【Ⅱ】-3 幸福

 死力を尽くして茨や蔦の攻撃を避けながら——手足が自由に動かせない分、大部分は呪頼りの回避になる——ほんのわずかずつではあるが、セトは間合いを詰めていった。そうしつつも、リエタの攻撃パターンを把握する。重要なのは猛毒の茨を使うタイミングだ。機会は一度きりになるだろう、いかにして即死を避けて受けるか。失敗は許されない。


 先程のやり取りが効いたのか、リエタの攻撃は致命傷を与えるためのものに変わっていた。いくらか読みやすくなる。また五歩ほど詰められた。そろそろよい位置だろう。その場に留まって、他の攻撃をいなしながら例の茨が来るのを待つ。躱して、捌いて、そして。


 毒を滴らせる茨が迫ったのが分かった。あえて反応を遅らせる。狙い通りに棘は左腰を掠めた。瞬時に傷口が発熱し、その熱は全身に広がっていく。身体の中で何かが急速に破壊されている。抗えずに両膝をついた。


「なーんだ、ふふふ、あっけないわねえ」


 笑みを含んだ声に顔を上げる。残った呪力を結集させて解毒に全力を注ぎ、それ以上の毒の侵攻を阻む。身体に蔦が絡んで、持ち上げられた。リエタが数歩の距離を自ら狭めて近づいてくる。


「苦しい? 苦しいでしょ? どれくらい苦しい? 死にたいくらいに苦しいわよね?」


 すぐ傍まで寄ったリエタが、満足気な表情で吊られたセトを見上げた。今にも逃げていきそうな意識を必死に留めて、戦いが始まる前に仕掛けておいた呪を発動させる。【風切】だ。


「あら、今際の悪あがきかしら? 何をしたって今さらよ」


 躱されるのは想定内、勝負はその後だ。セトは少しばかり風を操作して、刃の軌道を変化させた。目的に気づいたらしいリエタが眉を上げたが、逃がさない。続けざまに【竜巻】の紋に合図を送る。巻き込めはしないが、退路を断つことには成功した。かすかに笑む。


 指示に忠実に、風切はセト自身を刻んだ。右肩から斜めへ、一直線に痛みが走る。【加護】の呪がかけられた制服の効果か、それとも呪力の調節を誤ったか、即死を覚悟していたのにもかかわらず、無形の刃は肺に至る前に潰えた。しかし目論みは果たせたようだ。盛大に舞い上がった血が、雨に混じってリエタに降り掛かる。致死性の猛毒に侵された血が、だ。


「あなた……」


 新しい朱色を全身に被って、リエタは茫然と呟く。


「何これ……何なのよ……あっ」


 彼女の顔の火傷には血が滲んでいた。その傷口からか、あるいは他からか、毒はリエタの身体をも侵食し始める。


「ふふ……ふふふふっ、あははは、はははははははっ」


 小刻みに高低する、不気味な笑い声が辺り一帯に響き渡った。


「ねえ、何これ? 何なのよ! どうしてこの私が、支部副長ごときにこんな」


 声はそこで途切れた。リエタが倒れたのだ。蔦が緩んで身体がすり抜ける。セトにはもう、身体を動かす力は残っていなかった。重力に従って、そのまま落ちる。


 毒使いは基本的に自身が扱う類の毒には耐性を持っている。繰り返し使ううちに自分もいくらか毒を浴び、それによって体内に抗体が作られるからだ。しかしそれは、生命に危険が及ばないものに限定される。命を摘み取るような猛毒の危険は、使い手が一番理解している。細心の注意を払って扱い、決して浴びないようにしているはずで。


 リスクの大きすぎる、無謀極まりない賭けだった。どうやら犬死は免れたらしい。十分だ。


「なぜ? どうしてよ。私の致死毒を浴びていながら、どうして呪が使えるの。なんでまだ生きてるの?」


 不規則な呼吸と脈拍に苦しみながらも、どうにかセトは声を発した。


「お忘れ……ですか? オレは……癒し手、ですよ」


「毒の回りを遅らせたってこと? 癒しの呪を使ったの? 毒を受けてから? そんなことが、できるわけ」


 これまで致死毒を受けた人間が呪を使えなかった原因は、きっと死を恐れたからだろう。落ち着いていれば、制御に多少の苦労はあれど、使えないなどということはなかった。返事をしないでいると、リエタはまた狂った笑い声を上げる。


