7:別離の死地

【Ⅰ】   王都

 澄んだ清水は浩々と広がっている。渡る風が、陽を映して輝く水面に筋を刻んでは去っていく。船一つ浮かばぬ、絵画に描かれたように美しく広大な、それゆえ幻の世界にあるかのような湖だった。


「何もない……」


 エマリーユ湖が近づくにつれ、ランテの鼓動は早まっていた。が、いざそれを前にしてみると、なんてことはない、美しくはあれどただ大きな湖が横たわっているだけだ。拍子抜けした気分になる。


「あの人、何て言ってたかしら?」


「ランテが近づけば王都は自然と眠りから覚めるって」


 ユウラとテイトの会話を聞きつつ、ほとりまで歩み寄って、指先で触れた。冷たい水だ。曇りなく透き通っていて中はよく見えるはずだが、水底は見えない。光が届かぬほどの深さがあるらしい。ランテが立つ場所が崖のようになっているのか、少し先はもう地面が識別できず、蓄えられた水が静かに揺れるばかりなのだ。


「よく無事で」


 ルノアの声がした。弾かれたように顔を上げる。彼女は長い髪を紫紺のリボンと共になびかせながら、湖畔をゆっくりと歩んでくる。前に見せた覚束なさは今はもうなく、足取りもしかとしていた。


「何の力にもなれず、ごめんなさい。でも結界を張れる力は戻りました。準備も全て済んでいます」


 彼女が右手を翳すと、柔らかな闇がランテたちを一人ひとり包み込んだ。身体の重さが闇に誘われて溶け出て、すっと楽になる。


「ありがとう」


「しばらくの間、あなたがたの身体に疲労を忘れさせただけです。休息を取らなければ真に癒されたことにはなりません」


 大人五人ほどの距離を保って立ち止まり、ルノアは瞳に湖を映した。不安でもあり期待でもあるような、複雑な感情に絶えず揺れるまなざしをしている。水面と同じだ。


「ルノア、オレ、どうしたらいい?」


「……想定していたより眠りは深いようです。指先に意識を集中してください」


 屈んだままの姿勢で、ランテは自身の右の指先を凝視した。身体中の力が徐々にそこへ集められていくに伴って、ほんのり色づいてくる。


「水面に」


 灯した光を透き通った水に浸す。水紋が生まれ幾重も連なり、拡大しながら波のように走っていく。それも去って、息継ぎの間の静寂が訪れ。その後湖は応えるように同じ色で鮮やかに輝いた。全員、固唾を呑んで見守る。この先何が起こるのか想像もつかない。


「離れて」


 言われた通り、ランテは五歩程度後ろへ下がった。雫が指を滴り落ちるのが分かる。刹那、地が小刻みに上下し始めた。まるで鼓動するように。湖も湛える水を激しく揺らして呼応する。震動は回を増すごとに強まって、ついに立っていられなくなった。淵で跳ねた湖水が膝をついたランテたちに降りかかった。湖には渦が発生して中央から水柱が立ち上る。最初は細く、次第に太く。透き通った水柱は光を乱反射させながら、止まらず伸び続けて天まで届いた。日が陰る。空が水から変じた雲に覆い尽くされていく。今、目の前で起こっていることとは信じられないほど壮大な光景だ。ランテは息も忘れて見入った。


 ややあって、水柱が消えた。湖が干上がって底なしの闇が現れる。轟いたのは雷鳴か地鳴りか、大きな音が世界を割るように響いて、そして。闇の底から何かが浮かび上がってくる。いっそう揺れが激しくなって、ランテは身体を支えるために指を地面に立てた。


 一粒、頬を雨粒が打つ。それを合図にしたように一斉に空から雫が降ってきた。滝のような雨に打たれながら、永い眠りから目覚めた王都が姿を現していく。


 誰も何も言わない。初めにランテの目に映ったのは、円錐を載せた、高さの違う円柱状の尖塔をいくつも従える、五階建てか六階建てなのか、とにかく高く聳える建物だった。屋根は黒くそのほかは白い。装飾の凝らされた窓がいくつも並んでいて、中央の円柱には、曙色の大きな垂れ幕が下げられている。遠目だったが分かる。幕に描かれた紋章は、デリヤから託された短剣に彫られたものや、イベットから授かった王国記に記されたものと完全に一致していた。


 城。


 少なくとも記憶を失って以降、一度も目にしたことがない類の建造物であるはずなのに、ランテはそれと識別することができた。知っていた、覚えがあった。懐かしいとすら思った。思わず立ったままでいるルノアに目を向けた。震える瞳を切なげに閉じたところだった。


