【Ⅱ】-2 最善

 光が消えると、静かになって雨音がよく聞こえた。安堵すると同時に、セトは意を酌んでくれた三人に感謝した。


 勝てるとは思っていない。己の力の程はよく理解しているつもりでいる。相手との差を客観的に照査すれば、死を意識しなくてはならないのは自明だ。怖じはない。悔いもない。元よりそのつもりでここへ来た。覚悟なんて最初から決まっている。こうして無事仲間たちを見送れたならば、むしろ上出来と言えた。


 死にたいと思っているわけではない。死なせたくなかった。そのために、こうする以外の手段が思い浮かばなかっただけであって。ただ、自分一人で他の三人が助かるならば安いものだと思う。これが最善だとセトは信じていた。


 あとはこの命を使って、どこまで時間が稼げるか。簡単には死ねない。最期の一瞬まで、今後仲間たちが対峙する敵の力を少しでも多く削ぐこと。それが役目だ。


 ——あんた、ずるいわよ。


 ふいにユウラの声が蘇って、セトはひとりで苦笑する。言われるまでもなく自覚していた。彼女の言はいやに耳に残る。揺るがされないために耳を塞いだ。あるいは強引に遮ったりもした。挙句の果てには感謝などという言葉を返す始末だ。我ながら卑怯な言葉を選択した。だが、間違っていたとは思えない。いつかこうなるのが分かっていたゆえ。大きく揺るがされる前で良かったと、自らに言い聞かせるように思う。自身でも量りかねているのだが、後悔しないためなのだとしたら、少々往生際が悪い。


 そこで思考を切り上げて、セトは顔を上げた。リエタとクスターの気配が近い。途中で一度止まったのは、おそらくあの人ならざる人が何らかの妨害をしたからだろう。王都を守るため、彼らもまた戦っている。


 流れるような動作で、しかしいつもより時間を掛けてセトは剣を引き抜く。雷光が艶めかせた銀の刃を透明な雫がいくつも這った。ふと暗い空を仰げば、かつてエマリーユの湖水だったものが無数の粒となって降り注いでいる。そう、この雨だ。厄介な飛散系の毒を封じてはくれるが、足場が悪くなっているためこちらの速さもいくらか殺される。吉と出るか凶と出るかは計り難い。


 全ての準備は済んでいた。


 彼方から白い閃光が雨と闇を裂いて流星のように走り、そして、時が来る。


「あら、一人?」


 光の衣の中から現れたリエタは、茨を足場にして高いところからセトを見下ろしていた。結ってあった髪は解けて、顔に乱れかかっている。その顔には額から顎にかけて右半分を覆う大きな火傷があった。他にもあちこち血を滲ませていたり服が傷んでいたりするのは、おそらく白獣と交戦したからだろう。茨には赤黒い汚れが染みており、それを辿ればクスターが茨に貫かれていた。召喚士の方を瀕死に追いやることで白獣を退かせたようだ。


 瞳に確かな狂気を宿らせ、爛れた顔を歪ませて笑うリエタは背が冷えるほどに凄絶で、知らない間に身を引いていた。


「ふふ、偉いわ。逃げなかったのね」


「逃げても無駄でしょう」


「よーく分かってるわね。でも、どうして私を殺さなかったのかしら? ご丁寧に治療までしてくれちゃって。まあ、完全に治してくれたようではないみたいだけれど」


「あなたを殺しては、アノレカが落ちると思ったので。こうなると分かっていたら止めを刺していました」


 リエタがアノレカの指揮を放棄してこちらに向かってくるのは思慮の外だった。これであの場で彼女を殺さなかったことが完全に失策となってしまった。ただ恨みを買ったのが自分であったことと、リエタが中央の命令を忠実に遂行するタイプでなかったことは幸いだ。彼女が本気でランテを追うつもりなら、残りの三人が命懸けで足止めをしたとしても、どうなっていたか分からない。


 やっぱり生かされたわけね。呟いたリエタの瞳の奥であらゆるものが滾った。怒りと、愉悦と、そして更なる狂気と。


「あなたみたいな若い男にいいように玩ばれるなんて……こんな屈辱は初めてよ。うふふ、私、あなたを殺したくて殺したくて仕方ないわあ。でも、ねえ、お願いだからすぐに死なないでね。散々いたぶって——そうねえ、あなたがもう殺してくれって泣きついたら、ふふふ、息の根を止めてあげようと思うの。それってとても素敵よね? うふ……うふうふ」