「あは、あははははっ、はははは、なんてこと! あははははははははっ、は……」


 苦しげな咳が数回に渡って聞こえてきた。見ればリエタが口元を自分の血で汚している。強い毒だ。癒しの呪がなければ、とっくに死んでいただろう。


「ねえ、どうしてそんなに落ち着いた顔をしているの? 確かに私の意表はつけたけれど、こんなやり方じゃ、あなたも死ぬのよ? あ、はははっ、もしかして解毒剤があると思ってる? 残念、見当違いね。うふ、あははっ、うふふ。この毒にはどんな解毒剤も効かないの。私の最高の毒よ、あははっ、私もあなたも、みーんな死んじゃうのよ、あははは、あははははははっ」


「好都合です」


 平然と応じると、リエタが笑いを止めて息を呑んだ。瞬きの後、大きくなった瞳がセトを見る。


「何なの? あなた何者よ。死ぬのが怖くないの?」


「ええ……そう思ったことは、ありません」


「理解できないわ」


 リエタはまたもや咳き込んだ。口を覆った指の合間から、暗い色の血がこぼれている。視界が曇っていき、その様も徐々に明確には見えなくなっていく。そろそろ癒しの呪を維持させるための力もなくなるだろう。


「ずっと……これを狙っていたの?」


「いえ、最終手段……でした」


「ここまでして……こんな痛い目見てまで……私を……殺したかったの? もう死ぬと……決まっている……なら、諦めて…………楽になれば……よかった……のに」


「あなたを生かして……おけば、あいつらにとって……それから北にとっても、今後の脅威に……なりえます。オレが……癒し手が傍にいられないなら……特に。ですから……道連れになって……いただきます」


「あなたは……他人なんかのために……ここまで、できるのね。……そんな……人間もいるの、ね」


 リエタは苦悶に顔を歪めながらも、細い息を継ぐ。


 身体の中で、じわじわと毒が広がっていくのが分かる。癒しの呪は、剣術や攻撃呪の鍛錬よりも優先して磨き続けてきた。治療さえ間に合えばかなりの程度の負傷や中毒を治癒できると自負していたが、万全の状態の癒しの呪をもってしても、この毒は癒せなかっただろう。毒が広がれば広がるほど意識が混濁していき、癒しの呪の制御も難しくなる。もう長くはもたない。


「いい、わよ。あなたみたいな男と……心中するのも……悪くは、ないわ。どちらに……せよ、すぐに……クレイドあたりが……私を消しに……来るでしょう、し」


 薄い笑みをセトに向けた後、血まみれの手のひらに視線を遣って、リエタは遠い目をすると呟いた。


「私、何のために……生きてきたの……かしらね」


 ひどく虚しい言葉だった。死ぬ瞬間にこう思ってしまうことは、きっと何よりも辛いことだ。


「あなたは……分かるの? 自分の……生きる……意味」


 答えるつもりはなかったのだが、リエタの虚ろな表情を見ると黙ってはいられなかった。結局のところ、自分も彼女と同じだ。分からない。


「分かっていれば……死ぬのを怖いと……思えたかも、しれません」


「そう、あなたも……分から……ないのね」


 リエタもまた、中央に騙されて利用された被害者の一人だ。セトも北ではなく中央に入隊していたとしたら、彼女と同じ道を辿っていただろう。戦う他なかったのだが、これ以前に意見を交わす場があったとしたら、リエタはどんな結論を出しただろうか。もしかしたら、同じ志の下闘うことができていたかもしれない。


「ねえ、だけど……私は……死にたくないわ」


 死にたくないと思うことは、幸福なことだと思っていた。しかし、そうではないのかもしれない。リエタの顔には苦悶と無念の表情があるばかりだ。


「でも、もう……苦しい……」


 諦めたように瞼が閉じられる。頻繁に負傷するセトと違い——今も全身あちこち怪我を負って、もうどこが痛むのか定かではないほどだ——リエタは苦痛に免疫がないのだろう。


「殺し、て」


 切なる懇願のまなざしが向けられる。


「オレも、もう……剣を扱える……力は、残って……いません」


 まだ右手に剣があるのは奇跡に近かった。しかし身体に力が入らない。何とか立ち上がれたとしても、一思いに急所を貫くことはできないだろう。そうなれば余計に苦しめることになる。


