【Ⅴ】   守護者

 丘を南東側へ下り、麓で待機する。テイトが丘の上に仕掛けた呪を操れる限界の距離であり、ここが合流場所となっていた。


 時は曙。今しがた日は頭を出したらしく——丘を挟むためその様子を目に収めることは出来ないが——空に光が射し始めた。いっそう輝く丘は徐々に騒がしくなってくる。行軍の音だろう。


「全員、無事か?」


 唐突に響いた声に、三人揃って振り返った。セトだ。ランテは胸を撫で下ろした。無事でよかった。


「どう見てもあんたが一番無事じゃないわよ」


 白い制服に赤い染みはよく目立つ。あちこち出血したようで、特に右足の部分はかなり広範囲に渡って染まっていたが、曰く「全部軽傷で治療済み」らしい。


「ディオンは?」


 ユウラの怪我を癒しつつ、セトが尋ねる。ランテとテイトで簡単に状況を説明すると、ディオンの胸中を思ったか彼は一瞬視線を落とした。


「セト、さっきから聖者の呪力が拾えないんだけど」


「もうすぐ意識戻るはずだ」


「勝ったってこと?」


 テイトが聞けば、セトは何やら複雑な苦笑をする。


「勝ったっていうか、まあ、予定通りだ。相当恨みを買っただろうけどな」


 話によると、油断の隙を突いて死なない程度に加減して斬り、倒れたリエタの傷を癒しの呪で止血したそうだ。


「あの聖者相手にそこまでやれるなんて、さすがセトだ。すごいよ」


 ランテの手放しの賞賛に、セトは笑みを消して苦味のみ残る顔で答える。


「だいぶ嘗められていたし、あっちはまだオレたちを殺せない。格下相手に深手負って、さらに生かされたってなると屈辱の極みだろうが、死なれると困るからさ。今度こそ本気で来るだろうから、できれば顔合わす前に全部済ませたいよな」


「やっぱり強い?」


「まだ底を見てないから正確な見立ては出来ない……けど、呪の発動の早さと威力は桁外れだ。下級でも下手したら致命傷になる。ただ、性格上すぐには殺しに来ない。これはどんなに本気になっても、いや、多分本気になればなるほど、どれだけ残虐に殺すかにこだわるはずだ」


 ランテは花を摘み取って妖しく笑ったリエタと、それを目にしたときの身の震えを思い出していた。二度とお目にかかりたくない、と思う。ユウラが軽く頷いた。


「嫌な敵だわ。でもお陰で付け入る隙があるってわけね」


 そのときふいに、丘から音が洪水の如く溢れた。人の声と、金属音と、地鳴りが混じりあって轟く。日が昇りきり、白軍と黒軍の戦が始まったのだろう。


「聖者が目覚めるまで待つ?」


「いや、ディオンの方やこっちに来られたら困る。早い方がいい」


「分かった。じゃあ、発動させるよ」


 セトとの会話を終え、テイトは一度深く息を吸った。彼が瞼を落とすと、早朝の冴えた空気がさらに研ぎ澄まされる。右手を掲げたのが合図になった。何かが弾けるような音が戦の音を割って木霊して、空の青も丘の緑も全て飲まれて朱色の巨大な炎の渦に取り込まれる。生み出された熱はランテたちのところまで降りてきて、これだけ離れているのに肌の表面が焼かれるような気がした。


「どれくらい時間稼げるかな」


 ランテの呟きを聞いたテイトが視線を背後に遣る。張り巡らされた高い柵の向こうには、大きな木々が互いに絡み合う鬱蒼とした森が広がっていた。頭の奥が、何かに、かすかに呼応した。


「急ごう」


「そうね」


「この先は禁踏区域だ。一度足を踏み入れた者は、って噂も絶えない。気を抜かないようにな」


 佩いた剣に確かめるように触れて、セトが真っ先に足を踏み出す。次にはユウラが、その次にはテイトが続いた。ランテもその後を追う。理由は分からない。が、無性に緊張していた。柵を乗り越え、森に足を踏み入れる。歩みを進めるたび緊張は増して、ランテの中で得体の知れない奇妙な感覚を助長させていく。不安ではなく怯えでもなければ、高揚の類でもない。いや、それらを少しは含むとしても、大部分はもっと別のものだ。


 ひどく暗い。土の香がする。しかし、普通の森とは——たとえば、エルティからヨーダまでに広がるあの森とは——何かが決定的に違った。原因は知れないが、確実に異常だ。長居したくない。