 唇の端から不気味な笑いが小刻みに零れ始める。足元の茨が待ちきれないように蠢いた。


「なら、永遠に止めは刺せませんね」


 セトは少し笑った。これだけ怒り狂っていても、やはり嗜虐的な性格は変わらない。敵が殺し方に妙なこだわりを持っている間は、いくらでも時間を稼げる。たとえ動けなくなったとしても。


「やっぱりあなた、いいわあ。ふふふふふっ。そうやって強気だった男がどんどん弱っていく様を見るのが好きなの。ふふふ、うふふふ。手足を全部もがれて、最後には這いつくばって私に懇願するのよ……ふふ、楽しみだわあ、うふふふふふ」


 微動だにしなかったクスターが、リエタの笑い声で目覚めたらしく、茨に貫かれたままゆるゆると面を上げた。焦点の合わない目でセトとリエタとを交互に見て、最後にリエタに目を留める。


「リ……エタ……様」


 癒しの永続呪はとっくに効果を失ったようだ。咳き込めば血がぼたぼたと音を立てながら零れた。


「あら、なあに? ふふっ、まあだ生きてたの? もう死んでくれていいのよ。追いつけたんだから、あなたの役目はおしまい」


 興を削がれたという顔をした後、リエタは無感動の目を作ってクスターに向けた。


「この先に……きっと……確保す…………べき……目標が——」


 腹部をいくつも貫かれて、生きているのが不思議なほどの出血をしているにもかかわらず、クスターはまだ懸命に言葉を繋ぐ。リエタはそれを煩わしそうに一蹴した。


「死んでいいって言ったでしょう?」


「しか、し」


 ふいに、リエタが耳を貫くような叫びを上げた。


「しつこい男ねえ!」


 茨が大きく撓って、クスターが地面に叩きつけられる。茨が強引に抜き取られて新しい血が流れ出た。それでもまだクスターは生きている。必死に顔を起こして、誰かを捜す。瞳孔の開きかけた目と視線がかち合った。


「助けて」


 反射的に身体が動きかけたが、すんでのところで自制した。敵だ。それも【光速】を持っている。そもそも臓器のほとんどが破壊された状態で、あれではもう癒しの呪を受けつけないだろう。あの場から助け出したとしても、できることといえばせめて苦しまないように止めを刺してやるくらいしか。


「助け——」


「死ね!」


 再び甲高い叫声が上がって、次の瞬間、太い茨がクスターの胸元を刺し貫いた。血染めの身体が弓なりに曲がって、震える腕が虚空を掴み、そしてぐたりと脱力する。


「思いあがって私を殺そうとしたわね? 度胸は褒めてあげる。でも許さないわ」


 貪欲に獲物を睨む蛇のごとく、八方から延びた茨が、先の一撃で絶命したクスターへ首をもたげた。たわんで、そして。


「死ね、死ね、死ね」


 連呼するリエタの声に呼応するように、茨がクスターを貫いていく。貫いては引き抜かれ、撓っては貫き、それが何度も何度も繰り返される。血が雨水に混ざって地を這っていく。茨から飛んだ一滴が頬にぶつかった。雨と違って生温い。


 金縛りにあったかのように動けなかった。肉片と血と骨の砕片とに変わり果てていく屍を、単に眺めていることしかできなかった。動けば、次の瞬間から茨の餌食となる。それが分かっていたから。


「ごめんなさいね、邪魔が入ってしまったわ。でも、ほら、うふふ。もう何もできないから大丈夫よ」


 部下の屍を散々貪りつくして、返り血をたっぷりと頭から被ったリエタが、ただれた顔をセトに向けて恍惚と微笑んだ。


 行き場を失った茨たちが、絶えず血と雨とを滴らせながら今度はこちらへ向けられる。戦慄が、背中を掠めて駆け下りたのを感じた。ベイデルハルクのときに感じたものとは根本的に違う、ぞっとするような震えだった。




「うふふ、よく逃げるわねえ」


 断ち切られた茨や蔓で辺りが散らかってきた頃、ようやく攻撃が止んだ。間断ない八方からの攻撃は、当たりはせずとも着実に体力を削いでいた。セトは肩で息をしつつ剣を握り直す。


