしい」


 一瞬思考が停止する。それほどに信じられない言葉を聞いた。猛烈な怒りが一気に滾って、ランテを突き動かす。


「黙れっ!」


 勢いのままに走り出したランテの目の前へ、槍の柄が飛び込んできた。


「耐えなさい」


「ユウラ、なんで!」


 赤い瞳の中で、抑え切れなかった怒りが渦巻いているのが見えた。槍の柄は溢れた力に揺れている。それでもユウラは耐えていた。しかし、ランテの頭は一向に冷えない。あんなにひどい侮辱を聞いておいてじっとしていられるほど、大人ではない。許せないと思う。


 老女はさらに心無い言葉を重ねる。


「どうやら聖者と相討ったようじゃな。ほんに良かった。これでようやく歪められた理が正され、我らも安心して——」


 もう我慢できない。制御を外れた怒りに、全身の血が逆流しているのではないかとすら思う。ユウラの槍を力ずくで押しどけて、ランテは叫んだ。


「言わせておけば!」


「ランテ!」


 伸ばされたユウラの腕を振り払ってランテは再び駆け出したが、今度は赤くて熱いものが視界一杯に広がって行く手を阻んだ。炎だ。振り返ると、テイトが右腕を掲げている。だが、彼はどうやらランテを止めようとしたのではなく、老女を狙ったものが敵の防御呪に防がれて逸れた結果らしい。


「……テイト」


 ユウラが呼ぶが、テイトは応じない。地を焼く炎越しに、叛く者たちを強く睨みつけていた。こんなに怒ったテイトは初めて見た。驚いて、ランテは己の怒りも忘れて立ち尽くす。


「消炭にされたくなければ、それ以上口を開かないでください」


「我々は事実を述べたまで」


「では僕も事実を述べましょうか」


 炎の塊が消えたが、誰も動かない。テイトの声は落ち着いていたが、怒りが収まっていないのは険しい顔を見れば分かった。


「呪というものは確かに遺伝もしますが、受け継ぐ子の方にその資質があったときのみです。選ばれなかったあなた方と違って、セトは選ばれたんですよ。あなた方が何を言っても、負け惜しみから来るひがみにしか聞こえません」


「何を」


 老女が口を挟みかけたが、テイトは意に介さない。


「僕はセトほど優れた癒し手には出会ったことがありません。才能ももちろんですが、気が遠くなるくらいの地道な努力を積み上げてこそ手にした腕でしょう。支部にも町にも——それどころか北地方全域に、彼によって命を救われた人間が数え切れないほどいます。そういうことを何一つ知りもしないでそんな考えに至るあなた方の方が、よほど汚らわしい。あなた方のような人間が癒し手にならなくて良かったと心から思います」


 しばらくの間、叛く者たちは身動き一つしなかった。俯いた彼らの表情には、怒りというより、何か悲しさのようなものが湛えられているように見える。


「そなたこそ、我々がどのような目に遭ってきたかも知らずに」


 答えた老女にも先刻の激しさはなく、どこか寂しい声をしていた。何があったのかは知らないが——神僕は、癒し手になれるか否かで位が決まるという。癒し手になれなかった彼らの扱いはひどいものだったのかもしれない——あそこまで言っておいて、今さら許すことなどとてもできない。


「ごめん」


 敵が改めて臨戦態勢を取る。テイトがユウラとランテを順番に見て、真面目な顔で謝った。目にはまだ怒りが名残を引いている。


「いいわ。あたしも清々したもの」


 ユウラが肩をすくめて応じた。


「怒られるね。セトに」


「何で?」


 ランテが聞いてみると、テイトは苦笑を深めた。


「『オレのことで喧嘩買うな』っていつも言ってるんだ。いちいち取り合ってたらきりがないから、言わせておけばいいって」


「あたしも乗ってあげる。一緒に怒られましょ」


「オレも」


 進み出たユウラに倣ってランテも二、三歩足を進めるが、その途中で腕を引かれた。


「あんたはこっち」


 強引に後ろへ引っ張られる。とても強い力だ。


「テイト!」


 ランテがよろけて足をもつれさせてる隙を突いて、ユウラが叫んだ。テイトは既に呪の準備を済ませている。


「ランテ、ごめん」


「一体何を——わっ!」


 謝罪の直後ランテの足元に広がったのは、【補助の呪】の——否、その上位呪の【強要の呪】の紋だった。紋の上に立つ者に呪を強制的に使用させる呪だと、テイトから習っていた。身体の内側から勝手に力が引き出されていく。二人がやろうとしていることを悟って、ランテは息を呑んだ。