「すごく深い森だ……それになんか……なんだろう、嫌な感じがする」


 落ち着かないままにランテが声にすると、テイトも同じ様子で返事した。


「ランテにも分かる? でもこれ呪力じゃないよね。何かいるのかな?」


「黒獣の気配に近いが、ちょっと違うな。気配よりは呪力に寄ってる。少なくとも普通の生き物じゃない。人が滅多に来ない森に生き物の気配が無いってのも、おかしな話だけどな」


 言いながらセトは周囲を注意深く見渡すが、異変は見つからないらしい。


「生き物じゃないって? まさか幽霊とか?」


「何? あんた怖いの?」


「怖くはないけど、本当にいるのかなと思って」


 誓う者が居るのだから、幽霊が居たってなんら不思議でないと思う。ランテの返答に、セトは「お前は本当物怖じしないよな」と笑い、ユウラは「こういうときに暢気ね」と呆れ、テイトは「なんだ、残念だなあ」と落胆する。


「怖がった方が良かった?」


「幽霊怖がるのなんてアージェ一人で十分よ」


「え、アージェ幽霊駄目なんだ? すごく意外だな」


「意外だよね。なんでも小さい頃——」


「敵地だし、そういう話はまたにしとけよ。本人目の前にして、からかってやる方が面白いだろ?」


 会話が弾みそうになったところで、セトがやんわり制止をかけた。真剣な目に戻る。


「それに、この空気は尋常じゃないしな。テイト、大丈夫か?」


「うん。でも、ちょっと呪は使いにくそうだ。セトは?」


「大丈夫だ。だけど、お前には相当きついだろ? この先も頼りにしてる。無理するなよ」


「了解」


 違和感を覚える理由は、どうやら森に蔓延はびこる呪力のようなものが原因らしい。テイトに呪力読みも少々手ほどきを受けていたが、ランテは彼のようには精密に読み取ることは出来ない。現段階では、付近の呪力の有無をやっと感知できる初歩的なものでしかなかった。確かに、呪力とは言い切れないが、似た力が有るのは分かる。


「……あれ?」


 ふいに、耳元で誰かが囁いた、気がした。三人が立ち止まったランテを振り返り、ユウラが代表して口を開く。


「何?」


「何か、声、聞こえなかった?」


「声? どんな?」


「分からない……何て言ってるんだろ」


 目を瞑り、ランテは聴覚だけに集中する。再び声が聞こえたが、今度は複数の声が重なっていた。男声とも女声とも区別のつかない、大きくなったり小さくなったりしながら鼓膜の内側に直接響くような不思議な声だ。何と言っているかは聞きがたいが、何度か聞いているうちにようやく意味ある言葉だと分かってきた。


「まも……る? 守る、って言ってる?」


 ユウラが、他の二人と顔を見合わせる。誰も聞こえていないらしい。


「何も聞こえないわよ?」


 答えたユウラの後ろに、瞬間、黒い塊が突如現れた。


「ユウラ!」


 ランテは叫ぶことしか出来なかったが、セトとユウラの反応は速い。ユウラは身をかわし、セトが斬りかかる。黒い塊は人の形をしていて、ちょうど首の辺りを斬られ倒れた。ユウラが首を傾げる。


「直前まで気配はなかったわ。誓う者?」


「いや、実体はある。でもこれは生きた人間とも違——」


 セトはそこで言葉を止めた。足元に倒れていた人の形をした黒いものが、頭を擡げたのだ。  


「……急所斬ったんだけどな」


 後退し剣を構え直したセトに倣って、ランテとユウラも武器を取る。テイトも身構えた。黒い影はゆらゆら身体を起こして、再びランテたちの前に立ちはだかった。森がざわめき、影という影からそれと同じ人型の何かが現れる。守る、と繰り返し続ける囁きがランテの耳の内側で大きくなる。


 なぜか、鋭い楔を何本も打ちこまれたような痛みが、ランテの胸を突き刺した。頭の芯が、ひどく動揺している。人のような黒いものの首筋は、剣が通ったままに裂かれていたが、血は流れない。森の中は暗くてよく見えないが、どうやら目や口もないようだ。頭と胸の疼きがひどくなる。


 彼らのことは、知っている気がした。


「本当に幽霊とかそういう系?」


「かもな」


 次から次に黒いものが現れて空間を埋め尽くしていく。距離を取りながら、テイトが提案した。


「走る?」


「ああ。ユウラ、ランテと先行してくれ。テイトはその補助。後ろはオレが」


 指示を受け、ユウラがすぐさま槍を薙いで道を開けた。三体が一度にどかされる。


「行くわよランテ」


「うん」


 駆け出したユウラを追って、ランテも地を蹴った。黒いものは木の合間から次々現れる。走りながら懸命に剣を動かして応戦していると、後ろでテイトが声を張った。


「ちょっと待って、進行方向に力が密集してる場所が」


 ランテもユウラも立ち止まる。ユウラは振り向きざまに二体の胴を一気に断った。さらにもう一度身を返して、槍の柄で上下に分かれた黒い塊を森の奥へ弾き飛ばす。なんとも鮮やかな動きだ。


