【Ⅱ】-1 覚悟
唐突に風がついえて、足がぬかるんだ地面を滑った。雨は止まらず降り続いていて、インクを流したように暗い空が時折稲光に照らされる。傍で轟く雷鳴に鼓膜が直に叩かれるようだ。
「……追いつかれるな」
四人を乗せた【疾風】で、セトは少々息を切らしていた。その息を鎮める間も惜しんで、追っ手が来る方を見遣る。
「【光速】使ってるね。どうやらクスター副官が一緒だ。人数が倍違うから仕方ないよ。戦う?」
呪力を察知してだろう、テイトが難しい顔をする。セトは彼には答えず、何やら思案してから今度はランテに目を向けた。
「まだ【光速】使える呪力残ってるか?」
「うん、呪力は大分残ってる」
「何人運べる?」
「何人でも。洞窟まで全員で飛ぶ?」
「いや、速度はあっちが上だ。このままだと途中で追いつかれる。オレの【疾風】でも同じだ」
淡々と事実を並べ、セトは一旦ユウラとテイトを見た。受けて、ユウラが眉を顰める。
「何考えてるのよ」
セトは意に介さないで、それがさも当然と言わんばかりにごく自然に述べた。
「ランテ、ユウラとテイトを連れて先へ」
「何馬鹿なこと言って——」
当然そんなことを許すわけにはいかない。真っ先に異を唱えたのはユウラだったが、セトは早々に声を被せて遮った。
「アノレカを放棄してこっちに来たって事は、聖者は冷静な判断力を欠いてる。恨みを買ったって言ったよな。聖者はオレを追ってる」
「全員残って戦えば」
今度はランテが発言したが、それも皆まで言わせてもらえない。
「お前はまだ目眩残ってるだろ?」
「……だけど、戦えないほどじゃない。それにさっき、ベイデルハルクのときは皆で」
「ランテ。さっきとは相手が違う。リエタ聖者なら、オレ一人でも足止めはできる」
「でも」
「全員消耗してる上、そうでなくても勝率は低い。それに、ここさえ抜ければ無事生還できる。道連れになる必要はないさ。そもそもオレの判断ミスが招いた事態だ。自分で責任取らないとな」
「結果論よ。あの場ではああすることが最善だった。最初からその予定だったでしょ? 連帯責任よ。ランテさえ無事でいればそれでいいんだから——」
ユウラの言葉には意識的に耳を貸さないようにしている。ランテにはそんな風に見えた。セトは何を言われようと考えを改める気はないらしく、表情も一分たりとも動かさない。少々早口であること以外はいつもと同じ口調で、静かにランテに決断を迫る。
「ランテ、時間が惜しい。頼む」
ランテはきっぱりと首を振った。
「できない」
「お前だけじゃない。二人の命も懸かってるんだ」
「……それは」
諭すような言い方だったが、望む答えは一つしかないと示すものでもあった。戸惑ったのは二人分の重みが急に肩にかかったからで。思わず目を逸らしたランテに、今度はユウラが声をかける。
「ランテ、あんただけ行きなさい」
「それは絶対にできない」
慌てて拒否したランテを横目に、初めてテイトが口を開く。
「残るにしても逃げるにしても、決めるのは早い方がいい。とにかくランテは逃げなきゃいけない。これは決定事項だね」
「そんなことできないってオレ、何度も言った」
「できるできない、って問題じゃないわ。そうしなきゃいけないのよ、あんたは」
「でも」
一対三、圧倒的不利な状況だ。どうしたら皆を説得できるのか。何か言わなくてはと気持ちだけが急いて有用な言葉は何も出てこない。そして考える時間も与えてくれなかった。ランテが何かを言う前に誰かが必ず阻むのだ。
「ランテ、一人で逃げるか三人で逃げるかだ。お前はどうしたい?」
さらにランテを急かそうとするセトを、今度はテイトが制した。
「セト、ストップ。ユウラの言うとおり連帯責任だ。僕もランテと一緒に逃げる気はないから」
沈黙して、セトは再び追っ手の方を見遣る。その仕草で少なからず焦っているのが分かった。セトもユウラもテイトも、もうランテを数から外して考えている。このまま呆けて見ているわけにはいかない。が、進み出ようとしたランテをユウラが留めた。腕をつかまれ、無言で首を振られる。
「だけど!」
「生き残るのがあんたの役目なのよ。全部無駄にするつもり?」
押し黙る他なかった。それはランテの反論の一切を受け付けない、揺るぎない正論だった。この場にいる人のことだけを考えるので精一杯。確かにそう言ったしそう思った、が。デリヤ、イベット、激戦区で散った兵たち。彼らの犠牲の上に今ランテたちは立っている。ここで全滅するのは、その人たちの思いすら無駄にするということだ。激戦区での無意味な戦いや洗礼を始めとする、中央の横暴を見過ごすということでもある。
重い。
今はもう先に放った自分の言葉が正しかったのかどうか分からない。間違っていたかもしれない。
「なら、連帯責任として」
身動きの取れないランテをよそにして、セトが切り出す。すっかり覚悟を決めた顔をしていた。何の未練も迷いも残さない、清々しすぎるその表情で、ランテは続く言葉を予感できた。彼と出会ってからまだ数えられるほどの日数しか経っていないが、それでもこういう顔を見るのはもう三度目だ。セトは自分を見切るのがいつも早すぎる。あまりにも。
「部下のために命を張るのは上官の責務であって、上官にだけ許された権利でもある。優秀な部下を二人もむざむざ死なせたら、副長失格だ」
