【Ⅳ】-4 侮慢

「やっぱり足をもらおうと思うのよ。それであなた、どうして欲しい? 蔓で縊り切ってもいいし、引っ張って千切ってもいいわよね。それから私、最近剣も始めたのよ。切り落とすのは時間がかかるでしょうけど、一番血が出そうよね。ああ、でも、そうだわ、あなた癒しの呪を使うんだったわね。じっくり時間を掛けてると治されちゃうかしら? うふふ、どうしましょう」


 立てかけてあった細剣を手に取って、リエタは一人楽しそうに喋り続ける。その目には溢れんばかりの狂気が宿っていた。


 緑呪は高位の呪でなければ威力が低く、使い手は稀少だ。セトも今まで一人にしか出会ったことがない。敵として相対するのは今回が初めてだった。覚えたきりほとんど使ったことがない知識を呼び戻す。敵は聖者だ、一瞬の遅れが命取りになるやもしれない。


「ねえ、答えてくれないと寂しいわ。……そうね、いいわ、始めましょうか」


 リエタが右腕をすっと掲げた。足元に呪の気配を感じ取って飛び退る。豪奢な絨毯を突き破って太い蔓が現れた。対象を蔓で絡め取るだけの下級呪【芽吹】であるはずだが、先は鋭利に尖っていて、人の肌程度なら簡単に裂いてしまいそうだ。これだけで使い手の力量が窺える。


「うふふ、ちゃんと勉強しているようね。感心よ。緑呪をきっちり知ってる人間って少ないから、私がどれだけすごいことをしているのか中々分かってもらえなくてね。嬉しいわ」


 表情で考えを読み取られたようだ。激戦区を一任されている聖者だ、それくらいのことはできてもなんら不思議ではない。


 実力差は理解した。考えなしに戦っていては、まず夜明けまでは持つまい。とにかく、この部屋で戦えば退路を断たれ追い詰められるだけなことは確かだ。廊下側へは先ほど北の兵を逃がした。また、そちらへ出ては動き回るうちに北の兵舎へ、つまりユウラたちと出くわすことにもなりかねない。と、すれば。視線を移す。


 先に風を走らせ、セトもすぐに後を追った。妨害しようと再び現れた蔓を、足を止めることなく剣で断ち切って、さらに進む。リエタの脇を通り過ぎて、風が割った窓へ。後から伸びた蔓が追いかけてくるのが分かったが、頓着しない。そのくらいには自分の速さを信頼している。


「場所を変えたいのなら言ってくれれば良かったのに。私だって丹精込めて造り上げた兵舎を、木っ端微塵にはしたくないもの」


 外に降り立ったセトを割れた窓越しに見て、リエタは口元に片手を当てるとくすくす笑った。直後轟音がして、兵舎の壁の一部が崩壊する。何本も組み合わさった蔓が、鞭のように撓って壁を打った結果らしい。緑呪とは思えない破壊力だ。


「早速木っ端微塵になってますけど?」


「いいのよこれくらいは。にしても、やっぱ速いわねえ。どうやって捕まえようかしら。あんまりちょこまか動き回られると、夜明けまでに——ああ、そういうこと」


 粉塵が収まったところで、リエタが瓦礫を踏み分けながら出てきて徐々に色を薄めていく紫を見上げた。


「あなたの役目は、夜明けまでに私を倒すか、足止めをすることね?」


 取り繕うつもりなど始めからない。


「そうです」


「じゃあ、お仲間さんが今の間に王都に向かっているのかしら? でも……あら? 違うようね。北の兵舎にいるようだけど。変なことしなくたって、王都までは自由に行かせてあげるのよ? まあ、本当はその前に毒をもらってて欲しかったのだけれど。後始末が楽になるし、血も好きなだけ流してもらえるしね」


 これ以上考えさせては危険だ。セトは剣を一振りして蔓を切ったときに付着した水分を飛ばし、構え直す。


「今はオレの相手をお願いします。あなたの戯れに付き合わされて死んだ兵の仇が取りたいので」


 敵うなら、本当に仇を取ってやれればと思う。意味のないことだとしても、このままでは死んだ兵たちがあまりに浮かばれない。けれども、ここで感情に流されるままに目的を見失ってしまっては、中央を止める一縷にして唯一の希望を失うこととなる。それだけは何としても避けなければならない。