「避けて通れそうなの?」


 呼吸は一切乱さず、確認を取りつつも彼女は敵を油断なく見据えていた。そんな状況ではないのだが、感心せずにはいられない。この一連の所作だけで経験の差を見せつけられた気分だった。


「分からない」


 今度はセトの声がする。新しい指示だ。


「ユウラ、警戒しつつ進むように。異変があったら知らせろよ。テイトも何か分かったら随時頼む。ランテは引き続き戦闘に集中な」


 すぐ隣に黒いものを見つけて、ランテは剣を振り上げた。が、浅かった。胸の辺りに斜めの傷を負わせただけだ。


「ランテ、倒さなくていいわ。邪魔なものだけ相手して、追いかけて来れないように足を狙いなさい。こんな風に」


 ユウラの付近には、今度は五体いる。身体を捻って大きく槍を振り下ろし、彼女はそれらの足を一度で全て奪ってみせた。


「片足だけでも十分よ」


 悔しいが、ランテに同じ真似はできない。一体一体確実に足を狙おうと決める。


 戦い続けるうちに、ランテは違和感を覚えるようになった。かなりの数を斬ったが全く疲れない。なおもしばらく戦ってようやく理由を発見する。黒いものは抵抗らしい抵抗をしてこない。棒立ちでいて、ランテに斬られるのを待つばかりなのだ。隣のユウラの戦いぶりを見てみる。黒いものは彼女には両腕を振り回して襲い掛かっていた。無抵抗なのはランテが相手のときだけだ。心臓がどくりと大きく波打った。頭の奥に何かがちらつく。耳に剣の音が蘇って——


「セト、近いよ」


 テイトの声に引き戻された。疲れはないはずなのに、息が切れている。手が届きそうだ。もう一歩、しかしその一歩が遠い。


「……動いてるよな?」


「うん、近づいて来てる。どうする?」


「結構速いな。迂回しても追いつかれそうだ。迎え撃つしかないか」


「この奥、少し開けてるわ。そこで迎撃しましょ」


 三人の会話が、どんどん遠くなる。入れ替わりにまた耳で別の音がし始めた。今度は誰かが話している。


 ——……様を、お守りせよ。


 誰を?


 ——ここは我らに任せろ。


 我ら?


 ——早く行け。


 何処に?


 ——無事を祈る。


 待っ——


「【炎上】で囲うよ。多少侵入を防げる」


 気がついたとき、ランテは人が四、五十人集まれそうなほど開けた場所にいた。テイトが周囲に炎の幕を張り巡らせる。森が炎色に煌々と照らし出された。怯んだか、黒いものは寄りついてこない。


 途中で足を動かさなくなったランテは、ユウラが引っ張ってくれていたようだ。


「あ、ごめん……」


「調子悪いの? それとも呪力の使いすぎ?」


 急に噴き出した汗で髪がぐっしょりと濡れていた。袖で拭い取る。身体が熱いのは炎のせいだろうか。心臓の辺りが痛い。ずっと、痛い。


「大丈夫、何ともない」


「顔青いわよ」


「少し……」


「何?」


「……何でもない」


 何と表現したらよいのか分からない。ランテ自身、今自分に起こっている変事の実体を理解しかねているのだ。記憶が戻ろうしているのか? そうかもしれない。でもまだ何も分からない。


 すぐに地響きがし始めた。何かが近づいてくる。ランテはとても逃げ出したい気分になった。これから来るものを、見たくない。見てはいけない気がする。


 やがて、地響きが止んだ。炎を割り裂いて現れたそれは、ランテたち四人の前に大きく立ち塞がる。顔を上げそのものの全容を目に入れると、これ以上ないほどの苦痛がランテの胸を苛んだ。


 知っている。確かに知っている。


 でも、この姿は。形は。


「う……」


 なんと惨い。


「ランテ、下が——」


 ランテを後退させようとしたセトに、無数の腕に握られた、あまたの凶刃が迫った。彼はランテを連れて飛び退ったが、うち一つに右の上腕を捉えられたらしい。薄く血の一線が刻まれ、制服に新しい染みが滲んだ。ランテに構わなければ十分避けきれていただろう。