 回避に徹したのには理由があった。時間だ。まだもう少し稼ぎたい。稼ぎ切るまでは、無理に攻めて失敗する訳にはいかない。


「これだけ当たらないと焦れるわね。でもただ闇雲に攻撃を仕掛けていた訳ではないのよ」


 両側から迫った茨を跳び退って避け、追撃はさらに後ろへ身を返して躱す。着地点に震動を感じてまた跳んで、地を突き破って現れた蔓を確認しながら前方から伸びてきた茨を捌く。足がついた直後、今度は背後に気配を感じた。身を捩ろうとすれば、軸足にした左足に鋭い痛みが走った。それで一瞬反応が遅れ、ついに茨に絡め取られる。


「ふふふっ、捕まえた。やっぱりこの位置、少しだけ反応遅れるわね。左足傷めてるのかしら? それに、疲れてるのね。前の戦いのときほど速くはないもの」


 腱の治療は骨を繋ぐよりも難しい。エルティでのベイデルハルクとの一戦で寸断された腱は、治療が遅れたことも災いしてまだ完治していなかった。知らない間に庇う癖がついていたらしい。それでもさらすような戦い方はしなかったはずだが、さすがは激戦区を統括する聖者、目敏い。


 茨から逃れようとしたが、剣を握った右腕は既に巻き込まれている。足が浮いた。そのまま軽々と持ち上げられ、締め上げられる。棘が身の内へ食い込んだ。この程度の負傷、大したことはないが。問題はこの緊縛を抜けるのがさらに難しくなったこと、そしてこの棘に毒が含まれているか否かだ。


「大丈夫、絞め殺すようなもったいない真似はしないわ。でも、そうね、ちょっと懲らしめてあげなきゃ駄目よね」


 茨が鞭のようにしなる。一瞬の浮遊感、直後の衝撃。背から地面に叩きつけられたようだ。覚悟していたほどの打撃はなかった。雨でふやけた地面が緩衝になったのだろう。


「うふふふ、我慢強いのねえ。でも早く音を上げないと私、何をするか分からないわよ」


 身体の自由が効かない。受け身も取れないまま、次は木の幹に激突する。一瞬意識が遠ざかった。しかし、茨も緩む。木を足場にして棘の邪魔を強引に振り切り、抜け出た。が。


「残念。逃がさないわ」


 その先では蔦が待っていた。宙では身動きが取れない。風で身体を反らす——が、左腕が引っ掛かる。瞬く間に巻き取られて。


 次に起こることは予想できた。鈍い音がして、苛烈な痛みと熱が襲ってくる。やはり、とだけ思った。


「あーら、ごめんなさい。左腕いっちゃったわね。力入れすぎちゃったかしら?」


 堪えて剣で蔦を切り、次こそ自由になる。着地の直後に間合いを取って、手早く全身の止血だけ済ませた。左腕に触れて確かめる。やはり折れている。これは治せない。そんな時間はない。呪力も残り半分を切っている。利き腕でなくて良かったと、そう思うことにした。


「呻き一つ上げないなんて。癒し手は痛みも防げるの?」


「いえ。できるのは傷と毒の治療、軽度の疲労回復だけです」


「安心したわ。痛みを感じてくれないなら、虐める意味がないものね。で、あなたはどうしたら悲鳴を上げてくれるのかしら」


「さあ。たいていの怪我には慣れてますから」


「慣れる、ねえ。ここまで我慢強い人は久しぶりよ。ふふふ、うふふふふっ、楽しくなってきたわ」


 リエタが茨の足場から下りてきた。長い裾を少し持ち上げて、泥による汚れを防ぐ。こちらへ歩み寄りながら、満面の笑みを浮かべている。


 刹那、視界がぐにゃりと溶解した。平衡感覚が狂って、気づいたときには膝をついていた。


「やーっと効いてきた?」


 やられた、と思ったときにはもう遅い。効き始めるまで何の違和感も覚えなかった。左腕を折られたのも、この毒を隠すためだったのかもしれない。何の毒か、身体が上手く動かせない上に思考が鈍る。解毒しようにも呪力が引き出せない。