「あなたが中途半端に……毒を和らげてるから……すぐに死ねなく……なったのよ? 責任取って……頂戴。それに、女性には……優しく……する……ものよ。呪で、いいわ……お願いよ」


 呪力はもう底をつく。あとは万が一この後追っ手が来たら、捕虜にならないよう——もっとも生きたまま捕らえようとするなら、この毒を解毒しなければならず、不可能であるわけだが——自決用にと残しておいた【風切】の分が残っているだけだ。周囲に人の気配はしない。そしてすぐにでも呪を使える状態ではなくなるから、残していても意味はないだろう。


「分かり、ました」


「ふふっ……お人よし……ね」


 セトが頷くと、リエタは微笑んだ。見届けてから、宙に最後の風の刃を形成する。大きさは要らない。ただ、鋭く。相手が誰であれ、要らぬ苦痛を与えてやりたくはないと思う。


 いいわ、と血の気の失せた唇が動いた。瞳が閉じられる。次の瞬間、赤が迸った。狙ったのは頚動脈だ、すぐに何も分からなくなっただろう。


 セトは長く息をついた。毒が巡り、身体が蝕まれていくのが分かる。焦点が合わなくなるのと並行して全身の痛みも消えていく。迫り来る死を感じる。死ではなく消滅の方かもしれないが。できればそちらであって欲しいと思う。自分はいつも心のどこかで、いつかそうなることを——跡形もなく消え去ってしまうことを——願っていたような気がする。頭の一番深いところに、幼い頃一度だけ向けられた母の瞳が焼きついていた。憎悪で濡れた瞳だった。


 ——あなたには分かるの? 自分の生きる意味。


 リエタからの問いは、どれだけ繰り返せども答えが見つからない。もうずっと悩んでいたのだろうと思う。きっと何も分からないから白軍としての仕事に没頭することで、少しでも、無理やりにでも、自分に何らかの意味を持たせようとしていた。もっとも自分は生きたのではなく、生きてしまった人間——果たして人間と呼べる存在なのだろうか、それすらも分からない——であって、ならば意味などなくて当然だったのかもしれない。


 息ができなくなった。己の心音が弱まっていくのを、やけにはっきりと感じる。


 先へ進んだ仲間たちを思う。目下の難敵は食い止めた。一応の役目は果たしたことになるだろうか。他にもいくらか邪魔が入るかもしれないが、彼らなら無事北まで戻れるだろう。今支部長は不在にしているはずだが、それでも北には戦力がある。前の襲撃から防衛も強化した。そう易々とは攻め込まれない。北まで戻ることができれば、ひとまずの安息を手に入れられるはずだ。


 後のことを、全て託すことになってしまった。中央にはまだまだ戦力が残っている。リエタよりも強い敵が数人は確実に——ともすると、十数人単位で存在する。本当ならもう少し先まで生き延びて、次やその次の窮地を引き受けたかった。道半ばで一人先に離脱することになるのが情けない。あとほんのわずかでも自分に力があったなら、と悔やまずにはいられなかった。


 白い靄が立ち込めていくように意識が薄れていく。ここまでは知っている感覚だ。ベイデルハルクと戦ったときに経験していた。あのときは、ルノアの呪と、そしてユウラの呼び声が繋ぎ留めてくれた。


 ——死なないで。


 もし、自分がこんな身の上でなかったなら、あのとき、彼女に答えることができたのだろうか。


 考えても詮無いことだ。心残りはあるが、今となってはどうにもできない。ほとんど視力を失った目で、天を見上げた。いつの間にか雨は止み、雲間から陽が降り注いでいる。白い。温かい。その安らかな光に祈る。


 どうか。


 三人が無事エルティに戻れるよう。そして——


 もうひとつ祈りかけて、やめた。願いは一つの方が叶う気がした。今はもう無事に戻ってくれれば、それだけで良かった。


 風が吹き渡る。それが連れてきた闇に、己の全てを委ねる。苦痛は最早なく、身は浮き上がるように軽い。


 死なないで。意識が途絶える間際、その声を再び聞いた。そうして、最後の最後で気がついた。


 そう言ってくれる人がいて、とても、幸せだった。

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