「弔い合戦? いいわよ、私、そういうの好きよ。かかってきなさいな」


 細剣を抜いてリエタは両腕を広げた。罠としか思えないが、遠距離で呪での戦いになれば見込みはない上、消耗する。ここで攻めない手はなかった。セトは剣を強く握り、地面を蹴った。当然のように、今度は茨が地中から芽を出して急速に成長すると迫ってくる。先ほどよりは速いが、まだ追いつかれるほどではない。


 剣が届く位置まで詰めた。加減する気は毛頭ない。踏み込んで、腕を振り抜いた。だが、刃がリエタを捉える寸前、突如宙に現れた花が包み込むようにして彼女を覆い守るのを目にする。中級防御呪【花冠】だ。花弁に剣が触れた瞬間、衝撃が手首、肘、肩を順に駆け上った。完全に阻まれている。硬い。


「この程度も斬れないなんて、ずいぶん非力ね?」


 閉じた花に遮られてくぐもったリエタの声がする。


「……あいにく技巧派なもので」


「副官さんを連れて来てたら良かったわね。彼女ならきっと貫けたわ。だけど副官さんの場合は、茨から逃れられるかどうか分からないけどね。速さを立てれば力が立たず、力を立てれば速さが立たず、世の中上手くいかないものね」


 白軍の戦士の中でも、セトは標準程度の腕力しか持たない。ハリアル、アージェ、ユウラ、フィレネ、そしてランテ。よく手合わせをするその中の誰もに、純粋な腕の力では敵わない。彼自身それをよく理解していた。補うために磨いたのが速さであり、技であり、呪であり、知識知略である。


 茨がセトを貫こうと群れを成して襲ってくる。彼は半身になって巨大な蕾と迫る茨の双方が確認できるように位置取った。躱す素振りがないのを知ってか、茨は捻じれるようにして一束になると一直線に向かってくる。セトは柔らかく握った剣を水平に構えた。茨を受け止め、その力に抗わず、わずかに剣を動かして軌道を逸らし、受け流す。いなされた攻撃は術者に牙を剥いたが、【花冠】は身を守る代わりに視界と身動きを犠牲にする呪だ、リエタに躱す術はない。一塊になった茨は硬い花弁にめり込み、罅を生じさせる。


 その様を視界の端に確認しながら、セトは後ろへ大きく跳躍していた。茨の動きを止めると共にリエタの【花冠】の強度を把握するのに成功する。茨の力に若干上乗せしたほどの威力であれば、破ることが出来よう。蕾を跳び越えたところで身体を捻り、跳躍距離を延ばすために宙で返る。着地と同時に剣を両手でしっかりと握り、再びリエタへ向かった。茨は止まり、注意すべきものはなくなった。足に全霊を注ぐ。求めるは、【疾風】に頼らないで出せる最高の速度。今度は腕力ではなく、速さで斬るのだ。


 一閃。すれ違いざまに斬り抜いた。手ごたえがあった。剣の切っ先が赤く汚れている。セトが振り返るのと、亀裂が走って粉々に砕け散った蕾からリエタが現れたのは同時だった。腕を浅く斬ったらしい。


「まさか私の方が先に血を流すことになるなんて……予想外だわ」


 わざわざ敵が体勢を立て直すのを待つ義理などない。続けて攻撃に移ったセトだったが、今度は茨が防御に回る。剣で相手をしながら片手で【風切】を放ったが、リエタは蔓を呼んで防いだ。先ほどの【花冠】のときもそうだったが、呪の発動速度が尋常ではない。大聖者ほどではないにしても、それに近いものがある。


「私ね、人の血を見るのは好きなのだけど、自分の血を見るのは嫌いなのよ。こんな風によく毒を使うから、ほら、あんまり綺麗な色じゃないのよ。ね? あなたも怪我人をよく診ているでしょうから、分かるでしょう」