「さっきの茨の棘に仕込んでおいたのよ。私にぴったりの毒でね、身体の自由を奪うのだけれど、痛覚は残すのよね。たとえば、こんな風に」


 身体が一度、勝手に前後に揺れた。目を落として、右脇腹を茨が貫通しているのを知る。痛みは後から襲ってきた。


「抜かなきゃ治せないのよね? 今、呪が——ましてや癒しの呪が使えるとは思えないけど、念を入れておきましょうか」


 リエタが指を鳴らした、その直後のことだった。


「ぐ……っ」


 身体が千々に裂けるのではと思うほどの痛みが全身を疾走した。一呼吸の後、内側から皮膚が刺し貫かれるのを見る。リエタの合図によって棘が伸長したのだろう。血を吸って成長したのか、突き出す棘は毒々しく赤い。


「ふふっ、声上げたわね。でもまだ物足りないわ。このまま心臓まで行っとく?」


 茨が蠢くたび、傷口が広がっていくのが分かる。ある一点に触れた瞬間、血がせり上がった。咳き込んで、少し身体の感覚が戻っていることを悟る。痛みの功だろう。深く考える間はなかった。また考えたとしても、他の答えは出なかったろうと思われた。


 冷たい風を集めて、茨に触れる。


「ま、【木枯】? 珍しい呪を使うのね」


 風の中級呪、【木枯】。対植物にのみ有用な攻撃呪だ。対象と効果があまりに限定的であることに加えて、呪力の消費量も多いこの呪を会得する者は少ない。セトとてテイトが勧めなければ目もくれなかっただろう呪だ。だが、緑呪使い相手には重宝する。今回の戦いにおいては唯一の切り札だった。できればもっと違う場面で使いたかった。


 茨が枯れて、黒い粉末に変わり消えていった。血が溢れ出る。剣を握ったままの右手で抑え、応急処置と出来る限りの解毒を施した。


「あまり多用できる呪じゃないわね。それに、一度使ってしまったら、もう大した効果は期待できないわよ。分かっていたからこれまで温存していたのでしょうけど」


 セトはゆっくりと立ち上がる。それでも目が眩んでふらついた。先の戦いも合わせると、血を流しすぎた。もう満足に動くことはできない。


「それだけの深手に加え、毒にもてられている。切り札も使ってしまったようだし……うふふ、そろそろ限界かしらね。それとも、まだ何か策がある?」


「どうでしょうね」


「命乞いしてみる? あなた役に立ちそうだし、聞いてあげなくもないかもしれないわよ。ちょうどクスターも死んじゃったし。あれもなかなかいい下僕だったのだけどね」


「あなたが殺したんでしょう」


「私を殺そうとしたのよ? 主に逆らう下僕はいらないわ」


 セトは静かに息をついた。毒のせいか失血のせいか、時折視界が揺らぎ、身体は重い。手足の感覚が遠くなることもある。唯一の頼りは呪だが、呪力の残量が心もとない上に、手持ちの呪では相手を考えると大した効果が期待できない。あらかじめ仕掛けておいた【風切】と【竜巻】はまだ使っていないが、これらもこの状況を覆すほどのものにはなり得ない。


 ここまでだ。


 ——忘れるんじゃないわよ。あんたの帰りを待つ人間がたくさんいるんだってこと。


 諦めと同時に蘇った声があったが、またしても聞こえないふりをした。どうあっても、仲間たちの命まで諦めるわけにはいかない。


 だから、自分がやるべきことは決まっている。


「あなたは中央から見限られました。……いえ、最初から見限られていたのかもしれませんが。これからどうするつもりですか?」


「最初から?」


「クスター副官から聞きませんでしたか? 白軍は聖戦に勝つつもりはない。あなたをここの総指揮に据えたのは、厄介な能力を持つあなたを中央本部から遠ざけ……そしてあわよくば、戦死でもしてくれればと考えてのことだったのでしょうね」


 リエタの笑みが固まった。声もわずかに震える。


「……何を言っているの」


「中央はあなたを必要とはしていなかった。利用する価値すらないと——」


「お黙り!」


 甲高い声が耳をつんざいた。怒りで頬を上気させたリエタがセトを睨みつける。彼女を囲うようにして凶暴な茨たちが地中から現れた。棘の先から黄色い液体が滴り落ち、地に落ちると何かを溶かして白い煙を上げる。致死性の猛毒だろう。ちょうどいい。


 リエタが狂ったような笑声を上げた。


「どうするかって聞いたわね? そうね、あなたで遊んでからゆっくり考えることにするわ」


 最後の策決行の断を下し、残る力を振り絞って、セトは身構えた。

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