「そんなっ!」


 抗議の声は続かない。このままでは彼らの思うがままになってしまう。全ての力を精神に集中して必死に抵抗するが、駄目だ、力は漏れ出て行く。滲み出した光が身体を包んでいく。


「道は分かるでしょ? ちゃんと生き延びるのよ。あんたは自己評価が低いわ。もっと自信持ちなさい」


「そうそう。それに、ランテにはまだまだ伸び代もあるし。これからも鍛錬怠らないようにね」


 嫌だ。こんな別れの言葉じみたものは聞きたくない。耳を塞ぎたい。大声で遮りたい。


「こんなやり方してごめん。でも、ランテなら一人でも大丈夫だよ」


「三人で帰るわ。それまで北のこと、頼んだわよ」


 ランテの必死の抵抗も虚しく光は強まる一方だ。身体が動く、光速が使われようとしている。ランテを洞窟の方へ連れて行くつもりだ。抵抗を続けるが、駄目だ、もう。光が溢れ出る。


「ユウラ! テイトっ!」


 絶叫していた。全力で拒否しているのに、無情にも光速は発動する。二人が光の奥に霞んで、すぐに姿かたちが分からなくなる。


 なぜこんなことになっている? どうして自分は何も出来ない? 問いかけは己の内でただ繰り返されるばかりで、どれだけ願えど動き始めた身体を止める助けにはならない。


「なんでっ!」


 押される。何もかも光の洪水に流れていく。抗って踏ん張ろうとした足も、精一杯伸ばしきった腕も、全て。


「オレも一緒に戦う! 戦わせて!」


 ついには、声を限りに叫んだ、その言葉まで。


 光の色一色になった視界に、二人が最後に見せた微笑が蘇った。優しさと、そして、覚悟の滲んだ——


 胸が騒ぐ。どうしようもなく、痛いほどに。ここで別れたら絶対に後悔する。分かるのだ。このままではいけない。何としても戻らなければならない。強く、強く、願う。


 止まれ。


 ランテの内側で進もうとする力と止まろうとする力が激しく相克し合って、ひどく混乱する。一瞬何が何だか分からなくなって、一際強まった光が日輪の如く燦然と輝いた。


 眩くて閉じていた瞼を開く。まず岩壁が目に入った、が、首を後ろへ返せばまだ傍に出口が見えている。今すぐ駆け戻れば合流できる、そう思った矢先だった。


 轟音が幾重にも重なって響き渡る。地面が、岩壁が、生き物のように揺れ動く。立っていられなくなって、ランテは膝をついた。そうしながら、出口から差し込んでいた薄光がどんどん狭まっていくのを見る。まずい。焦燥に駆られるがままに立ち上がる、走り出す、しかし、すぐに大きな揺れに地面へ投げ出された。両膝をしたたかに打ちつける。光が小さくなっていく。このままでは間に合わない。痛む足に鞭打ってまた立ち上がるが、大地の震えがまっすぐ走ることを許さない。バランスを取り損なって何度目かに転んだ瞬間、光の全てが消え失せた。


「なんで……」


 出口を塞いだのはテイトの呪だ。ランテを逃がすために、彼は自分たちの退路を断つことまでしたのだ。


 ——目の前で何人殺されてようが、必要ならお前はそいつらを見捨てて逃げないとならない。たとえそれが顔見知りの——オレやユウラやテイトだったとしても。


 不意に蘇ったのは、レベリアでセトが諭すように言った言葉だった。拳を握り締める。絶対にそんなことはしたくないと思っていたのに、この状況はどうだ? 仲間に庇われ続けて、今では暗闇の中で一人なす術なく、膝をついているだけだ。


 ——命を大切にしてください。あなたは希望だ。


 希望? 何一つ出来ないオレが希望? ここでこうして座りこんでいるだけのオレが希望だって? そんな馬鹿な話があるか。


「一体、何のために、ここにいる!」


 三度力任せに振り下ろした拳と共に吐き出した言葉は、闇だけが占める虚ろな空間に寂しく木霊するだけだった。

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