「速いな。大丈夫か?」


「うん、ごめん。でもオレは……たぶん、狙われない」


 胸が圧迫される。吐き気を堪えて、ランテは意を決して再びそれに向き合った。


 黒い塊。黒い人の集合体。ランテの丈の三倍はある球形をしていて、今はそこから剣を握った腕が大量に延びている。最下部も人の腕の形をしたものに支えられていて、それらを動かすことで移動する。見るもおぞましい異形の姿だった。けれどもランテの中で膨らむ感情は、嫌悪とはもっと別のものだ。


 ランテの様子を見守っていたセトが、顔を上げる。黒いものが迫っていた。一つ振りかぶられた剣を、寝かせた剣で受け止める。


「ランテ、とりあえず下がってろ」


「セト!」


 ユウラの警告の直後、両脇から多数の剣がセトに迫った。彼はランテが下がっていたのを確認して、最初の剣を両腕で弾き返し後ろへ逃れる。


「待って、オレが!」


 そのまま攻勢に転じようとしたセトを、ランテが止めた。


 聞こえるのだ。守る守ると連呼する声が。戦ってはならない。剣を収め、ランテはそれの前に立った。


「何で……何でこんな……」


 震えきった声が、ひとりでに零れた。


「ランテ、あんた泣いてるの?」


 ユウラに言われてはじめて、ランテは自分が涙を流していたことを知る。溜まった雫を追い出すために目を閉じれば、ふっと蘇った光景があった。


 今と同じ炎の海の中。剣を手に、銀色の鎧を着こんで、淡い紫のマントを翻し、勇ましく何かに立ち向かおうとする騎士ら——


 ——屈するな! 王都を守れ!


 彼らだ。彼らなのだ。


「少しだけ思い出したんだ。この人たちは王都を守ろうとしてるだけだ。昔、オレはこの人たちに……助けられた気がする」


 俄かに信じがたいといった様子で、セトが再びその黒いものを見上げた。


「人……なのか?」


 テイトが陰った顔と声で答える。


「かつては人であったもの、かもしれないね」


「ずっと……七百年ずっと、ここに? ここで王都を守り続けて」


「……ランテ。この人たちはもう」


「うん、分かってる。でもまだ守るって言ってるんだ。こんなになっても……」


 呪詛のように繰り返される言葉に身が震えた。彼らはこの言葉で彼ら自身を縛りつけてきたのだ。死して、人としての身体が朽ちた後も。ひとえに役目を果たすため、自らの意志で。


 胸はひどく痛む。だが、心から敬意を払うべき行いだった。


「葬ってあげたほうがいいかもしれない。黒いのはきっと黒女神の力を受けてるからだ。黒女神の力は怒りと悲しみとを糧とする。こうして存在し続けていても、辛いだけだと思うよ」


「だけど……」


 テイトが言うことも分かるが、ランテは頷けないでいた。


 ——我らは必ず王都を守る。この身が朽ちようとも、必ず。


『守る、守る、守る、守る、守る』


 虚ろな声は悲しく耳に木霊する。確かに苦しいのかもしれない。けれども、そのために存在し続けてきたなら。


「守らせてあげたい」


 悲しみに埋もれたまま消えるより、役目を果たして、本当の意味で救われてから解き放たれたほうが、きっと報われる。救われる。


「王都を守るためだけに、こんな風になっても在り続けてきたんだ。最後まで守らせてあげたい」


 剣を振りかぶってそのまま固まっていた一つの腕に、ランテは手を延ばした。触れる。肌の内を走る血潮は感じられず——とっくに心臓は止まり、血も涸れ果てているのだろう——空気と変わらない温度をしていた。


「オレたちは、王都を……守りに行く。戦わなくていいんだ」


 黒いものは微動だにしない。どこを見て話せばよいのか分からないから、ランテは上から順に視線を落としていった。


「まだちゃんとは思い出せないけど、オレはきっと、あなたたちに助けられた」


 ——また、生きて会おう。


 途切れ途切れにしか思い出せずに、何のことかはやはり掴めない。けれども無性に悲しくて、ランテの目は勝手に涙を流し続けている。こんな形で再会することになってしまったけれど。


「ありがとう」


 気づけば口にしていた。知らない誰かが乗り移って、ランテの口を使って言ったようだった。あのとき——遥か昔、彼らに言いそびれた言葉だ。


 黒いものは少しの間ランテを見つめ——目はないが、おそらくそうだろう——そうして、静かに去っていった。


 テイトが炎を消せば森はもう静かで、黒いものは残らず姿を消していた。

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