次に沈黙するのはユウラとテイトの方だった。やはり穏やかな語調ではあるが、根本に確固とした拒絶の響きが潜んでいる。譲れない。そう言わんとしているのが伝わってくる。
「……こういうときだけ、そういうの持ち出すのね。普段は上官として接するなってうるさいのに」
半ば敗北宣言のようなユウラの言を聞いて、セトは間違いなく笑んだ。ようやくランテに視線が返ってくる。
「ランテ、二人を連れて先に行け。これは副長命令で、逆らうことは許さない。ここを脱出したらその後はまず北へ向かえよ。できるだけ東に戻るのは避けろ」
どうしたらいいのか分からない。今どうすることが一番正しいのだろう? 分からない、分からない、何も分からない。つい先ほどまで目まぐるしく動き回っていたはずの思考が完全停止している。今のランテには、ただ弱々しく呟くことしかできない。
「セト……」
「そんな顔するなって。一度戦った相手だ。無事勝ったらオレも後を追うからさ。とにかく急げ」
全員、しばらくの間立ち尽くすのみだった。セトが皆に背を向けてもう一度急げと促したが、なおも誰も動かない。どれだけそうしていたか分からないが、少し時間が経って、瞳を閉じたユウラが密かに息を漏らした。わずかに瞼を持ち上げて、囁くように言う。
「……あんたは最初からこうするつもりだったんでしょ。聖者に追われるかもしれないことも、ああ言えばあたしたちが頷くしかないのも、全部分かって……最後には全て自分ひとりで引き受けるつもりで」
やっと、セトはユウラの言葉を全て聞いた。片足を引き半身になってユウラを視界に入れ、微笑のような苦笑のような複雑な笑みを返す。
「お前は昔からオレを買い被りすぎだ、ユウラ。そこまで分かってたら、もっと打つ手はあった」
「それでも同じことよ。あんたはやっぱり一人きりで何とかしようとする。結局一度もあたしを頼ってはくれなかったわ」
「ずっと頼りにしてたし、これからも頼りにしてる」
「これから? 死ぬつもりでいるくせに」
切ない非難だった。覚悟を決めきったセトが、かすかとはいえ動じるくらいに。一瞬だけ落とした視線をどこかへ彷徨わせて、セトは利き腕をおもむろに左の上腕へ運んだ。
「……受け取らないわよ」
ユウラの真正面に立ったセトは、彼女に支部副長の証である群青の腕章を差し出していた。受け取らずに、ユウラはそれだけ言って首を振る。
「あんたの代わりはいないの。なんで分からないのよ」
「お前にだから預けるんだ。無事戻れたら、そのとき返してくれたらいい」
全ての感情を殺して、ただかすかに微笑むことだけを選んだセトの真意はここにきても読めない。黙ってユウラは彼を見つめ、もう一度目を瞑り、息を落として——ほんの少し震えていた——意を決して手を伸べる。
「あんた、ずるいわよ」
「これでも感謝してる」
「感謝なんて要らないわ、馬鹿」
受け取った腕章を胸の前で両手で握り締め、ユウラは俯いた。紅の瞳の中でさまざまなものがせめぎあって、そして。
「セト」
もう一度だけ、彼女は彼の名を呼んだ。彼はもう振り返らない。
「早く行けよ」
「忘れるんじゃないわよ。あんたの帰りを待つ人間がたくさんいるんだってこと。あっさり死んだりしたら、ただじゃおかないから」
背中が、少し笑った。
「相変わらず怖い副官だな」
「返事は?」
「ああ、覚えとくよ」
迎撃準備か、雨水で潤う地面に風呪の紋章を刻みながら、セトが声を張る。
「ランテ、頼むな」
「オレはやっぱりそんなことは」
迷いばかり残したまま覚束なく言いかけたランテを止めたのは、ユウラだった。
「ランテ、行って」
「え、ユウラ、何で」
抗議の声を上げたランテを、今度はテイトが妨げる。
「補助の呪が必要なら手を貸すよ、ランテ」
「テイトまで」
ユウラもテイトも、身を切られるような思いをしているのが二対の双眸から分かった。それでも、彼らは行けと言う。ランテよりもずっとセトと長く行動を共にしてきた二人の決断を、そしてセト自身の覚悟を、無にすることはついにできなかった。
「……分かった」
喉奥から声を絞り出す。握った拳がひどく痛い。
「セト、必ず生きてまた」
ありったけの願いと祈りを込めて、振り絞るように言葉を残す。こんなことしかできない自分にひどく腹が立つ。本当はもっと投げかけたい言葉があった。でも、見えない力にねじ伏せられる。どうしても言えなかった。
このままでいいのか? 分からない。分からないけれど、時間がない。きっと、もう、こうするしか。
赤く焼きついた刃に貫かれるかのような胸の痛みに堪えながら、最後の迷いを振り切るために——逃げようとしたのかもしれない——思考を閉ざして、ランテは呪力を集めた。
無事勝ったら、無事戻れたら。彼はそういう仮定の下の話はしたけれど、一度だって「必ず戻る」とは言わなかった。こういうとき、セトが嘘をつかないのは、もうランテだって知っている。だからこそ、生きて戻ると約束して欲しかった。
しかし、呼び出した光が全てを白く覆い尽くしてしまっても、セトが返事を寄越すことはついになかった。
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