【Ⅶ】   警戒

 木漏れ日が目に染みる。さわりと頬を撫でる風が心地良い。樹の匂いがした。ぼんやりと瞬きを繰り返しながら、ランテはどうして自分が今ここで横たわっているのかを考えた。が、分からない。なおも呆けていると蘇った映像があった。


 ——婚姻が決まったの。


 バルコニーから国を一望して呟いたミゼは、ちっとも嬉しそうではなかった。


 ——どうして女では王になれないのかしらね。


 悲しく笑ったミゼに、どう答えたらいいのか分からなかった。本当はミゼを逃がしてあげたいと考えていたのだと知ったら、今もオレがそう思っているのだと知ったら、彼女は何を思うだろう。予想はできる気がした。あのときと同じように悲しげに笑って、きっと寂しく首を振る。彼女は逃げないだろう。そういう人だと知っていた。


 ——私、あなたに会えて良かったわ。


 ふいに、思いつめたように言ったミゼの真意は分からない。どんなときでも彼女は決して弱い言葉は使わなかった。あのとき、本当は泣きたかったのかもしれない。泣かせてあげられなかった己の不甲斐なさに腹が立つ。いつもこうだ。終わってしまってから気付く。


 後悔したってもう遅い。今出来ることを考えなければ。このままミゼを結婚させていいはずがない。罪人として終身追われることになろうと、彼女を救ってやりたいと思う。他でもない彼女自身に恨まれるかもしれないけれど、それでも。




 身体を起こして、ランテはぎょっとした。服が破れて血染めになった腹部が目に入ったのだ。それで全て思い出す、が、その記憶も途中でぷつりと途切れていた。ベイデルハルクに腹を貫かれて、それ以降だ。


「皆っ!」


 叫んで勢いよく立ち上がるが、ランテはバランスを崩してあえなく地面に突っ伏した。重い頭痛とひどい耳鳴りとに襲われる。寒気も走った。おそらく貧血からだろうが、傷は綺麗に塞がっていた。セトが治してくれたのだろう。


 しかし、ランテの呼び声に答える者はいない。視力はまだ回復せず視界は霞んでいたが、四つん這いのまま周囲を見渡してランテは愕然とした。


 明瞭には見えない。それでも分かるほどに、その空間は破壊し尽くされていた。まばらながらいくらか立っていたはずの樹が、今は一つと残さず消えている。地すら黒く焼け焦げ、何があったのか、大きく抉り取られたような箇所まである。苦しさはどうやら貧血の所為だけでもないようだ。白獣と戦ったときのような重苦しい空気が、いや、それよりも遥かに濃厚で激しい空気が場を支配している。先ほどランテがおぼろげに見た木漏れ日は、かすかに感じた樹の匂いは、すべて幻覚か何かだったのだ。そんなもの、この場所のどこにも存在しない。在るのは熾烈な戦いによって壊された世界だけだ。


「セト、ユウラ、テイト!」


 一人ずつ名を呼んでみるが、やはり応じる者はいない。視覚はもうほぼ復元したが、三人の姿はどこにも確認できない。


「皆……」


 焦燥がランテを駆り立てた。再び立ち上がって、ふらつきながらも皆を捜す。荒れ果てた場を見て戦慄した。まさかと過ぎった不吉な想像に慌てて首を振る。きっと大丈夫だ。自分に言い聞かせて一歩ずつ歩を先へ進める。


 不気味なほどに静かだった。ベイデルハルクの姿も見えない。一体この場所で何が起こったのだろうか。そして自分は何をしたのだろうか。さっぱり覚えがないが、全身に鉛でも括りつけているかのようにひどく身体が重い。貧血によるものとは異質だった。この消耗感、何かをしてしまったのは明らかだ。それが皆に迷惑をかけないものであったなら良いが、意識を失った状態だったランテには皆目分からない。頼りない足取りで当てもなく、さらにたった一人で孤独に歩いていると、嫌なことばかり思いつく。


 彷徨さまよい歩いて、しばらく。


「あ……」


 ようやく捜していたものを発見したが、ランテの足は凍りついた。全員倒れているのだ。


「皆?」


 呼びかけようとしたのに、大きな声は出なかった。無意識に確かめるのを恐怖したのだろう。生きて、いるのだろうか? 恐れていても始まらない。一度歯を噛み締めてランテは足を速めた。知らない間に拳を握り締めていた。


「あっ」


 あと十歩となったところで、一番手前にいたセトがかすかに身じろいだ。思わず立ち止まって見守ると、彼はおもむろに身体を起こす。


「セト!」


 安堵と喜びからランテは大声で彼を呼んだ、が、彼の背はすぐには振り返らなかった。声でランテと分かっただろう、それなのに背中に緊張が走ったのが分かる。右手が剣に伸びたのも見た。