 確かに、リエタがこちらへ見せてきた手のひらは、静脈血にしても暗すぎる色をしていた。


「ごめんなさいね。私、あなたのことを侮っていたようだわ。本気を出したら知らない間にバラバラになっているんじゃないかって……でも、その心配はなさそうね。これからは全力でお相手するから許してくれるかしら?」


 妖艶に微笑み、リエタは剣呑な気配を纏わせた。思わず後退する。広範囲に呪力が振り撒かれるのが分かった。今から安全に範囲外へ逃れることは至難を極める上、距離を取りすぎて兵舎の方へ向かわれては厄介だ。そうでなかったとしても、広範囲攻撃は細かな位置指定が難しいため、この場に留まって防御を固め、安全地帯を探す方が賢明だろう。


「ふふ、肝が据わっているのね。だけど判断ミスよ」


 地面の震動が呪力を読むための集中を阻害する。あちこちで土が盛り上がり、太く長い茨が続々飛び出した。上級呪、【花茨】。より速い。反射神経を研ぎ澄まし、何度も回避を繰り返す。時には間一髪になることもあった。


 息が切れてきた頃、ようやく震動が収まり、茨も止まった。素早く周囲を見渡すと、変わり果てた景色がセトの目に飛び込んできた。視界一杯に花をつけた茨が蔓延っている。棘は小さいものでも短剣の刃ほどあり、下手をすれば触れるだけで深手を負いかねない。今セトが立つ場所には身体を少しばかり前後させるほどの空間しかなく、動きは著しく制限されてしまった。


「血の匂いがしないわね……まあ、無傷なの? ほんと、最近の若い子は侮れないわねえ」


 前方の茨が左右に分かれ、開いた道を歩んでリエタが寄ってくる。このままではただの的だ、どこか広いところへと思うが、敵の視界に捉えられている今背を向けるのは単なる自殺行為にしかならない。


「うふふ、判断ミスって言ったのはね、私はここであなたに逃げられる方が困ったのよ。【疾風】を使えば、多少の怪我は負っても範囲外へ逃れることが出来た。だけど私はあなたがそうしないだろうこともよく分かっていたわ。何だか呪を使うのを渋っているようだし、何より私があなたを見失えば、あなたの部下たちを消しに行くものね。いい副長さんだけど、もう少し考えた方が良かったんじゃないかしら」


 顔の横の棘が、ぴくりと動いた。咄嗟に身を屈める。突如延びた棘は頭上を掠めて、別の茨へ突き刺さった。深緑の汁が、草特有の渋い匂いを発しながら滴り落ちる。


「私の【花茨】から逃れることは不可能よ。ここにある全ての棘があなたに迫るの。さあ、あなたの血、見せてもらいましょうか」


 四方八方、どこを見ても棘だらけだった。回避のしようがない。腰を上げて体勢を立て直しながら、セトは覚悟を決めた。致命傷さえ避けられればそれでいい。幸い、夜明けまではもう幾許もなかった。リエタの性格からもすぐに急所を狙われることはないと思われる。まだ時間は稼げるだろう。


「追い詰められているのに、その顔は何?」


「これくらいのことは慣れてますから」


「じゃあ、これまで経験したことがないほどの恐怖を味わわせてあげるわ」


 周囲の棘の半数が一斉に伸長する。セトは【風守】の強度を上げ、防ぐことは敵わないながらいくらかそれらの動きを鈍らせ、大半をやり過ごした。が、やはり無傷とはいかず、左肩と右肘、左腰、右脛に決して浅くはない切り傷を負う。それでも貫通を免れただけで御の字と言えた。


「ああ、ここから見ていても分かるわ。思った通り、綺麗な赤い色ね。とってもいいわ。やっぱり毒は使わないで正解よ。それだけの価値がある色だもの。ねえ、もっと見せて頂戴」


 リエタが近づくたび、茨が彼女を避けて道を作る。もう少し、あと少し引き寄せる必要があった。彼女が右手を掲げると、両脇の棘が二本、反応する。先ほど避けた棘も邪魔になり、今度は身体を動かすこともままならない。片方は威力を一つの刃に集中させた【鎌鼬】で切り落としたが、もう片方は右大腿を深く削ぎ取った。