 城に続くように街が現れ始める。多くは城の垂れ幕と同じ色をした建物だ。家々が整然と並んだ綺麗な街だが、まるで巨大な生物に踏み潰されたように壊された箇所があちこちに見受けられた。美しい街並みとはあまりに不釣合いなその破壊の跡に、王国記に綴られた一節が思い出される。


『白女神と黒女神の戦いの地となった王都は壊滅、始まりの女神は流れた多くの血を悲しみ、新たに創造された湖の底に城と街を沈められた——』


 やはり王国説は真実だったのだ。その確かな拠が、動かぬ証が、今ここに。


「王都ラフェンティアルン。またの名を曙の街といいます」


 愛おしそうに、そして眩しそうに瞳を細めて、ルノアが城を、街を見る。持ち上げられた両の手が胸の中央で重ねられた。


「神の争う地となったこの街は一瞬で破壊され、世の理から排斥されました。今は時の流れすら失っています」


 私と同じように、とルノアは小さく付け足した。寂しい言葉だった。


「人が?」


 地震が収まる。ゆっくり立ち上がった。ランテの正面はちょうど街の入り口になっている。門に人が殺到した状態で時間が留められていた。鎧と兜を着け紫のマントを纏い、銀色の長い槍を手にした兵士と思しき者が、門の外——ちょうどランテの方を指差して、何を叫んでいたのか、口を大きく開けた状態で静止している。


「ええ、まだ生きているようです。この街に秩序を取り戻せたなら、彼らもきっと」


 ルノアは祈るように瞳を伏せる。痛みをひとりで耐える背に、ランテは意を決して声をかけた。


「ミゼ」


 途端、長い髪が宙に舞った。大きく見開かれた紫の瞳がランテを捉える。ランテ自身を、しかと、捉える。


「今、なんて」


 確信していたが、ランテはもう一度頷いた。やはり間違ってはいなかった。彼女だったのだ。


「ミゼって呼んだ」


「……思い出したの?」


「ほんとに少しだけ。昔オレはルノアのこと、ミゼって呼んでたってことだけだ」


 ルノアの瞳が一気に遠くなった。またランテを通して誰かを見たのが分かる。


「今はルノアです」


 早く全て思い出したいのに、頭は空白のままだ。知りたい。思い出したい。一人だけ蚊帳の外は、もうたくさんだ。


「ルノア、話してほしい。七百年前ここで何が起こったのか」


「王国記に記された通りです」


「ルノアの言葉で聞きたいんだ」


「同じことです。ベイデルハルクの陰謀によって王国は滅び、私はそれを防ぐことができなかった。手を貸しさえしたんです」


 心を殺して淡々と答え、ルノアは視線を下ろした。


「あの男は、王になることを欲し、国を創ることを欲し、そして今度は世界を創ることを欲している」


 そうして彼女は街よりも高い位置に聳える王城を見上げて、今度はランテたち四人全員を見渡した。


「西の大陸からでも、東地方からならこの城が見えるはずです。あなたがたの目的は達成されました。私は今から結界の構築と安定に全力を注ぎます。どんなに早くても七日七晩は必要になる。それまで中央からの攻撃に対する防衛もせねばなりません」


 本当は安全なところへあなたがたを逃したい、ですがその余力はありません。彼女はそう続けた。


「これより西大陸は混乱を極めるでしょう。不要な戦いを起こさないため、あなたがたの力こそ必要です。さあ、敵に追われる前に」


 ときどきルノアは、凛とした気品の中に威厳のようなものを滲ませるときがある。王国の生き残りの姫、ミゼリローザ。相違ない、と思う。


「東の洞窟の抜け道のことは?」


「知ってる」


「そうでしたか。では、そこへ急いでください。激戦区担当の女聖者がこちらへ向かってきています」


 リエタか。追いつかれては厄介、では済まないだろう。確かに急がなくてはならない。しかし、ランテは背を向けたルノアを呼び止めた。どうしても確かめておきたいことがあった。


「ルノア!」


 彼女はゆっくり振り返る。ランテの方を見つめて静かに続く言葉を待った。


「約束、覚えてる?」


「……ええ。結界が安定したら、あなたがたを追います」


 迷わずルノアは再会を誓う。ケルムの墓地で交わした約束を彼女は忘れていなかった。安堵して微笑むと、ルノアも同じように笑みを——多少ぎこちなくはあったが——返してくれた。


「共に戦いましょう」


 あのときと同じ言葉を残して再び背を向けた彼女を、秩序を失った街は音もなく飲み込んだ。


 眠りから覚めてなお生命の気配が完全に断たれた街は、ただ黙して立ち続けるが、その様は幻と見紛うほどに美しい。


 あるいは生命を残らず失くしたからこそ、これほどまでに美しいのかもしれなかった。

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