「……セト?」


 困惑したランテが二言目を発すると、セトはゆっくりと動いた。肩越しにランテを見る。張り詰めていたものが、瞬間、解かれた。息がつかれたのが分かる。安堵が滲んでいた。


「ランテか」


「声で分からなかった?」


「……そうだな」


 分かりにくい答えを返してセトは周囲をうかがった。敵の姿がないのを確認し立ち上がる。身体が重そうなのは、立ち込めるこの空気のせいだろう。


「大丈夫?」


「ああ、もう少ししたらこれも薄れて楽になるはずさ」


「二人は?」


 セトは抜き身だった剣を収めながら、倒れたままのユウラとテイトを見た。二人とも呼吸はしている。


「大丈夫みたいだな。どの道この中じゃ消耗するだけだ。もう少し経ってから起こそう」


 ランテが目覚めたときよりも空気の重みは減っている。少し待てばすぐにあるべき姿に戻るだろう。


「セト」


「ん?」


「怪我、治してくれてありがとう。あんなにひどい傷だったのに、もう全然痛くない」


 痛むのか、額に遣っていた手を止めて、セトはランテを見た。長い間を取ってようやく返事する。


「いや、オレじゃない」


「え? でもじゃあ誰が」


 セトは信じられない答えを寄越した。


「お前が自分で治したんだ」


「……え?」


「大聖者を退かせたのもお前だ、ランテ」


 俄かに理解しがたい情報が続けざまに並べられる。あれほどの怪我を癒しの呪を扱えないランテが治した? そしてあのベイデルハルクを退却させた? そんなまさか。


 戸惑ってうろつかせた視線を戻せば、セトはまだランテを見ていた。その目に普段彼が決してランテには向けないものが、わずかながら、しかし確かに存在していて思わず喉を上下させる。


 警戒。


 なぜ?


「オレ、もしかして」


 その可能性を考えるしかなかった。


「皆を傷つけたりした?」


 セトは返答に迷ったらしかった。それが何より真実を教えてくれた。


 是だ。


「……覚えてるのか?」


「ううん、何も」


「お前はオレたちを助けたんだ。お前がいなければあそこで全滅してた」


「オレ、皆に何をした?」


「全員無事で済んだんだ。それでいいさ」


 どれだけ聞いてもセトは口を割らない。聞き方を変えることにする。


「皆どうしてこんな離れた場所に?」


「……お前と大聖者の戦いは」


 躊躇ためらうような間があった。


「オレたちが手出しできるレベルを超えていた。力にてられて、それだけで意識が朦朧とするほどに……どうにか巻き込まれないようにするので精一杯でさ」


「ごめん」


「なんでお前が謝るんだよ。謝るのはこっちの方だ。お前に全部丸投げした」


 セトがしまったばかりの剣の柄に触れて、視線を下げた。


「ほんと、情けないよな。最初はお前を逃がすつもりでいたのにさ。……とにかく、オレたちはランテに守られた。そんな顔するなよ」


「オレは……どうやって?」


 本当に、何一つ覚えていない。大きな力を使った後の疲労感が残っているだけで。


「モナーダ上級司令官の証を消したときとか、オレの呪を跳ね返したときのと同じ力だったように感じた。やっぱり見たことのない呪で……大聖者と互角以上に戦ってた」


「……互角以上に?」


「ああ、大聖者は最初から防戦一方だった」


 ランテは後ろを振り返って、激しい戦いの名残が残る戦地を再び目にした。実感は湧かない。何も思い出せない。最近は影を潜めていた恐怖が色濃く蘇った。オレは一体何者なのだろう。自問に返る答えは未だなく、ランテには立ち尽くすことしかできない。


「女神の力」


「女神の力?」


「大聖者はそう呼んでたな」


「どの女神のことなんだろう……」


「光呪でも闇呪でもないってことは」


「……始まりの女神?」


 ——あなたと女神の間には、何らかの繋がりがある。


 イベットの声が頭の中で繰り返される。やはり、そうなのだろうか。


「イベットさんに、『力に翻弄されるようなことにならないよう』って忠告されてたのに」


「直前に重傷を負ってたからな。今回のは、おそらくお前自身の意識が飛んだせいだ。気に病むなって。少しずつ手懐けていけばいい」


 手懐ける、本当にそんなことが可能なのだろうか? そのためにどうしたらいいのか? また皆を傷つけたら? 取り返しのつかない事態になったら? 思考は暗いところばかりを巡る。が、今こうしていても始まらない。


「うん……わっ」


 頷いた途端、またしても目が眩んだ。尻餅をついてしまう。少し息が苦しくなった。


「大丈夫か?」


「大丈夫、ちょっと眩暈がしただけ。たぶん貧血かな」


「ああ、それと呪の使いすぎだろうな。大聖者が周りの兵を引かせたからしばらく交戦はないはずだが、無茶はするなよ。少し休むか?」


「ううん、歩ける」


「それじゃ、そろそろ進むか」


 声をかけられて、ユウラとテイトが起き上がる。二人はランテに警戒の目は向けなかったが——途中から会話を聞いていたのかもしれない——まだ乾かない赤い血の染みは陽の光を受けてよく目立つ。セトとユウラの二人には新しい傷が認められた。ランテが意識を失ってる間に何をしてしまったのか、三人は語ることをしないだろう。本当は語って欲しかった。知っておきたかった。


 しかし、言葉で確かめるのはとても怖くて。ランテはついに尋ねることができなかった。

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