「……っ」


 軽く血飛沫が上がる。苦痛の声はどうにか押し殺した。血が足を伝い流れ落ちていく。リエタが満足げに微笑んだ。


「あら、痩せ我慢しちゃって。痛かったら声を上げてもいいのよ? 悲鳴は女の子のものの方が好きなんだけど、別に遠慮しなくてもいいわ。……ふふっ、それにしてもいい色ね。早く心臓にこの剣を突き立ててしまいたくなる」


 リエタとの距離が、七、八歩ほどに縮められた。間を隔てるのは五本にも満たない茨だけだ。目を閉じた。呼吸を落ち着かせて、一度深く息を吸った。ここからだ。集中する。


 呼吸を止めて【風守】を切る。右足を癒しながら強引に棘の包囲から抜け出して、リエタ目掛けて進路を拓くために【風切】を放つ。続けざまに呼んだ風に乗って彼女の背後まで回り込み、セトは剣を振り上げようとしたが、強い血の臭いのせいか、すさまじい勢いで茨が追尾してきた。リエタの顔もこちらを向く。再び捕まる訳にはいかない。安全策を取ることに決め、またも風を呼んだ。退避しようとしたのだが、茨はほとんど遅れず追いかけてくる。速さではまだ若干上回っているとはいえ、距離は少しずつしか開かない。これでは【風守】を切って気配を殺そうとも徒労に終わり、すぐに居場所が特定されてしまう。


 空が白み始めてきたのが、茨の合間から見えた。じき日が昇る。このまま集合場所に向かっても、役目を果たしたことにはなるだろう。だが、リエタには軽い手傷を一つ負わせただけだ。ほとんど消耗もしていないだろう。このまま去れば、彼女はこれから黒軍と戦うとはいえ、帰りの際の脅威となるのは目に見えていた。それに、犠牲になった兵たちのこともある。欲をかいてはならないのは重々承知していたが、退くか攻めるか、一考の余地はあった。


 茨の森の出口付近まで近づいたところで風を止め、セトはあえて道から逸れたところへ入り込んだ。急拵えの稚拙な策であったが、セトは自分の左手首に剣を宛がって、引いた。傷口を下へ向けて溢れた血をわざと地面へ零し、手早く止血を済ませてその場から離れた。さすがに息が持たず少しばかり毒の舞う外気を吸ってしまうが、自分の身体であれば解毒も易い。しばし様子を見守り、茨が自分ではなく今しがた作られた血溜まりの方へ集まっていくのを確認して、傍の別の茨の陰へ身を隠した。先ほどリエタの前から逃れたとき、いくつかの茨はセトを追わず、足を伝って流れた血の方へ向かっていたのを彼は発見していた。ただの【花茨】にはそのような効果はなかったはずだが、異常なまでに血を好む使い手の性癖を反映しているのだろう。


「てっきり逃げたと思ったのに……あら?」


 茨に腰かけて到着した本人もまた、気配や呪力よりは血の臭いを優先して敵を探ろうとしたらしい。降り立つと、血溜まりを貪る茨の群れを見て首を傾げた。近くにより強い源があり、さらにこちらは風下、嗅覚では現在のセトの居場所を追えるはずがなかった。剣を握り、十分に狙いを定め、さながら暗殺者のように息を殺して陰から滑り出す。リエタは全く気づかないで、うっとりとしたまなざしで滲む朱に手を延べていた。時間は有り余るほどにあった。


 殺せていた。


 負けを知らない者が、遥かに格下を相手にしたときにのみ生じる侮慢から来る、奇跡のような好機だった。これほどの機会が、二度来るとは到底思えない。しかし彼女は総指揮官、激戦区の戦いの要だ。この地の守りが崩れたらどうなるかを考えると、それでも殺すわけにはいかなかった。


 どこをどれだけ斬られれば人は死に、どこをどれだけなら斬られても死なずに済むのか。そしてどのくらい斬ればどの程度の打撃を与えられるのか。多くの怪我を見て来た癒し手だからこそ、セトは知り尽くしていた。


 丁寧に加減された剣を背に受け、リエタはゆっくり地へ堕した。

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